知ってたつもり?


1  
更新日時:
2009.01.12 Mon.
2   『 TV 西遊記 』
更新日時:
2010.01.04 Mon.
「西遊記」はこれまで、TV(テレビ)の上だけでも何度か映像化されている。
私の知るかぎりという事で、幾(いく)つか紹介してみたいと思います。
 
先(ま)ず実写ドラマから
面白い事に、何故かタイトルは皆、まんまの『西遊記』ばかり。
1978年10月から日本テレビ系で放映された『西遊記』は、堺正章の
 孫悟空、西田敏行の猪八戒、岸部シローの沙悟浄、故(こ)・夏目雅子の
 三蔵法師。子どもでも楽しめる極上(ごくじょう)のエンターテインメントに
 仕上がった。ゴダイゴの歌う主題歌「モンキーマジック」「ガンダーラ」も
 大ヒット。翌年にほぼ同じキャスト(猪八戒は左とん平)による続編が
 作られ、その後も日本テレビでは本木雅弘(宮沢りえの三蔵法師)、
 唐沢寿明(牧瀬里穂の三蔵法師)がそれぞれ孫悟空に扮(ふん)した
 スペシャルドラマが作られている。それにしても、本来「三蔵法師」は
 男性なのですが、これ以降、何故か美人女優が演じてきています。
2006年1月からフジテレビ系で放映された香取慎吾の『西遊記』。
 沙悟浄に内村光良、猪八戒に伊藤淳史、三蔵法師に深津絵里。
 妖怪退治という物語の性質上、特殊(とくしゅ)メイクや特撮(とくさつ)が
 あるわけですが、CG(コンピューター・グラフィックス)の技術は矢っ張り
 凄(すご)いですね。だからこそ、悟空が誕生してから五行山に閉じ込め
 られるまでの話も、映像化してほしかった。それと、三蔵法師は馬で旅を
 するはずなのですが、深津さんは馬に乗れないのでしょうか?
 
続いてアニメーション
1967年1月からフジテレビ系で放映された『悟空の大冒険』。
 虫プロダクション製作のスラップステック作品。
1978年4月からフジテレビ系で放映された『SF西遊記スタージンガー』。
 オーロラ姫は、ジャン・クーゴ、サー・ジョーゴ、ドン・ハッカの3人とともに、
 ギャラクシーエネルギーを復活させるため、遙(はる)か宇宙の彼方の
 大王星に向けて、旅を続ける・・・・・・。松本零士の原作、須田正己の
 キャラクターデザイン、製作は東映(東映動画)。
1986年2月からフジテレビ系で放映された『DRAGON BALL』。
 7つ集めると神龍(シェンロン)が現れどんな願いも適(かな)えてくれる
 というドラゴンボール。尻尾(しっぽ)の生えた少年・孫悟空(14才)は、
 ブルマ(16才)に誘(さそ)われて、一緒(いっしょ)にドラゴンボール
 捜(さが)しの旅をすることになった・・・・・・。原作・鳥山明。
 『DRAGON BALL(ドラゴンボール)』は、「西遊記」をヒントにしては       イラスト/名付けて「ゴクウ特戦隊」 !?
 いますが、全(まった)く別のお話です。ですから、本来「孫悟空」という
 まんまのネーミングは、元ネタを知らないちびっ子の事を考えれば、        以上、敬称略(けいしょうりゃく)。「TV年表」の方に更(さら)に
 付けてはいけない名前なのですが・・・・・・。                  ・・・・・・詳(くわ)しい放映日時のデータを記載(きさい)していますので、
                                                  合わせて御覧(ごらん)下さい。
最後は人形劇
1977年10月からTBS系で放映された『飛べ! 孫悟空』。           ・・・・参考資料/1988年徳間書店発行『TVアニメ25年史』
 ドリフターズの顔そっくりの人形(コピーパペット)が、それぞれ三蔵          2005年日本テレビ放送網発行『日テレドラマ半世紀』
 法師(いかりや長介)、孫悟空(志村けん)、猪八戒(高木ブー)、           ジャンプ・コミックス『ドラゴンボール』 一、二、六巻
 沙悟浄(仲本工事)となって、様々(さまざま)な人に出会い、数々の       ・・・DVD『西遊記(香取慎吾・主演)』 @〜E、劇場版
 怪物、化け物に遭遇(そうぐう)しながら、珍道中を繰り広げる               ・・『ドラゴンボール』 @、A
 バラエティーショー。勿論(もちろん)、人形の声も本人たちが担当。         昭和52年10月11日(火)付け、朝日新聞・朝刊のTV覧より
 ところで、肝心(かんじん)の加藤茶人形は何の役だったのか?                                  (コラム製作’10.1/4)
 そう、加藤茶は加藤茶自身を演じたのだ。禿(はげ)頭に丸メガネ、
 シャツに腹巻きという「ちょっとだけよ!」のキャラクターで、一緒に
 旅をするのだ。これぞギャグ! 
 また、主題歌は当時人気絶頂だったピンクレディーが歌っていました。
 
 
3   『 木下監督と黒澤監督 』
更新日時:
2009.08.03 Mon.
優(すぐ)れた新進監督に贈(おく)られる山中貞雄賞。
1943年、2人の新人監督がこの賞を分け合った。
1人は、『姿三四郎』でデビューした東宝の黒澤明さん。
もう1人は、『花咲く港』でデビューした松竹の木下恵介さんである。
2人は期待に違(たが)わぬ活躍をし、戦後の日本映画界を
リードしてゆくのである。
 
黒澤明さんは、1910(明治43)年3月23日、
東京市品川区東大井町に四男三女の末子として生まれた。
秋田県出身の父は陸軍戸山学校を出た陸軍体育教官で、
誕生当時は荏原中学理事だった。母は大阪市出身。
’28年、神田の京華中学(現・高校)卒業。
’36年、P・C・L(後の東宝)助監督募集の新聞広告を見て応募し入社。
’43年、『姿三四郎』で監督デビュー。
’44年の第2作『一番美しく』で主演女優・矢口陽子(加藤喜代子)
とは、翌年5月に結婚する。
’46年3月に始まった東宝の労働争議のため、他社での製作を余儀
(よぎ)なくされる。’52年、東宝製作に戻るまでの間、大映で『静かなる
決闘』『羅生門』、松竹『醜聞(スキャンダル)』『白痴(はくち)』を
撮(と)っている。また、木下監督の『肖像』の脚本も書いている。
さて、その『羅生門』であるが、国内での評価は必ずしも高くなかったが、    イラスト/ もし、監督自身が主人公を演じていたら?
来日していたイタリアフィルム代表・ストラミジョリー女史の強いすすめで、     左上『楢山節考』 「おっ母(かあ)、おらの心にも雪が降っているだ」
大映が’51年9月の第12回ヴェネチア国際映画祭に出品してグランプリ  ・・・ 右下『用心棒』 黒澤さんは撮影用の強いライトから目を守るため
(金獅子賞)。一躍“世界のクロサワ”として脚光を浴び、さらに’52年3月、    サングラスをしていた。また、当時の日本人にしては外人並に背が
第24回アカデミー賞最優秀外国語映画賞となる。             ・・・・・・・・高かった。威圧感は充分!
グランプリ受賞後、『生きる』『七人の侍』『天国と地獄』『赤ひげ』など、
日本映画の黄金期を飾る多彩な作品を発表した。                    2人の全作品
しかし、完璧(かんぺき)主義で妥協(だきょう)を許さない黒澤さんの      1943年 姿三四郎 花咲く港 生きてゐる孫六
やり方は、「金と時間がかかりすぎる」と非難する映画会社とたびたび   ・・・1944年 一番美しく 歓呼の町 陸軍
衝突。黒澤作品のスター、三船敏郎も「三船プロ」をつくり、離れていった。  ・1945年 続姿三四郎 虎の尾を踏む男達
’64年の東京オリンピックを機にテレビ受信者が急増、              1946年 わが青春に悔なし 大曽根家の朝 わが恋せし乙女
つれて日本映画の低迷深まり、黒澤は国際合作に向かう。しかし、       1947年 素晴らしき日曜日 結婚 不死鳥
『暴走機関車』の製作中止、『トラ!トラ!トラ!』の途中降板と不調。    ・・1948年 酔いどれ天使 女 肖像 破戒
’69年、「いい映画作り」を目指して木下恵介、市川崑、小林正樹と     ・・・1949年 静かなる決闘 野良犬
“四騎(シキではなくヨンキと読む)の会”を結成、自ら第一作として               お嬢さん乾杯 四谷怪談 破れ太鼓 
初のカラー作品『どですかでん』を発表するも、興行的に振(ふ)るわ ・・・・・・・1950年 醜聞 羅生門 婚約指輪(エンゲージリング)
なかった。’71年12月22日、自宅でカミソリ自殺を図(はか)る。      ・・・1951年 白痴 善魔 カルメン故郷に帰る 少年期 海の花火 
しかし、飽(あ)くなき創作意欲で復活。’75年、ソ連映画『デルス・      ・・1952年 生きる カルメン純情す
ウザーラ』で2度目のアカデミー賞最優秀外国語映画賞、’80年に  ・・・・・・・1953年 日本の悲劇     
『影武者』でカンヌ国際映画祭グランプリを獲得した。       ・   ・・・・・・1954年 七人の侍 女の園 二十四の瞳         
                                           ・・・・・・1955年 生きものの記録 遠い雲 野菊の如き君なりき                    
木下恵介さんは、1912年12月5日、静岡県浜松市千歳町に          1956年 夕やけ雲 太陽とバラ  
食品店“尾張屋”の五男二女の四番目の子として生まれた。           1957年 蜘蛛巣城 どん底 喜びも悲しみも幾歳月 風前の灯    
’30年、静岡県立浜松工業を卒業、オリエンタル写真学校を    ・・・・・・・・・1958年 隠し砦の三悪人 楢山節考 この天の虹   
経(へ)て、’33年、松竹蒲田(かまた)撮影所に入る。          ・・・・・・1959年 風花(かざはな) 惜春鳥 今日もまたかくてありなん       
島津保次郎監督などについて仕事。                     ・・・・・・1960年 悪い奴ほどよく眠る 春の夢 笛吹川                 
’40年に応召(おうしょう)し中国を転戦、                   ・・・・・1961年 用心棒 永遠の人               
’41年、病(やまい)のため復員。                         ・・・1962年 椿三十郎 今年の恋 二人で歩いた幾春秋                    
’43年、『花咲く港』で監督デビュー。                       ・・・1963年 天国と地獄 歌え若人達 死闘の伝説               
その作風は常に時代の動きを敏感に反映し、何らかの新味を盛り    ・・・・・1964年 香華(こうげ)
込むが、’51年には日本最初の長編色彩(=カラー)映画を監督する    ・・・1965年 赤ひげ
栄誉を担(にな)い、『カルメン故郷に帰る』を撮っている。          ・・・・1967年 なつかしき笛や太鼓。     
また、’54年度の「キネマ旬報」ベスト・テン(この映画紹介専門誌が    ・・・1970年 どですかでん
毎年行っている恒例行事)では、『二十四の瞳』1位『女の園』2位と、  ・・・・・1975年 デルス・ウザーラ
ひとりの監督が1、2位を占めるという快挙を成している。             1976年 スリランカの愛と別れ      
因みに、3位は黒澤明の『七人の侍』。                      ・・・1979年 衝動殺人・息子よ                 
しかし、『香華』の後、『戦場の固き約束』の撮入直前に、「金がかかり  ・・・・・1980年 影武者 父よ母よ! 
過(す)ぎる」「中国人が主人公の映画なんて」という松竹社内の         1983年 この子を残して  
空気に嫌気(いやけ)がさして、製作を中止して退社し、フリー宣言。  ・・・・・・1985年 
映画に見切りをつけて活動をテレビに移した。                ・・・・・1986年 新・喜びも悲しみも幾歳月        
自ら興(おこ)した木下プロダクションで、’64年から’67年まで     ・・・・・・1988年 父 
『木下恵介劇場』を12シリーズ手掛ける。この後、『木下恵介アワー』・・・・・・・・1990年  
『人間の歌シリーズ』と活躍、“ドラマのTBS”を築く力となった。     ・・・・・・1991年 八月の狂詩曲(ラプソディー)  
巨匠監督の中でいち早くテレビの媒体価値を認める目利きぶりだった。・・・・・・1993年 まあだだよ 
弟は木下さんの全作品の音楽を担当した木下忠司さん、              
妹は木下作品のカメラマン・楠田浩之夫人で脚本家の楠田芳子さん。 ・・・・・・1998年9月6日、黒澤明さんは世田谷区成城の自宅で脳卒中の
                                                ため死去した。88歳。長男・久雄さんは黒澤フィルムスタジオ代表、
「男性映画の黒澤、女性映画の木下」と評(ひょう)された2人は、      ・・・長女・和子さんは黒澤プロに籍(せき)をおいている。
その監督人生も対称的であった。黒澤作品が数々の国際映画賞を     ・・・同年12月30日、木下恵介さんは港区麻布の自宅で脳梗塞(のう
受賞し「世界のクロサワ」と賛辞されたのに対し、木下作品には         こうそく)のため死去した。86歳。独身を通し、養子と孫がいる。
1つもない。唯一(ゆいいつ)、1958年のヴェネチア国際映画祭に
出品された『楢山節考(ならやまぶしこう)』は、グランプリ最有力と        参考資料/1997年キネマ旬報社発行『日本映画人名事典・監督篇』
伝えられたが、稲垣浩監督の『無法松の一生』に逆転された。            2003年デアゴスティーニ発行『週刊・100人』 011号
この『無法松』で主人公を演じたのが黒澤映画の常連・三船敏郎、       ・・・1998年(平成10年)9月7日付けと12月31日付けの
ヒロインが木下映画の常連・高峰秀子というわけで、何とも皮肉な     ・・・・・・2人の監督の訃報(ふほう)を伝えた朝日新聞から
巡り合わせである。また、’83年に今村昌平監督がリメイクした                                    (コラム製作’09.8/3)
『楢山節考』は、カンヌ映画祭でグランプリを取っている。
つくづく運がない人なのね。それでも、木下恵介さんが日本を代表
する名監督であることに変わりはない。
 

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