2 「未信者の教職員の皆様方へ」
日本のカトリック学校は、その創立以来、皆様方のような未信者の方々に支えられてまいりましたが、おかげ様をもちまして日本におけるカトリック学校は、それぞれの地域社会に受け入れられ、多くの方々から一定の評価をいただくまでに成長してまいりました。そして、これからもカトリック学校が存続しつづけ発展していくためには、皆様方がお築きになった礎をもとに更なるお力添えをいただかなければならないでしょう。特に教育活動における教科指導や特別活動、学校経営に関する財務・施設の維持管理等々、すべての分野におきまして皆様方のご尽力をいただかなければならないのです。カトリック学校の将来は、今後とも未信者の教職員の皆様方のお力無くしては、あり得ないということをまずは申し上げ、その上で次のことがらを皆様方に宣べ伝えたいと思うのです。
カトリック学校にとって最も重要なことは、それぞれの教育現場において、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるという使命にもとづいて運営されているかどうかということです。それは、教育活動のみならず、学校経営に関わるすべての業務の中で、キリストの福音を宣べ伝えるということが求められます。ですから、カトリック学校で働くすべての教職員には、未信者・信者に関わらず、イエス・キリストの福音を実践するという使命が帯びてきます。ですから、私は未信者の方々に対しても次のことを憚らずにお伝えしなければならないのです。
それは、まず一般常識ではありますが、職業人として職業選択の自由のもと、そしてなおかつ信教の自由が保障されているもとお勤めになった職場な訳ですから、その事業主の経営目的や方針に従う義務は当然のこと、経営の精神的支柱にしている宗教や建学の精神を理解するという二つの義務が発生します。前者の義務は、未信者・信者に関わらず果たすべき義務なのですが、後者の義務は未信者の教職員の方によっては抵抗を覚える方もいらっしゃるのかも知れません。しかし、そのようなことでは、カトリック学校の教職員としては相応しくないとはっきりと言わざるを得ません。
おそらく、それぞれのカトリック学校では、未信者や新任の教職員の方々を対象に公教要理とまではいかないまでも、聖書を学ぶ研修会や建学の精神を理解するための研修会が実施されていることでしょう。どうぞそれらの研修会を大事にされてカトリック学校の教職員に求められる姿勢を養われ、カトリック学校の教職員として何を生徒たちに伝えなければならないのかということを学ばれていただきたいのです。そして、それらの姿勢を養い実践していくことで、カトリック学校がキリストの体である教会の一枝であることもご理解していっていただきたいのです。
とかく、そして、特に教師にありがちな姿勢なのですが、自己の教育観に捕らわれ、自己主張をするに終始しがちな教職員が見受けられるようですが、個人の教育観はその個人の自由とするとしても、カトリック学校としての教育活動を実施していく上ではそのような態度は、障害以外の何ものでも無いことをご理解下さい。そして、そのような姿勢は教育機関に限られた特殊なあり方で、企業経営マネージメントの観点からは常識外のことなのです。勿論、個人の教育観とカトリック学校の教育観が合致するのであれば、幸いなことですし、それは問題外のことですが、むしろ未信者の教職員の皆様方は、カトリック学校の教育観に賛同されたからこそ、現在の職場を選ばれたことを私は疑いませんし、だからこそ、キリストの福音を学び共感していただき、それを日々の教育活動に生かし実践していただきたいのです。
未信者の教職員の皆様、キリストの福音の宣べ伝え方には一つの原則があります。それは、決して強制することがないばかりか、決して直接的に宣べ伝えることもなかったということです。それは、十二人と一部の弟子たちには、福音のすべての意味を直接的にお話になったにも関わらず、人々には悟らせるように「たとえ話」でお話になったということです。
そこで、みなさんもご存じの非常に有名な「種まきのたとえ話」の意味を考えてみましょう。
「イエスは再び湖の畔で教え始めた。帯びただしい群衆が集まってきたので、イエスは湖上の船に乗り、座っておられた。群衆は皆湖に沿って陸地にいた。イエスはたとえ話をもって多くのことを教えられたが、その中でこう仰せになった。『聞きなさい。種をまく人が種をまきに出て行った。するとまいているうちに、あるものは道ばたに落ち、鳥が来てそれを食べてしまった。あるものは土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれを覆いふさいだので、実を結ばなかった。他のものは良い土地に落ち、伸びて大きくなり、実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった』。そして、『聞く耳のあるものは聞きなさい』と言われた。
(マルコ4:1〜9)
そして、マルコ福音書は、この記述の後に続いて「たとえ話」の目的を記します。
「イエズスが一人になられると、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、これらのたとえ話について訪ねた。そこでイエスは彼らに仰せになった。『あなたたちには神の国の秘義が授けられるが、あなたたち以外の人々にはすべてがたとえ話で語られる。』それは、
『彼らは見るには見るが認めないように、
聞くには聞くが悟らないように、
こうして改心してゆるされることのないように』
とあるためである」。
(マルコ4:10〜12)
さらに、同福音書は、この「種まきのたとえ話」の説明を記します。
「また、弟子たちに仰せになった。『あなたたちはこのたとえ話が分からないのか。そんなことで、どうしてすべてのたとえ話が分かるだろうか。種をまく人はみことばをまくのである。みことばが蒔かれた道ばたのものとは、こうい」う人たちのことである。すなわち、みことばを聞くと、すぐにサタンが来て、彼らのうちにまかれたみことばを取り去ってします。岩地にまかれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、彼らには根がなく、一時的なもので、後になってみことばのために患難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちのことである。また、いばらの中にまかれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、またその他のいろいろな欲望が、彼らのうちに入ってきて、みことばを覆いふさぎ、実を結ばない人たちのことである。また、良い土地にまかれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである』。
(マルコ4:13〜20)
そして、「灯とますのたとえ話」・「種の生長のたとえ話」・「からし種のたとえ話」と続きます。
「また弟子たちに仰せになった。『灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか。まことに、隠されているものであらわにされないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない。聞く耳があれば、聞きなさい』。
また仰せになった。『注意して話を聞きなさい。あなたがたが量るそのますで、あなたがたにも量り与えられ、しかも、さらに増し加えられる。持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる。』
また、仰せになった。『神の国は人が土に種をまくようなものである。種をまく人が夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出し成長する。しかし、種をまいた人はどうしてそうなるかを知らない。土は自ら働き、はじめに苗、次に穂、次ぎに穂の中に豊かな実を熟すと、種をまいた人はただちに鎌を入れる。借り入れの時が来たからである』
また、仰せになった。『神の国を何になぞそらえようか。また、どんなたとえで言い表そうか。それは一粒のからし種のようなものである。からし種は土にまかれるときは、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、伸びてどんな野菜よりも大きくなり、そのかげに空の鳥が宿るほど大きな枝を張る』。
(マルコ4:21〜32)
そして、福音書は「たとえ話」の結びにこう記すのです。
「イエスは人々の聞く能力に応じて、このような多くのたとえ話をもって、みことばを語られ、たとえ話なしには語られなかった。しかし自分の弟子たちだけのときには、すべてのことを解き明かされた。」
(マルコ4:33〜34)
勿論、このたとえ話は決して未信者の皆さんだけに当てはまることではありませんが、冒頭にもお話ししましたように、私は憚らずにお話しするのです。
イエス・キリストの「たとえ話」に語られているように、私たちにはイエス・キリストの福音を受け入れ、実践することが常に求められています。カトリック学校に勤める教職員においては、なおさらのことなのです。イエス・キリストは私たちの日常の中で、日々私たちに問いかけているのです。未信者・信者に関わらずこの点については同じです。私たちは、「聞く耳」を持たなければならないのです。イエス・キリストの福音を受け入れ、実践することは、毎日の教育活動の範疇を越え、それぞれの皆様方に豊かな人生をもたらすこととなるでしょう。
神は、未信者・信者の枠を越え、未信者の教職員の皆様方をも遣って、カトリック学校に聖霊の働きをもたらし、また神の御旨の成就のためにイエス・キリストの福音が皆様方をとおして宣べ伝えられるのです。このことだけは信じて疑うことのないようお願い申し上げます。
結びに、私は未信者の教職員の皆様方へできる限り失礼のないように気を配り、言葉を選びお話ししたつもりですが、もしお気にさわる点がありましたら、くれぐれもお怒りにならぬようお許し下さい。これからも、カトリック学校を存続・発展させ、世の光、地の塩としていくためには、皆様方のお力が是が非でも必要なのです。どうぞこれからもともに手を取り合い、同じ目的に向かって主の道を歩んでいこうではありませんか。
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