「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 11     2.教務 (1)学習活動 教科における福音的学習指導 2008年1月22日(火) 
 学校教育の中で学習活動は、最優先されなければならない教育活動であることはいうまでもない。それは、知識が人間の精神活動や行動様式を規定すると言っても過言ではなく、個人の人格のほとんどを決定づけるものとも言えるものである。よって、各教科における知識の教授は、細心の注意と厳格な姿勢を持って、正しくかつ確実に実施されなければならない。
 
 そこで、教科指導の中における福音的指導とはどのように実現できるのかというと、それは大きく三つに分けることができよう。その一つ目には、教科の学習内容に関わる価値判断についての言及である。どの教科指導においても知識の教授だけに留まるわけではなく、教授しようと提示した知識の価値判断を様々な段階で教師自身がしなければならないか、児童・生徒・学生から求められるケースが出てくる。その場合、どのような価値基準を持って判断するのかが問われてくるが、そこでその判断基準として登場するのが福音的価値ということである。では、福音的価値とは何であろうか。福音とは、キリストを通して伝えられた神からの良い知らせ(euaggelion, gospel, good news)である「神による救い」と「神の国の到来」を意味するわけで、広義の意味においてはキリスト・イエスによって語られた神の教えで、具体的には神への愛と隣人に対する愛の実践ということになる。この愛とゆるしの実践ということが、聖書における教えに従った価値基準ということであると同時に福音的学習指導ということにつながるということができよう。
 
 二つめには、教科における教授法である。教授法は、知識を正確にかつ有機的に伝達するための方法論もしくは技術であるが、教授法と福音的指導との関わりがどうあるかというと、教科書や副教材等の教材選定や学習内容の取捨選択に関わり、どのような基準でどのように選ぶかということである。同じ教材、同じ学習内容であっても、その教授法によって児童・生徒及び学生に与える影響力や伝達の度合いが異なる。特に、教授しようとする知識を単に知識として教えるのか、それとも社会や自己との関わりを考えさせながら教えるのかでは、その知識が単に無機質な知識として希薄で発展性のないものとなるか、あるいは自己のアイデンティティを確立し、より良い社会の形成や他者に貢献していくための息づいた知識となるかでは、格段の差があるのである。よって、福音的学習指導を可能にする教授法とは、提示し与えた知識に対して他者や社会との関連性を持たせながら、知識そのものが持つ発展性と破壊性の二面性を示唆してやることである。それによって、その知識を神の教えに基づいて他者や社会のために発展的に用いていこうとすることで、福音的価値観が養われていくのである。
 
 三つ目には、授業中における児童・生徒及び学生との関わり方である。このことは、学校教育活動全般にわたる生徒指導に共通することであるから、W−4.生徒指導で詳しく後述するが、ここでは特に授業の中でということに絞って述べるとする。
 
 言うまでもなく児童・生徒及び学生は、固有の人格を持った存在であるが、更に福音的価値観から個々を捉えるならば、それらの一人ひとりが神から必要とされ、愛されている存在として生きているという厳然とした事実がそこにはあるということである。よって、個人が持つ固有の人格を最大限に尊重し、決して画一的な扱いや手段として扱うようなことがあってはならないという大原則が成り立つわけである。確かに、学校生活は集団生活を基本としているわけであるから、集団において守るべきルールはあるものの、それは決して人格を否定するものであってはならないし、できれば個性をも最大限に尊重される必要がある。そのためには、児童・生徒及び学生のパーソナリティを様々な機会を捉え把握するとともに、いち早く教える側である教師の人格や個性をも児童・生徒及び学生に伝え、互いにリレーションがとれるように努力することが重要である。これらの作業は、確実に教える者と教わる者との間に信頼感をもたらし、より円滑で有効な知識の伝達を実現させ、福音的な価値に基づいた双方向の人間関係を形成することとなる。
 
 これらのことを実現させる具体的方法論としては、児童・生徒及び学生一人ひとりの名前を覚えることをはじめ、授業中の発問と応答を活発化させ、個々の考え方を把握し理解しようと努力することである。児童・生徒及び学生の一人ひとりの人格(パーソナリティ)を把握することは、簡単な作業ではないが、この地道な努力こそが、児童・生徒及び学生の一人ひとりを神から必要とされ、愛されている存在であるとの福音的とらえ方を実現させる道への最短距離ではないだろうか。
 
 12     2.教務 (2)特別活動 特別活動における福音的指導 2008年1月30日(水) 
 学校教育活動における特別活動は、学習活動に勝るとも劣らない重要な位置を占める。それは、特別活動を通して成し遂げられる人格形成や人間的成長は、学習活動以上のものがあると言っていいからである。その理由の一つには、イエス・キリストの教えにも通じる「関わり」にある。具体的には、顧問や上級生、同学年と下級生との人間的交わりが、個々の人格形成や人間的成長を促すからである。さまざまな人間的交わりこそが、児童・生徒及び学生の一人ひとりに与えられた個性やこの世における存在価値もしくは使命を陶冶させてくれる。キリスト教の人間観は、どんな人間も神から固有の命と使命を与えられ、それ故に人間一人ひとりはかけがえのない存在として神に愛されているというものであるから、そのような存在としての人間的交わりの中に神の御計画が実現していくのである。よって、学校教育活動における特別活動は、イエス・キリストを通して伝えられた神の福音の実現の場にふさわしい場として位置づけられると言える。
 
 また、その二つめの理由には、特別活動を通して自己と向き合う機会がより多く与えられるという点である。運動部にしろ文化部にしろ、あるいは委員会活動等にしても共通して言えることは、学力以外の自己の能力を発揮できる場であるということである。そして、特別活動のような多種多様な諸活動を通して、自己の能力を開化させ技術や知識の習得をしていこうとする向上心を持つことや、自己の目標を成し遂げるという達成感を体験することによって、未だ気付かぬ未知なる自分を発見したり、内なる自分との出会いを経験することになる。このことが、自分の存在というものが、両親や兄弟をはじめとする家族や友人等の多くの人々との関わりに依るものであること、そしてひいては自己の命そのものや使命というものが、神から与えられたものであるという気付きにまで引き上げられる機会が与えられるということである。
 
 とかく特別活動においては、競技やコンテストなど競争原理のもとに勝敗を競うことが一般化しているが、競争そのものが目的となりそこにおける教育的指導が手段となってしまっているのも事実である。この問題の根底には、学校教育における特別活動が、本来教育を目的としているはずのものが、競技の技術向上を目的として学校期間以外の団体との関係が密接になるあまり、教育本来の目的を見失っているという問題がある。確かに競技そのものにも、人間的成長を促す面があることは否定しないが、学校教育における特別活動は、あくまでもその競技をとおして行われる教育活動が目的であり、競技そのものは手段であるという大原則を厳守しなければならない。そうでない限り、そこに教育そのものの目的は勿論のこと、福音的指導など到底あり得ないものとなってしまうことは言うまでもない。
 
 では、特別活動において福音的指導がなされるために留意しなければならないことは何かというと、まず第一には個の尊厳である。それは、児童・生徒等の各人に対する指導が、一律的なものになることなく、各人の能力に応じた指導がいかにできるのかということである。また、それに伴い技術の習得の度合いによって個人が排除されるなどということがあってはならない。あくまでも個人の存在とその活動は、競技やコンテストに最優先されるべきはずのものであるし、ましてや個人の人格や能力を競技やコンテストを勝ち抜くための手段としてはならない。学校教育における福音的な特別活動とは、児童・生徒等一人ひとりの能力を引き出すための機会を、人格的交わりの中でいかに与え指導していくかというところにある。そして、児童・生徒等が自己の能力に気付きそれを開花させ、この過程の中で自己の存在というものが、周囲の人々との関わりによって成り立っているということを知ることで感謝することを学び、それをもとに自己に与えられた能力を、今度は他者のために用いていこうと決意するところまでに高められるよう導くことである。
 
 第二には、前述したような指導ができるための教師の存在が必要である。そこで、まず指導に当たる教員自身が、福音を理解している必要性があるので、そのための研修を実施し、具体的な指導方法を身に付けていかなければならない。しかし、現実的には、特別活動特に部活動の顧問は、勤務時間外労働になることが多く、そのような事情からも指導のあり方は各顧問教師の範疇にほとんど任されてしまっているのが実状である。しかし、公立学校ならいざ知らず、カトリック学校においてしかも福音的指導の是非となれば、殊の外そうはいかないのである。かけがえのない存在としての児童・生徒が、特別活動の中でどう扱われ、何を得てどのように人間的成長を成し遂げるのか、そしてそれが自己の人生においてどのような影響を及ぼし、自己の存在が他者や社会とどう関わりを持ちどのような意義を持つのか、そして自己を超える永遠の絶対者とのつながりを自覚できるようになるのかならないのかは、教育活動の結果としては雲泥の差があるのである。
 
 結論的にいうのならば、学校教育の特別活動における福音的指導の実現の鍵は、学校経営を管理する者が、各教師が福音を理解した上で指導ができるような研修プログラムを作成して実施しているかどうかなど、教師に対する指導・監督体制ができているかということと、特別活動を指導する教師自身が福音的指導を実施することを自覚し、実践しているかどうかという教師一人ひとりの指導の力量にかかっているということである。
 
 13     2.教務 (3)学校行事による福音宣教の実践 2008年2月8日(金) 
 カトリック学校の使命は、教育活動を通して福音宣教を行うことであるから、当然のことながら学校行事を通しても福音宣教の実践がなされなければならない。勿論、カトリック学校における福音宣教とはミサ聖祭や黙想会、そしてみ言葉の祭儀などの宗教行事をとおして直接的に実施されることのみをいうのではない。始業式や終業式、または朝礼寺の中で行われる祈りやさまざまなボランティア活動を通して間接的に行われるものも、十分福音宣教の実践と言えるものである。
 
 では、カトリック学校における学校行事を通しての福音宣教の実践にとって重要な要素は何であるかというと、宗教的儀式や行事を取り入れているということ以上に、イエス・キリストを通して述べられた神の福音が伝えられているかどうかというところにある。学校行事の中に何回ミサを取り入れようが、クリスマスの集いを催したり復活祭や聖霊降臨祭を取り入れようが、儀式そのものだけでその根底に流れる福音の意味を伝えることができないのであれば、それは単なる形式的なもので終わってしまい、福音宣教にはつながらないものになってしまう。
 
 さて、形骸化することなく学校行事を通して福音を伝えていくためにどうしたらよいだろうか。まず第一には、福音を伝えるに可能な行事の選択から始めるべきであろう。そして、次にはその行事の計画に当たり福音宣教をコンセプトに企画し、具体化することである。ここで忘れていけないことは、対象となる児童・生徒等は圧倒的に未信者の子ども達であり、信徒の子どもに対する信仰教育とは異なるということである。しかし、逆を返せば、未信者であるからこそ福音宣教の対象となるのであって、その観点においては絶好の機会といえるのである。とは言え、キリスト教になじみの薄い児童・生徒等に対して宗教行事を実施するためには、その行事の目的とすることやその意義等の事前指導が十分になされていなければならず、そのような配慮の欠けた宗教行事は、彼らにとって驚きやセンセーショナルなものにはなっても、真の意味においての福音宣教にはならない。
 
 更にもう一つの注意点は、指導に当たる教師がすべて司祭や修道者および信徒とは限らないという点である。よって、全教師がキリストの教えに理解と共感を示しながら福音宣教ができるよう、定期的な教員研修と日常的に聖書に親しみ触れる機会を設けていることが望ましい。
 
 以上のことがらに配慮した上で、カトリックのミッションスクールにおける学校教育において、福音宣教につながる宗教行事を具体的にあげてみると次のような行事が考えられる。
 
 1.降誕節と主の降誕祭
 2.聖家族
 3.主の公現
 4.四旬節と聖週間
 5.復活祭
 6.聖霊降臨
 7.聖母マリア(無原罪のマリア・聖母の被昇天)
 8.諸聖人と死者の月
 9.黙想会と錬成会
 10.バイブルDay
 11.ボランティア活動
 12.ミサ聖祭
 
 これら以外にも、入学式や卒業式、始業式や終業式、父母会や文化祭等の生徒会行事にも、聖書のみ言葉や教会典礼行を取り入れること、また行事というのではなく毎日の朝礼時における聖書朗読や祈り、そしてホームルームにおける朝終礼時、授業の始業や終業時に祈りを取り入れることで福音宣教につなげていくことができる。
 
 14     2.教務 (4)福音的カリキュラムとシラバス 2008年2月21日(木) 
 福音的なカリキュラムとは、学校教育活動における学習活動の教科指導によって、福音宣教が実施されていることであると言って良いだろう。よって、カリキュラムの中に宗教教科が設置され、そこで聖書や宗教倫理あるいは宗教音楽等の科目が実施されていることが不可欠である。勿論カリキュラムであるから、修学期間中のそれぞれの学年で何時間の授業が実施され、何単位の取得が可能なのかは明記されていなければならない。また、福音宣教を可能にする授業としては、体系的にかつ継続性を要するから、授業時間数としては週1単位以上、年間30時間以上は必要であろう。よって、初等教育においては、6年間で6単位、180時間、中学・高等学校の中等教育では、3年間で3単位、90時間が一応の目安となるのではないだろうか。また、学習活動以外に宗教行事やボランティア活動等の特別活動においても福音宣教に通じる教育活動が可能であるから、学習活動における教科指導についてはこの程度の時間数が適当であると考えられる。
 
 しかし、福音的カリキュラムと言えるためには、時間数や単位数だけで必要条件を満たすとは言えない。むしろ定められた授業時間数の中で、どのような内容をどのような教材を使って、どのように展開するかが最も大切であると言える。そこで重要となるのがシラバスである。シラバスとは、年間の指導計画や進度表、使用教材や学習法及び履修内容、出席日数や欠課時数、そして評価・評定基準や方法、単位認定など、履修予定の科目全般にわたる概要が、学習者である児童・生徒及び学生に具体的に提示できるものでなければならない。そして、それは教授者である教師にとっても教授内容と教授法、及び評価法を明確にし学習者に提示することでもある。よって、シラバスとは学習者にとっても教授者にとっても学習活動におけるそれぞれの責任や義務を明確にし、共に主体的に学習効果を向上させることを目的とした学習プランとマニュアル及びアウトラインであると言ってよいであろう。
 
 では、具体的に宗教教科におけるシラバスに、一般化できる内容を提示してみよう。
 
 1.教材 (聖書・テキスト・資料集・ノート等)
 2.履修内容(各学年・学期に履修する大単元・中単元・小単元等の学習内容を提示)
 3.進度表(月・学期・年間の予定表)
 4.定期試験の予定(試験方法及び日程と試験範囲)
 5.課題等の提出物(学期期間中及び長期休業期間に実施する課題等)
 6.評価・評定法(各学期及び学年における評価・評定法)
 7.欠課時数・単位認定(単位認定のために必要な出席時数等の認定条件)
 9.追試験及び再試験(追試験及び再試験の受験資格と受験要項)
 
以上のような項目を挙げることができるが、シラバスを提示する際に気をつけなければならないことがいくつかあると思われる。それはシラバス自体が明瞭・明確であること、シラバスについての説明が形式的にならないこと、学習者が教科・科目に興味・関心が湧くような内容であることである。
 
 上述でシラバスとは、学習者及び教授者が共に主体的に学習効果を向上させることを目的とした学習プランとマニュアル及びアウトラインであると定義したので、教授者はシラバスを提示する際、学習者がその教科・科目の特性を理解し学習することに興味関心を抱かせるように、生き生きとした態度で行うことが大切である。また、学習者は教科・科目の特性を理解するとともに、履修するに当たっての自己責任を明確にし、真摯な態度でかつ希望を抱いて学習に当たっていこうとする姿勢をつくることが肝要である。確かにシラバスそのものの内容は重要であるが、実はシラバスをどのように提示するかということは、授業において教材や学習内容がどうであるかということ以上に、教授法が最も重要であるのと同じく、シラバスの内容以上に重要であると言って良いであろう。
 
 よって、年度当初に実施されるオリエンテーションや教科ガイダンスにおいて教授者と学習者がシラバスを通してより良好なリレーションを形成していけるよう、最新の配慮と周到な準備をしておくことが求められる。そして、ひいてはそのこと自体が宗教教科をとおして福音宣教を可能にする第一歩となるであろう。
 
 15     2.教務 (5)総合的な学習と福音宣教 2008年3月27日(木) 
 総合的な学習の位置づけは、自ら学び自ら考えるという力を身に付けさせるというものであるが、現代の子ども達に不足または欠如していると言われる要素を、「生きる力」とか「人間力」等の表現で求められているところのものである。「生きる力」・「人間力」とは、福音宣教の観点から考えると、実に重要なことではないかと考えられる。なぜならば、「福音」とはそれ自体が、人間がいかにあり、いかに生きるかということに繋がり、その中で神が人間に望む姿としての恵みの良き知らせであるからである。よって総合的な学習が、「生きる力」や「人間力」を身に付けることを目的とするならば、そこには福音というメッセージを十二分に生かすことができる教育活動となり得ると言える。
 
 さて、総合的な学習は、現行の指導要領によると次のように定められている。
 
 1.学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、生徒に生きる力を育むことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、
   自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、個性を生かす教育の充実に努めなければならない。
 
 2.学校における道徳教育は、生徒が自己探求と自己実現に努め国家・社会の一員としての自覚に基づき行為しうる発達段階にあることを考慮し、
   人間としての在り方生き方に関する教育を学校の教育活動を通じて行うことにより、その充実を図るものとし、各教科に属する科目、特別活動
   及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。
 
 3.学校においては、地域や学校の実態等に応じて、就業やボランティアに関わる体験的な学習の指導を適切に行うようにし、勤労の尊さや創造す
   ることの喜びを体験させ、望ましい勤労観、職業観の育成や社会奉仕の精神の涵養に資するものとする。
 
 また、学習活動においては、下記のように規定されている。
 
 1. 総合的学習の時間においては、各学校は、地域や学校、生徒の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や生徒の興味・関心等に基づく学習な
   ど創意工夫を生かした教育活動を行うものとする。
 
 2.総合的な学習の時間においては、次のようなねらいをもって指導を行うものとする。
  (1)自ら課題を見付け、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
  (2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の在り方生き方を考えることができる
   ようにすること。 
 
 3.各学校においては、上記2に示すねらいを踏まえ、地域や学校の特色、生徒の特性に応じ、例えば、次のような学習活動などを行うものとする。
  (1)国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学
   習活動。
  (2)生徒が興味・関心、進路等に応じて設定した課題について、知識や技能の深化、総合化を図る学習活動。
  (3)自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動。
 
 4.各学校における総合的な学習の時間の名称については、各学校において適切に定めるものとする。
 
 5.総合的な学習の時間の学習活動を行うに当たっては、次の事項に配慮するものとする。
 
  (1)自然体験やボランティア活動、就業体験などの社会体験、観察・実験・実習、調査・研究、発表や討議、ものづくりや生産活動など体験的な学
   習、問題解決的な学習を積極的に取り入れること。
 
  (2)グループ学習や個人研究などの多様な学習形態、地域の人々の協力も得つつ全教師が一体となって指導に当たるなどの指導体制、地域の教材や
   学習環境の積極的な活用などについて工夫すること。
 
 では、これらのことを踏まえながらカトリック学校として、福音的宣教という観点から生きる力の要素とは何かを考えると以下のようなことが言えよう。
 
 「生きる力」とは、神から授かった固有の命と能力及び使命を自覚しながら、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力のことである。また、自己の人生を生き抜くための学び方やものの考え方を身につけ、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度と自己のあり方生き方を考えることができる力である。さらに、宗教心と自尊心を持って、他者のために生きようとする隣人愛の精神である。
 
 次に福音的観点から総合的な学習の要素を考えてみると次のようなことがらが考えられる。
 
 1.キリストの教えに基づいた「愛の精神」を身に付け、現代を自立して生きる人間の育成という観点において
  (1)人間らしい豊かな心を養うこと。
  (2)より良き父母となる資質を育むこと。
  (3)一人ひとりに与えられた固有の命や特性および才能を生かし、自己の使命を果たすこと。
  (4)他を思いやり、自らを見つめ直すボランティア精神を身に付けること。
  (5)世界に開かれた国際的センスを学ぶこと。
 
 2.キリストの教えに基づいた「生きる力」という観点において
  (1)自分に与えられた可能性と使命に目覚め、知的能力、学習能力を磨く努力をすること。
  (2)キリスト教の教えに基づいた宗教性に根ざしている心と意識を育てること。
  (3)自己の成長につとめながら、他者と共に生きる姿勢を育てること。
 
では、これらのことを前提に総合的な学習の具体的内容を考えてみると以下のような項目を挙げることができるであろう。キリスト教的人間観に基づいた実践力として、以下のようなものが考えられるであろう。
 
  (1)人間学…恋愛・結婚・家庭・労働・出産・育児、性、ジェンダー論、礼儀・礼法 、法律、進路選択
  (2)国際理解…自国文化と歴史の理解、国際情勢、戦争と平和、南北 問題、 国際交流と国際貢献、グローバル経済、ボーダーレス、宗教、 理解と他国
   文化
  (3)情報…ITの習得、情報の平等性と差別、情報倫理、ヘイトサイトの見分け方などネット関連の正しい利用法
  (4)環境…資源エネルギー問題、人口問題、地球環境の問題(砂 漠化・温暖化・オゾン層の破壊・酸性雨・熱帯林破壊・ 生物多様性の現象・海洋汚染・有
   害廃棄物の越境移動)
  (5)生命…生と死、生命倫理、脳死、臓器移植、臓器売買、尊厳死安楽死、リヴィングウィル、ホスピス、バイオテクノロジー、人権問題
  (6)福祉・健康…高齢化・老齢化社会の問題、ノーマライゼーション、健康な体と精神の育成
  (7)ボランティア活動…隣人愛とボランティア精神、社会福祉施設研究、国連・NGO研究、災害及び難民などの緊急援助対策、地域美化
  (8)体験学習…自然体験や職場訪問などの社会体験、芸術鑑賞、観察・実験・実習、調査・研究・ものづくりや生産活動、修学旅行
  (9)討議と研究発表…現代の呈する諸問題を中心とするテーマ学習(自分たちでテーマを設定し、研究して発表する。)
  (10)統合力… 総合的な学習が知識や技術の習得のみに留まることなく、キリスト教的価値観のもとに正しい判断力を身につけるための価値観の形成
 
 以上のようなことがらが考えられるが、私たちが暮らすこの社会は日々変化し様々な問題を生み出しかつ複雑化しているので、私たち教育者は千変万化する社会に対応できる力を学習者に養わせるために、常に新たな課題を提示して対応できる柔軟性を身に付ける必要性がある。このような観点からもまさに総合的な学習とは、現代を生き抜くための「生きる力」・「人間力」を学びながら現代に必要な福音を注ぐことのできる格好の教科・学習活動であると結論づけられる。
 

Last updated: 2008/11/4