「あんばら庵」から

日記

 
  
  
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(2004年2月18日現在8章まで更新)
(その後、休んでいます。近々再開の予定)
   日記は、2003年4月15日より開始し
    本日(2008年4月15日)周年を迎えました。
    
     
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2006/05/31    庭を見ているだけの日
急に気温が上がり、洗濯物などには良いが、疲れた体にはこたえる陽気になる。庭の雑草も増えているが、強い光線の中、作業をする気にもならず、ただ眺めているだけである。
 
その庭は、三寸菖蒲の花が終わり、何株かのアジサイが蕾を膨らませている。なかの一株には「隅田川の花火」という名前が付いている。去年の母の日に、息子夫婦から送られた鉢植えが根付いて、今年も蕾を付けている。額アジサイの一種だが、額の部分が大きくて派手な感じから、この名前が付いたと思われる。白い花が咲いた山吹は新しい枝を伸ばしている。
そう言えば昨日、菊野さんとこの山吹の話をしなかった、と思う。
この山吹は、三年前、菊野さんとハイキングした折に、実生の苗を、いただいてきたものである。今年初めて咲いたのだが、彼女の家のはどうなったろう?
ミニ薔薇がふた鉢ある。一つは薄いビンク、一つは濃いピンクと白のしもふりである。山百合の芽がすくっと伸びている。蕾が三個、四個と付いている。
梅ノ木にぶら下げてあるせっこくの花は終った。今年の花は例年になく大きく、数も多かった。日照が少なかったのが、良かったのか?花もそれぞれ好む環境が違うようだ。お礼の液をかけてやらなくてはならない。ハイポネックスを薄めたもので十分だが、今日はやる気がしない。
 
たまには見ているだけ、思うだけ、という日があっても良い。今日は休養日なのである。An
 
2006/05/30    生誕110年、吉屋信子展に行く
神奈川近代文学館の吉屋信子展に行く。生誕110年、−女たちをめぐる物語ー、というサブタイトルが付いている。同行者は三田文学の友人菊野美恵子さん。
前夜にも、朝にも、彼女から電話があった。N先生を亡くしたあとの私の体調が心配だったらしい。私は、大丈夫よ、と言って出かけた。
 
吉屋信子さんの晩年、私は目と鼻の先のご近所に住んでいた。それでクローバーという美容院でよくお目にかかった。そのときはすでに、トレードマークとなったおかっぱ頭で、一月に一度ぐらいは切りにいらしていたようだ。そのころは、ちょうど三島由紀夫が文壇を賑わしていたころで、私は三島作品や第三の新人と言われる方々、安岡章太郎氏、遠藤周作氏、吉行淳之介氏らの作品を読み、吉屋さんの作品は読まなかった。
話はさらに戦後に遡るが、昭和21年から22年にかけて、小学生だった私は千葉県の市川市の親類の家に身を寄せていた。駅の周辺には闇市が並んでいたが、その一角にバラック建ての本屋があり、そこにしばしば立ち寄った。その店の棚に、吉屋信子さんの「花物語」など乙女小説がたくさん並んでいたことを覚えている。何冊か買って読んだかも知れないが、おませな子供で当時は江戸川乱歩、横溝正史らの小説に夢中だったから、深い印象を持たなかった、と思う。
 
それらの印象が、今回の吉屋信子展で払拭された。まず第一に、女性でありながら、当時の性差別に立ち向かい、小説を書き続けたその一生に敬意を表したい。若いころの写真も多く展示されていた。晩年とは違うエネルギッシュな表情があり、特に鋭い眼光には魅せられた。何があっても、書く、という強い意志が籠められていたのだと思う。
女流作家たちとの集いも盛んで、服装も和装、洋装と二通りだったが、みな競うように着飾っていた。それだけ女流作家が注目されたのだろうか、テレビなどの映像文化がなかった時代、彼女たちの作家としての意識が感じられもした。
以前この館で、志賀直哉氏の写真を見たときも書いたが、最近の写真の複写、引き延ばしなどの技術が勝れていて、作者の表情から内面が読み取れるようになっている。貴重な文献の保存もさることながら、これらの写真展示も引き続き頑張っていただきたい。
 
館を出てから、菊野さんとお茶を飲んだ。もう少しエネルギッシュに文学論を戦わしたかったが、言葉が行きつ戻りつして、うまく喋れなかった。まだ大分疲れている。しかし、良い外出にはなった。
神奈川近代文学館、次は中野孝次展である。An
2006/05/29    スポーツマン同志通い合うもの
午後、一ヶ月ぶりでエステのKさんに体をほぐしてもらう。Kさんは、ご主人ともども「あんばら庵」の日記を読んでいてくれて、今回のN先生の急死はご存知だった。しばらく二人でその話をした。
Kさんのご主人は伝統空手家だと以前書いたが、N先生が柔道着のまま亡くなったことに、ご夫婦ともに感銘を受けたという。
スポーツマン同志、通い合うものがあるのかもしれない。
それは、N先生の三か条の一にあるように、一生を賭けての好きな仕事、に繋がる問題だという。早すぎた死はまことに残念だけれども、好きな柔道をして、お仲間と歓談中に倒れたということは、不幸中の幸いだった、と話し合った。
 
ご夫婦で建てている新築の家は、早くもキッチンの造作を入れる段階になっているという。施術の部屋が完成すれば、私はその部屋に通うことになる。それは初秋ぐらいになるだろう、と話していた。
夕食は、残り物の牛肉でビーフストロガノフを作った。玉ねぎなどに加えて、生のトマトを二個入れたせいか、良い味が出て家族にも好評だった。Kさんの新しいキッチンはどんな風になるのだろう?An
2006/05/28    テレビ番組の録画
家族は早朝からゴルフに出かけ、そのあと息子は義理の祖母のお悔やみに出かけた。私は、良い休息が出来ると、喜んで留守番を引き受けた。N先生の死以来、体にショックが残っているようで、疲れやすい。血圧にも気をつけなくてはならない。
 
しかし、近くのゴルフ場だったので、家族は三時半ごろには帰ってきた。コーヒーを入れているうちに娘が頼んでおいたDVDを持ってやってきた。一昨日と昨日、二回にわたって放送された「ザ・ヒットパレード」という番組の録画である。これは昭和30年代の芸能界の話で、家族が録画をして欲しいと頼んだ。我が家にはプレイヤーはあるが、レコーダーはない。私の新しいコンピューターにも、レコーダー機能があるらしいが、まだテレビチューナーを接続していない。書斎の壁面にアンテナ口を取り付けていないので、町の電気屋さんに頼むのを面倒くさく思っているうえ、もし接続したら、コンピューターでテレビを観てしまい、原稿書きのさまたげになるかも、と思い、まだ電話もしていない。
 
テストしてみると、「ザ・ヒットパレード」の録画はよく撮れていた。ドラマ仕立てだが、その時代に起きた大きな事件なども挿入されていて、良い資料にもなる。婿殿に礼を言ってくださいと伝えた。
五時過ぎに、三人でスーパーに行きながら散歩をして、駅で娘を見送った。An
2006/05/27    孫たちの曾祖母が亡くなる
昨夜、息子の奥さんの祖母、孫たちにとっては母方の曾祖母に当たる方が亡くなったという。すでに九十歳を越えられた方だが、少し前まではお元気に過ごされていた。孫たちとも親しんでいて、大バーバ、とは呼ばずに、お名前をちゃん付けで呼んでいた。
四世代が健在だったことを、ずっと素晴らしく思っていた。親の縁が薄かった私には羨ましいご一家であった。
不祝儀続きだが、こればかりは仕方がない。しかし、本葬儀は関西になるということで、私は欠席させていただくことにした。
 
午後、喪服のすそ直しなどの件で、隣りの市まで車を出した。孫たちのパジャマ、その他バーゲンセールの品をいくつか買った。途中、ガソリンを入れたが、料金が高くなっているのに驚いた。生計のことを考えると、泣いてばかりもいられない。これでも私は一家の主婦である。An
2006/05/26    恩人は、英語でBenefactorと、言う
N先生のご葬儀は、お供物、お供花などは、一切受け取らなかった。カードに住所氏名、所属団体などを書き込み、受付に差し出し、記帳をさせて頂いただけだった。
祭壇にはたくさんの花が飾られていたが、その花々にも、入り口の周辺にも、供花した者の氏名や肩書き、会社名などを記した札は掲示されていなかった。先生がご家族に残されたご遺志からと思われるが、会社の宣伝などの、この世の俗を離れた、まことに清々しいご葬儀であった。悲しみのなかにも、心に刻んでおきたい葬儀の風景であった。
 
第四金曜の今日、英語のレッスンと、鎌倉ぺンクラブ・サロンと二つ用事があったが、どちらも欠席して家で心身を休めた。実際には、行く気が湧いてこなかったのである。
それでも午前中はまだ行く気があって、先生の死についての英語のスピーキングを用意した。
恩人は、Benefactor
心筋梗塞は、Cardac infarction
などなど。
こんなスピーキングを作っているだけで、さらに悲しくなり、いやになった。午後、ベッドで眠った。An
2006/05/25    御棺に「のぞみ会」会員の名簿を
昨日書き残したことだが、「のぞみ会」の会長さんは、先生の奥様に、会員全員(約四百名)の住所氏名が掲載されている名簿をN先生の御棺に入れて下さいとお願いしたと言う。それも一番数が多かった時のものを、と話していた。
ご出棺の時は、慌しかったので確認はしていないが、きっと御棺のなかに入れてくださったと思う。会員一人ひとりの気持がいっぱいに詰まった感謝の名簿でもある。
 
そんなことを思いながら、今日は休養の一日となった。しかし、疲れてはいるものの、ここ数日間の衝撃が強く、頭は冴えてしまっていて眠れない。近くのクリニックに血圧を測りに行ったが、今月から第四木曜が休みになったとのことで、本日休診の札を見て、あっ、そうか、と思い、ぼんやりと家に帰ってくる。
 
ふと気が付いて、昨日の葬儀の折、写真屋さんの会員からもらった先生の写真を取り出し、我が家の十字架の前に置く。額の中に飾りたい、と思ったが、先生に相応しい良い額がない。それに、まだ生きている先生の記憶が強く残っていて、写真を拝みたいという気持があまり湧いてこない。子供が駄々をこねるように、「写真なんて、いやだぁ…」という感情も湧く。同時に年齢相応の理性も湧くのか、目はあちこちの棚や引き出しに向いて、額を探している。
 
ようやく決まったのは、額縁に花が縁取りされているカラフルで華やかな額だった。今はお花をたくさん捧げたい。しばらくはこの額に入っていただくことにして、写真をセットし、祭壇に置いた。夕方スーパーまで歩いたので、そこでミニひまわりの花を買ってきて、花瓶に挿し、お写真の前に供えた。
一体、なにをやっているのか、自分でも良く分からないところがある。それでも、こうしているうちに時間だけは確実に過ぎていく。An
 
2006/05/24    告別のミサ、姉の墓参りも出来た
N先生の告別式は午後一時半からだったが、正午には式場に到着した。
一つ目的があった。せっかくイグナチオに来るのだから、姉A子の墓参りをしようと思っていたのである。姉の墓は、このイグナチオ教会、大聖堂の地下にある。新式のマンション形式の墓になっていて、「クリプタ」と呼ばれている。正面には、小さな祭壇もあり、薄いクリーム色の棟がたくさん並んでいる。この一角に姉が眠っている。花も何も持ってこなかったが、エレベーターで地下に降り、クリプタに入った。
姉の墓はすぐに見つかった。
そこで少し祈り、しばらく姉と話した。N先生とのお別れは悲しいが、姉と話が出来て良かったと心から思った。
「また来ます」
と言って、クリプタを後にした。
 
昨夜の通夜はお話と献花だけで、ミサはなかった。今日の告別式はどうかと思っていたが、入り口で渡された式次第を見ると、聖体拝領の項目があり、ミサが行われると分かった。私は聖体拝領をするつもりだったので、ほっとした。参列者の数は昨夜の通夜とほぼ同じであった。「のぞみ会」で顔なじみの方々も、連日の疲れも見せずに集まっていた。夕方から崩れると伝えられている天気もまだ保たれていて、空は晴れていた。
 
私は「のぞみ会」の女性会員たちと、ひとかたまりになって聖堂内に腰掛けた。ミサは毎日曜のミサと同じに進行した。
神父のお話は昨夜とほとんど変わらなかったが、一つだけ心に残ったことがあった。
それは、聖書を例にとってのお話だったが、人の死に対し、
「時は来た」
という言葉だった。
N先生の享年は七十二歳だから、早過ぎる死、ということを思うのは人情だが、定められたものとして受容しよう、というように諭されていた。親しい者の死を悲しむのは当然だが、その死を出来る限り受け留めるように努力しよう、そして祈りましょう、と話されていた。
 
聖体拝領のとき、私は前に出て行った。神父から聖体を拝領して席に戻ったとき、涙があふれた。手術をしていただいた日から、数えて八年四ヶ月目に、まさか先生の告別式で聖体拝領をするとは思わなかった。しかし、先生と同じ信仰を持ち、聖体拝領が出来て本当に良かったという気持も湧いた。実家の母、婚家の母の顔も浮かんだ。実家はクリスチャン、婚家は仏教徒だが、N先生を通じて一つになったという思いになった。長い行列になった参列者の献花が続き、告別式は終った。
 
「のぞみ会」の方々とご一緒に、ご出棺のお見送りをさせていただいた。最後にかける言葉は、
「ありがとうございました」
以外なかった。黒い車が走り出したとき、天気が崩れる前兆のように、遠くに雷が鳴った。雨はぽつりぽつりと降り始めた。しかし大雨にならないうちに車は走って消えた。
N先生の霊名(クリスチャンネーム)は聖ラファエル。私の命の恩人であった。An
 
2006/05/23    聖イグナチオ教会にて通夜が行われる
N先生は、二十代後半に、留学中に洗礼を受けられたと聞いている。下宿先のご夫婦が敬虔なクリスチャンだったそうで、その影響と、ご自身がこれから外科医の道を歩くために、何か心の支えを持つ、ということで信仰の道に入ったと聞いている。先生の患者への愛、そして難しい手術成功の元は、ここにあるのだと思う。
 
しかし、私は最初この話を知らなかった。先生との縁は、家族が小学校の同級生だったことから始まったからである。入院中、隣のベッドのご婦人からその話を聞いたときはとても驚いた。なんという偶然か!
神に感謝したことは言うまでもない。
 
大聖堂にての通夜は、午後七時に始まった。集まった方々は、想像以上に多く、ドーム型の大聖堂の座席が全部埋まり、さらに立っている人がいるほどであった。患者の会「のぞみ会」の人々は一様にショックを受けていて、その死を知らされたときは、夜眠れなかったと言う。手伝う予定があったが、人数は足りたようで、私は会社から駆けつけた家族やその友人、作家のS氏などと一緒に、座席で神父の話を聞いた。
 
それに寄ると、N医師には三つの教訓があったそうである。
1.人の幸せとは、生涯続ける一つの仕事を持つ、ということである。
2.人の幸せとは、奉仕をすることである。そして決して恩に着せないことである。
3.人の幸せとは、すべてのものに愛情を持つことである。
 
この教えは、慶応義塾大学の創始者、福沢諭吉をこよなく愛した父君の教えによるもの、と神父は付け加えていた。教訓を口にするのは易しいが、それを実践するのは難しい。先生はまさに精神と肉体でこの教えを実行した人だと思う。
 
参列者は、お別れの聖歌を歌い、一人ずつ白い花を捧げた。聖歌の音楽が流れるあいだ涙がとまらなくなった。先生の死を受け容れようとしているが、まだ気持は落ち着いていない。せっかく助けていただいた命なのだから、これからも生きていかなくてはならないのだが、今はまだ悲しくて仕方がない。
しかし、幸いなことに、聖堂を出るときに、N先生のお弟子さんのK先生に声をかけられた。
「これからの診療は、どうなるのですか?」
「当分は、私が対処いたします」
少しだけほっとして、家路に着いた。An
2006/05/22    柔道着のまま、この世から……
今日になって分かったことは、N先生は、柔道の試合が終ったあと、畳の縁に座って歓談中に倒れた、ということである。
先生は、小学校六年から柔道を始められ、医学生になってからも続け、ニューヨークに留学してからもあちらで日本の柔道のデモストレーションを行った方なのである。外科医は体力が大切、という信念のもとに、難しい手術を行うようになっても、柔道を続けらていれた。
 
先生は、柔道着のまま倒れ、救急車で運ばれたが、一時間後に亡くなったという。病名は心筋梗塞。今朝の各新聞には、先生の死亡記事が載っていた。精神力、体力ともに優れ、愛に満ちたすばらしい先生であった。
 
午後、私は隣りの市に喪服を買いに行った。友人たちが見立ててくれて、幸い良い品が見つかった。
しかし、気持はまだ落ち着かない。
明日が通夜、明後日が告別式となる。
どちらも四谷の聖イグナチオ教会で。An
2006/05/21    突然、N先生の訃報を聞く
八時のミサ。晴れ。この教会は八幡宮の段かずらに近く、通りかかったら、人力車に乗った花嫁花婿が写真撮影されていた。晴れやかな笑顔で、こちらも縁起の良い気分になった。
ミサの司式は、先日の師と違っていたが、やはり日本人の方だった。お歌がお上手なうえに、お話のときの声もはっきりとしていて、ぜんぶ聞き取ることが出来た。
テーマは、
「互いに愛し合いなさい」
シンプルであるが、とても意味深いものである。
 
帰りはいつものごとく、八百屋市場によって野菜をたくさん買い、歩いて家に着いた。
家族が私の顔を見るなり、
「N先生が亡くなった」
と言う。十分ほど前に連絡があったと言う。
「えっ、なんで?」
「心臓らしい」
N先生は私のがんの執刀医である。手術の前後ばかりでなく、約十年、どれだけお世話になったか、たくさんの愛をいただいたか、表現しきれないほどだ。
 
すぐに「のぞみ会」の会長さんに連絡するが、すでにお出かけとのこと。お留守の方にお言づけをして電話を切った。
とにかくお丈夫な先生で、どこも悪くないと常々おっしゃっていた方なのである。
(どうして?)
と繰り返しながら、過す。衝撃が強く、考えもまとまらなかった。私から連絡すべき人には、Faxを流し電話もした。涙はまだ瞼の縁で止まっているようで、泣くことも出来なかった。An
2006/05/20    庭のせっこくが満開になった
早朝より原稿の最終的なチェックをして、昼ごろに終る。どこまで書いても、満足という水準にはならないが、これ以上は今の私の能力では出来ない、というところまでは書いた。フロッピーと走り書きの手紙を添えて、梱包し郵便局へ行く。
普段なら、これで一安心するところだが、土壇場で何が起こるかも分からず、「やったあ!」という気分になれない。苦労した分、慎重になっているのだろう。しかし、まあ、ほっとしたことは確かだ。
 
帰ってからは、家事が待っていた。休日の家族の食事作り、洗濯その他いろいろとあったが、嬉しいことに、今日は庭の梅ノ木に吊るしてあるせっこくが全部満開になっている。白がほとんどだが、雨の多い天候がせっこくに合うのか、例年より花が大きくその数も多い。中でピンクも二輪ほど咲いていた。ともかく見事なのである。丹精が実ることは、なんにしても嬉しい。
 
午後、家族と歩きで買出しに出かけ、夕方はまた海浜公園を歩いた。ちょうど夕焼け時で、時々足を留めてその風景を眺めた。雲の切れ間に沈む間際の太陽が燃えていて美しく、なんとなく手を合わせたい気持になった。
なお、先日書いた公園の土手のクローバーは、全部刈り取られていた。こうすると来年また良く咲くのかもしれない。来年また歩いて観察してみようと思っている。An
2006/05/19    第六十回日本文藝家協会総会、懇親会
雨という天気予報が外れて、有楽町界隈は晴れていた。何年か前道に迷ったが、今回は最短距離を歩いて到着した。
総会出席者は六十数名、なかなかの盛会であった。普通のことなら、数字は苦手と言うところだが、こと文芸に関しては、そうも言っていられなく、どのような経理状態によって、この会が運営されているか、を真剣に聞いた。著作権問題などは、従来の教科書ばかりではなく、DVD、書道展、などにも話し合いが進められているとのことで、心強い限りであった。
 
懇親会では、冒頭に、会員である俳優の小沢昭一さんのお話があり、大道芸に関するエピソードを一同たのしく拝聴した。それから乾杯となり、歓談が始まった。お顔なじみの方、初めての方などとワインを飲みながらお話させていただいた。
窓際のほうに、色々な種類のフードコーナーがあったが、カロリーの少ない日本そばだけを食べた。
三田文学夏季号に、拙作が載ると、何人かの方にお知らせした。お読みいただければ幸い、と思っている。
帰り道の有楽町もまだ晴れていたが、家に着くころにはもう降りだしていた。元気に参加できた会合であった。An
2006/05/18    「言葉の駒」を行きつ戻りつさせて
予報どおり雨になる。
午後に美容院の予約をしてあるのだが、朝からデスクに向って、早めに一段落着いたので、傘を差して少し散歩をした。いつもの海岸公園の遊歩道を歩きはじめたのだが、やはり傘が重くていやになった。
遊歩道は一回りしか歩かず、家に帰ってきた。気分を切り替えて、軽食を取った後、美容院に行った。
シャンプーをしてもらっていると気持ちよく、そのすっきりした頭で、ほぼ暗記している原稿の「言葉」を、頭のなかでさらに入れ替えたりした。「言葉」を入れ替えるを、さらに厳密に言うと、「言葉の駒」を行きつ戻りつさせたのち、定着させることで、一人将棋をしているようなものだ。悪い頭も、今回ばかりは目一杯使っている。
 
美容院が終わって、家に帰ってまたデスクに戻った。An
2006/05/17    クローバーの一部が刈り取られていた
明日は美容院の予約をしてあるので、プールには行かれない。行くなら今日の午後だ、と思ったが、デスクの仕事の進行上、どうしてもプールに行くことができなかった。プールは髪の毛の始末があり、どうしても二時間は必要なのである。その上少しばかり疲れが残る。
それで、やはり海岸を歩くことにした。
いつもは遊歩道を一回りなのだが、今日は三回周った。歩くうちに公園の一部が変わっていることに気づいた。北側のクローバーが、刈り取られてしまっている。機械で刈ったように、金具の筋目がついていて、しかも刈った草がそのまま残されていた。そこにホオジロらしき鳥が集まっていて、刈り取ったものをついばんでいる、という有様だった。
 
クローバーが土手に、蔓延ってはいけない事情があるのだろうか。芝生の公園にするためなのか。他のクローバーもやがて刈り取られる運命にあるのだろうか。同じところを歩くと、単調でつまらないときもあるが、思いがけない変化もある。明日もまた来てみよう。
 
デスクはやはりもう一息。磨き上げるほど、少しの欠点も気になって、また磨いている。An
2006/05/16    散歩の途中、三度同じ人に会う
午後、散歩に出ようと裏口を開けたら、以前ゴルフスクールでお世話になったFさんと会った。犬の散歩とのことだった。
私は、海に向う道を歩いて、昨日の公園に行き、また遊歩道を回った。広い通りに出て、スーパーへ向う道で、またFさんと犬に出会った。犬はブルドックの小型犬で、おとなしそうであった。
スーパーで買い物をして家に戻りかけたら、また学園前の信号でFさんと犬に会った。顔を覚えられたのか、ブル君は尻尾を振っていた。
「早いね」
Fさんは笑っていた。いくら狭い町でも、三回も同じ人に会うと照れくさい気持になる。もうゴルフはやらないが、懐かしい気持が湧いた。
 
デスクの仕事は、もう一息、である。An
2006/05/15    クローバーが満開の公園を歩く
一日中、机に向っていたので、夕方海に面している公園を散歩した。ちょうどクローバーの花が満開で、小高い丘、平地の野原も真っ白になっていた。ひとり若い娘さんが、花を摘んでは編みこんでいくネックレスらしきものをこしらえていた。子供のころ私も作った覚えがあるが、編み方はもう覚えていない。遊歩道を一回り歩いた。途中、四葉のクローバーを一つ見つけた。それをバッグに仕舞いこんでまた歩いた。
それからスーパーに寄って、買い物をし、家に帰った。An
2006/05/14    朝から雨の音
朝から雨の音を聞く。口実にするわけではないが、ミサは欠席した。
家族の食事を作ってから、また少しデスクに向った。
しかし、体を動かさないとよくない。夕方プールに行こうと思っているので、早めに夕食のシチューを煮はじめた。これで思いきり体を動かすことができる。一時間ほどで煮終わって、仕度をして出かけた。
プールで、亡くなった友人の夫君Tさんに会った。最近、娘の婿殿と仕事をした、と言っていた。少し話したが、あとは黙々と水中歩行をした。
早く作って、夜暖めたせいか、シチューは味が染みておいしくなっていた。忙しいわりには、家族に嫌われない程度の、食事は作っているつもり? である。An
2006/05/13    雨で寒い土曜日
雨の土曜日となる。しかも寒い。ファンヒーターを点けたが、灯油の残りが少ないと気づく。一軒電話して留守で、二軒目でやっと配達してもらえた。季節はずれの寒さは困りものだ。
雨はかなりひどく、家族と二人で買出しの車を出した。そして最近お気に入りのRスーパーに行く。ここだけが雨に濡れないで、買い物が出来る。市内の駅近辺は、場所がないこともあって、駐車場があっても店内までかなりの距離を歩く。信号を渡るところもある。道路も比較的空いていて、雨にしては楽な買出しだった。
 
買出しの前後は、引き続き、ワード2003と睨めっこした。
松井選手の手術は無事終わったらしい。An
2006/05/12    空いた道路を走って、英語に
二週間ぶりに英語に行く。
八幡宮近辺の道路は、GWが過ぎてだいぶ空いた。早めに着いたので、パーキングしたスーパーで、鉢の台、草花の土、防虫剤、などの、かさの張る園芸用品を買い、車に詰め込んだ。
これで、レッスンが終わった後は、食料だけ買えば済む。
 
レッスンはそれぞれのゴールデンウイークの話をして時間になった。私は、先日、トレッキング・スティックを買い、早速家族と歩いて、ニュー・スティックを使用した、という話をした。三段階の長さになるので、伸縮性と言おうとしたら、adjustable、と言えばよいと教えてくれた。
帰りの道路も空いていた。
 
英語の前後は、昨日に続き、ワード2003と睨めっこ。
なお、ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手が、今朝、左手首を骨折、と報道された。An
2006/05/11    ワード2003の原稿と睨めっこ
少し眠い。
早起きしたからではなく、昨日の疲れが残っているようだ。それでも午前中からデスクに向う。一生懸命やることを、よくがんばる、と言うが、小説書きは、やたらがんばってもだめなのである。視野がせまくなり、全体像が見えなくなる。弱気になる、言葉の切れが悪くなる、など数々の弊害が生じる。だから、出来ればよく休んでから書くほうが良い。
 
しかし、休憩を試みたが、日中でもあるし眠ることは出来なかった。頭がボーっとしていたが、少しずつ無理しないで訂正、そしてチェックを進めた。
散歩がてら、近くのスーパーまで行ったが、後は家に居てワード2003(このたび、2002〜2003にグレードアップした)の原稿と睨めっこしていた。An
2006/05/10    良い作品にしなくてはならない
家事をし終えてから、また「夏の響き」を読む。出かける時間ぎりぎりまで読んで、結局その本を持って、家を出た。車中でも、降りる駅の手前までは読んでいた。時間が短く感じられた。
 
駅から編集部までは歩いて行った。北側からも回れるのだが、大学の正門から入り、キャンパスの真ん中を通り抜けて行った。キャンパス内の銀杏の葉が、その緑を誇るように延びて広がり、空が見えないほどになっていた。すれ違う男子学生の髪の毛は(ヘヤースタイルと言うべきか)、ほとんどその空に向かって逆立っていた。流行とは言え、可笑しかった。
 
編集長は、拙稿の気になったというところを、さらにご丁寧にチェックしてくださっていた。そこで、一人でしばらくそのチェックに目を通した。記号、言葉、鉛筆のラインなど、不明のところは質問してくださいとのことで、質問事項をメモ用紙に書き出した。
それから、改めてお顔を合わせて、質問のお答えを聞いた。小説はどこまで書いても完全と言うことはない。まだ磨き上げる余地はある。それをやり遂げなくてはプロとは言えない、と感じながら。
質問が終わった後、カトリック作家について、少しお話が出来たのは幸いであった。これからの私の作品についても、さらに真面目に考えなくてはならない、と思い、先の道が開けたようにも、思った。
 
帰り道、やっと嬉しい気持ちが湧いた。
最悪の場合、ドタキャンならぬ、ドタ没もあると思っていた。少なくともそれだけは免れた。感謝する分だけ、がんばって、良い作品にしなくてはならない。An
 
 
2006/05/09    「夏の響き」佐藤洋二郎著(集英社)
お掃除のTさんが来てくれる。
連休後のことで大いに助かった。家の中がすっかり綺麗になった。私は孫たちのパジャマなどをたたみ、次に来るときまでに箪笥に仕舞った。もしかすると、次までに一つサイズの大きいパジャマを買っておかなくてはならないか、と思う。こちらが考えるよりも。子供の成長は早いのだ。
 
午後、読書をする。
佐藤洋二郎著「夏の響き」(集英社)である。以前、佐藤氏が、三田文学誌に載せていた小説よりもだいぶ読みやすくなった作品と思う。福岡近郊を舞台とした小説で、玄界灘、遠賀川などの風景が優れた感性のもとに描かれている。まだ、三分の一ほどのところなので、完読したら、改めて書く。
読書はまた、自分の心も落ち着けてくれる。自分も小説を書いていることを忘れ、こうして小説を書き、一冊の本にした人は、本当に偉いなあ、と感心してしまう。どれだけ考え、推敲したことか。どれだけの労力を払ったことか。裏側の努力を想像すると、私はまだ未熟だ、の一語に尽きる。
 
それでも、小説は読んでいると楽しく、励まされる。昨日より少し元気になった感がある。An
2006/05/08    普通の日に戻った途端、忙しくなる
今日から普通の日が始まった。家族は出勤し、私は家に残った。
その家への仕事の連絡は、およそ3件。
2件は、家の中の修理関係の職人から。
場所は、1.キッチン、2.風呂場、である。
昼ごろと午後に来て、
1.は修理完了し、2.は、明日また来るということになった。
 
一件は、私への編集部からの電話。
お預けしてある私の小説に、まだ足りないところがあると言う電話だ。少しショックを受ける。
しかし、疑心暗鬼になるのは良くないと気づく。相手を信じること、そして謙虚になることが大切、と思い直す。
 
こうして書いていると、なんでもないようだが、今日は職人から電話が入ると思い込んでいたので、ベルが鳴り、取った電話が編集長と気づいて、気持ちを切り替えるのに数秒かかり、微かながら動揺し、緊張もする。短い時間にエネルギーが消耗されるのがわかる。
連休ボケをしていたわけでもないが、まだまだ甘いのか。
買い物など、用事を済ませてからだったから良いが、しばらく身動きが出来なくなり、食欲もなくなった。
編集部には明後日うかがう、と約束をした。
 
今日は、午前中、息子夫婦にもらった寄せ植えの鉢四個を一つにまとめ、外に置いた。なかなか綺麗である。家の中では、去年いただいたアマリリスが咲いた。今の所二輪である。An
2006/05/07    ゴールデン・ウイーク終わる
昨日は、後半娘夫婦が来てくれて助かった。両親の居ないあいだ、孫たちはおじ、おばにへばりついていた。
婿殿に、問題のビデオを見てもらった。ついでに私のニューパソコンもご披露した。
夕食は八人でにぎやかに済ませた。
夜になって、娘夫婦は帰っていった。
 
今日はゴーデンウイークの最後の日、そして日曜日。
しかし、朝からミサに行く暇もなく、あわただしい時を過ごす。上の孫は残っている宿題を片付けた。そして仕度をして昼前に家を出た。
「バイバイ、またくるね」
元気な声が、路地に消えていった。
 
一休みしてから、私はプールに行った。よく働いたとはいえ、全体的な運動はしていない。40分ほど水中を歩いてから、シャワールームでシャンプーしたら、とてもさっぱりした。
夕食のとき、ワインを一杯だけ飲んだ。これで、わたしのゴールデンウイークも終わった。An
2006/05/06    孫とお話を作って遊んだ
昨日よりさらに早めに、息子夫婦は外出する。「大丈夫ですか」と心配していたが、今日もまた二人を預かることにする。どうしてもしなくてはならない用事なので、子供連れは能率が悪い。
今日は電車で、と言うので、私鉄の駅まで家族と送る。そのまま、家族、私、孫二人で駅前まで歩く。最初にS書店に入り、カードなど細かい買い物をした。それから、レンタルビデオ店に行った。孫たちと時間をつぶせるビデオを借りるためである。
そこで、私は一つ失敗をした。
正月休みには、確かに孫たちと子供アニメのビデオを見た。だから今回も頭からビデオと思った。
しかしながら、四ヶ月のあいだに我が家には変化があった。
それは娘婿が、二月の私の誕生日に、DVDのプレイヤーを贈ってくれたのである。そして、テレビと接続までしてくれた。
そのときに、
「ビデオの接続は外して良いですか」
と言われ、
「ええ、いいですよ」
と答えていたことをすっかり忘れていたのだ。つまり、せっかく「クレヨンしんちゃん」のビデオを借りたのに、家ではすでにビデオが見られなくなっていたのである。
気が付いたのは帰り道のことだった。
上の孫に「意味ないじゃあ」と言われたが、後の祭りだった。
 
慌てて、娘にメールをしたが、電話やメールでは教えられないとの返事に、私は困った。何とか場つなぎをしなくてはならない。たったの七歳だが、絵本作家になりたいと言う上の孫と、本気で向き合おうと思った。
「バーバとお話を作ってみよう」
「うん」
「Yちゃんは、しゅじんこう、という言葉を知っているかしら」
「知らない」
「アンパンマン、のしゅじんこうは、アンパンマンなの、ドラえもんのしゅじんこうは、ドラえもんなの」
「ふうん」
「いつも、お話のまんなかにいるひとのこと、を言うの」
「ふん」
「しゅじんこうの名前と、だいめい、と違うこともあるの。たとえば、『ひみつの花ぞの』、のしゅじんこうは、メアリー」
「ふうん」
「Yちゃんの作るお話の、しゅじんこうを先に決めよう。男にしようか、女にしようか」
「女がいい」
「年は」
「子供、ななさいぐらい」
「なんて、なまえにしよう」
ちょうど、ホットケーキを食べていた。
「ホットケーキちゃん、にする」
「きょうだいは」
「いる」
「弟、妹?」
「おとうと、がいい」
「なんさい?」
「ごさい」
「なまえは」
「クレープくん」
「きまり」
 
この話はぜんぶ書くと長くなるので止めるが、結果として、
『ホットケーキちゃんの遠足』
というタイトルが決まった。
季節は、これも孫の希望で春、家は、普通のうちが良いとなった。
ともかく、苦肉の策であったが、孫は一生懸命考えてくれて、楽しいひとときであった。An
2006/05/05    孫たちと一日過ごす
朝食前に、家族と二人で孫たちを連れて海岸を散歩する。下の孫はまだ良く分からなくて、海に行く、言えば水着を着て水に浸かると思っている。あいにく海岸は住宅地より風が強く、肌寒いくらいだった。波打ち際まで行くと、下の孫も諦めたらしく、水に浸かりたいとは言わなくなった。
上の孫は、「わかめが拾えるの?」と家族に尋ねていたが、早春の季節も終わり、それらしい海草は見当たらなかった。そのうちに風が強くなり浜辺を引き上げ、海岸道路沿いの公園に入った。
 
しばらく来ないうちに、公園の隅に滑り台、ブランコ、鉄棒が出来ていて、そこで孫たちはしばらく遊んだ。上の孫は、鉄棒の逆上がりを一回、下の孫は低いほうの鉄棒で足掛け一回転を見せてくれた。帰り道、犬の散歩の時間なのか、たくさんの犬たちに出会い、孫たちは喜んでいた。
 
帰ってから朝食。それから孫たちはパパと近くおもちゃ屋さんに行き、それぞれのものを買ってもらって帰ってきた。
昼過ぎ、息子夫婦はよんどころない用事があり、孫たちを私たちに預けて、車で出かけた。出かけるとき、孫たちは新品のおもちゃに夢中で、両親を追うこともなかった。下の孫は、40ピースのディズニー・パズルを買ってもらい、それを組み立てるのに大わらわであった。
大人が思うより、子供の知能は発達していて、考える楽しみも知っているようであった。そばに居て、少しだけ手伝ったりして、パズルは二回も完成し、一枚の絵になった。
 
孫の両親が戻るまでに、私はキッチンでホワイトシチューを拵えた。やがて帰ってきた息子夫婦は、私に少し早い母の日のプレゼントをくれた。寄せ植えの花のかごだった。お母さん、ありがとう、のメッセージもあった。ゴールデンウイークが過ぎたら、庭の鉢に植え替えよう。たのしみである。An
2006/05/04    息子一家来る
早朝、またも八百屋市場に行く。青い葉の付いた新たまねぎなどを買う。小さくて火が通りやすいので、丸ごと煮てスープにすると美味しい。
帰ってから、階下だけ掃除機をかける。孫たちが来ると、どうせ散らかしてしまうのだが、一応綺麗にしておく。家族は庭で雑草取りを始めた。赤のフリージアが満開の庭である。
 
孫たちの移動は、横浜のママの実家からで、昼ごろには到着の予定になっている。しばらくすると横浜でご飯を食べていると電話があった。約一時間で路地に息子一家の顔が見えた。孫たちはおそろいの服を着ていて、可愛らしかった。
家に入る早々、上の孫はもうじき誕生日なので、目当てにしているプレゼントをあれこれと口にした。しかしまだ迷っているらしい。ゲームやトランプをしようとも言う。大人同士の会話もそこそこに、トランプの神経衰弱を始める。
 
私は途中から、キッチンに入り料理にとりかかった。材料はしっかりと買い込んであるから、後は作るだけである。まず、小さなたまねぎの葉を落とし、フライヤーで煮はじめた。人参も加え、スープの素を入れた。そのうちに孫たちのママが加わり、作業はメインディッシュへと移行した。
下の孫は夕食のころから、とても眠がっていた。移動で疲れたのだろう。上の孫は少し興奮していた。An
2006/05/03    GWは各家庭の人口が増える
天気予報が訂正された。ゴールデンウイーク後半の天気がくずれるという予報が、何とか日曜まで持つ、と変わった。天気次第で外出する、と言う人もあるだろうから、混雑は予想されるが、まずは結構な話だ。青空に鯉のぼりが舞う風景は、古今東西見ていて気持が良い。
 
早くも我が市内で混みはじめているところがある。それはスーパーマーケットである。
出かける人に対して、受け容れる人が居るのは自然の理だが、食料の買出し人が極端に増えている。しかもその量が多い。我が市では、各家庭の人口が、増えてしまうようだ。のんびりと観察しているのではない。夕方とか、遅くなって買い物に行くと、スーパーの棚に、めぼしい品が無くなってしまうのである。昨日は、孫の好きなブロッコリーとバナナが午後四時には無くなっていた。
 
そんなわけで、今日は午前中から、家族と二人で買出しに出かけた。
駅近くの八百屋市場、そしてお気に入りの精肉店に行った。精肉店は明日から三日間休みとのことで、幸いであった。何種類か買い込んで、野菜もたくさん買った。さやえんどうの緑が冴えていて、みずみずしかった。往復とも歩いて家に戻った。
後は料理上手のママと孫たちの来るのを待つばかりである。An
 
2006/05/02    ホームページがやっと移動した
パソコンのサポートセンターは、東京のみではなく、全国的に広がっているらしい。今朝9時に電話したとき、そちらはどこですか?と尋ねたら、沖縄です、と言われて驚いた。
最初の作業は、東芝(旧パソコン)に作ってもらった共有ホルダを開き、中味をそれぞれ右クリックしコピー、デスクトップの何もないところを右クリックして、貼り付けた。
それから、1.マイドキュメントの移動は、
編集、ファイル、インポート、参照、場所を選んで、次へ、次へとクリックし、完了、になった。
 
ホームページのサポートの電話は、また別の場所である。しかしこの移動は、早くからCDにバックアップしてあったので、スムーズに出来た。質問されたのは、
保存場所をどこにしますか?
前と同じ、マイドキュメントでいいですか?だけであった。
はい、と答えて、新しいほうの同じホームページを起動して、無事に終了した。
 
ほっとして午後少し眠った。An
2006/05/01    データ移動は大詰めに
今日から五月。新パソコンへのデータ移動は大詰めに来ている。合間合間に緑を楽しんでいるが、終わったら思いっきり、良い空気を吸いたいと思っている。
 
サポートセンターへの電話が続いた。左手で電話を持ちながら、右手でメモを取っている。時にボールペンを離して、マウスも持つ。今回の作業で、走り書きだが、大学ノートで15ページものメモになった。
 
今日、移動がかなったものは、
1.筆ぐるめの住所録、四種
2.お気に入り
3.マイドキュメント
4.outlookの送受信の記録
などである。
 
最後にプリンタの接続も移動した。これはプリンタ設定のCDを私が失くしたため、E社のホームページから、ダウンロードすることになり、それで、コードを旧から新へ差し替える結果となった。双方使える方法もあると知っているが、今のところはこれで良い。
あと一日でほぼ終わる予定である。An

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Last updated: 2009/7/2