「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 16     3.福音的生徒指導 (1)福音的人間観 2008年3月5日(水) 
 生徒指導は、学習活動から特別活動に至る学校教育全般と、幼児・児童・生徒・学生の家庭生活や友人関係等の私生活にまで及ぶ重要な要素を限りなく含んでいるものであるから、教育活動の根幹をなすものであると言って良い。よって、生徒指導をそのような観点に沿って述べていくものとする。
 
(1)福音的人間観
 人は、男女の結びつきである結婚をとおして絶対者である神から固有の生を受け、そしてその生は、父母を中心として家庭の中で育くまれていく。
 
 キリスト教宗教観ないしは福音的観点に立った人間観とは、『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』というものである。よって、どのような人間のいのちとその存在は、誰からもまたどんな理由によっても否定されることのない、絶対的な存在に由来する最も尊く至高のものであると言える。
 
 しかしながら、このようなキリスト教的人間観が、人間そのもののあり方を完全視するというものでは全くない。むしろ、我々人間は根本的に罪につながれているという、いわゆる原罪を持っており、それ故に我々人間は、主イエス・キリストの十字架の罪の贖いによるゆるしなしには、生きて行くことができない者たちであるということなのだ。
 
 然るに人間の教育の根底には、教育者である教師の学習者に対するゆるし・受容・寛容の徳を身に付けておく必要がある。あくまでも学校とは、人間の成長過程にある児童・生徒・学生等を扱う教育機関であって、裁きの場や更正機関ではないのであるから、前述の福音的人間観を根幹としながら、固有の生と使命を受け止め、一人ひとりを神から信託された尊い存在として、それぞれの発達段階に応じた教育を実践していかなければならない場なのである。
 
神との関わりの中にある人、他者との関わりの中にある人間、我々はこの二つの関わりの中で、神より与えられた自己の固有の生と使命を、生き抜いていかなければならない存在なのである。そして私たちは、その過程の中で罪に定められた弱い者でありながら、神とその子イエス・キリストの救いと聖霊による導きによって、聖なる者となるように招かれ、他者のために愛を尽くし互いに愛し合うことで、永遠の命へと復活することができるよう約束された者たちなのである。
 
根本的に人間の存在そのものが、尊く何者からも否定されない尊厳なものであるという所以は、神ご自身が人一人ひとりに与えられた固有の生と使命があるということと、イエス・キリストをとおして述べられた神による救いと神の国の到来、つまり互いに愛し合うことことで、神が望まれる御国が現実のものとなり、そこにおいて人は永遠の命に復活するという福音に拠るのである。それはとりもなおさず、私たちすべての人間は、神からの者で神に帰する者であるということなのだ。
 
 私たちミッションスクールの全ての教育者は、これらの福音的人間観を十分に理解し、福音的人間観に立脚し、日々の教育活動の実践に当たらなければならない。そして、この福音的人間観を根幹に教育活動が実践されるならば、私たちミッションスクールはイエス・キリストをとおして述べ伝えられた神の福音を広めるという使命を、必ずや果たすことができるであろう。教育活動には明確な教育理念が必要であるのと同様に、教育理念は人間をどう理解するかという、確固たる人間観に裏付けられていなければならない。これは、教育活動全般にわたる重要なことがらであるが、特に学校生活から家庭生活にまで学習者の全てにおよぶ生徒指導においては、不可欠なものとして位置づけられる。
 
 17     3.福音的生徒指導 (2)人間の二面性 2008年3月14日(金) 
 「色即是空 空即是色」4〜5世紀にかけて、活躍した中国南北朝時代の訳経僧、鳩摩羅什(クマーラージーヴァ)は、中国の人々に釈迦の思想を広めるため、梵語の韻を大切にしながらいかに漢字で釈迦の教えの真髄を伝えるかに尽力した高僧である。彼が漢訳した三十五部を越える教典のほとんどが日本に伝えられているそうだ。そんな偉業を成し遂げた鳩摩羅什の原動力は、破戒僧としての罪の意識ではなかったかと思う。「色即是空 空即是色」に、そんな彼の人生のすべてが感じ取れる。「この世のすべてのものは移ろい、固定的な実態はない。そして、その移ろう現実=色にこそ、空という真実を見いだすことができる」との解釈である。
 
 古代中国紀元前6〜5世紀に「仁」の思想を展開した孔子の弟子である孟子や荀子は、人間の本性をそれぞれ「性善説」と「性悪説」をもって著したが、これらの説は往々にして誤って解釈されがちである。その真意は、いずれも人間の本性は生まれながらにして善であるとか悪であるといっているのではなく、「性善説」は、人間は善となりうる萌芽をもっているからそれを養い育てなければならないというもの、そして、「性悪説」は人間は悪に走る性向があるのでそれを戒めなければならないというものなのであり、人間の二面性を説くものなのである。
 
 「共命鳥(グミョウチョウ)」という仏教の教えを伝えるための、一つの体に頭が二つあるという想像上の鳥の話がある。一つの体に、二つの頭があり、一方は昼(光)を支配し、もう一方は夜(闇)を支配する。闇の頭は光を嫌い、昼の頭に毒を飲ませるが、やがて一つの体であるこの鳥は、闇の方にも毒が回って両者とも死んでしまうというお話である。このたとえにも、人間の本質を突く仏教の教えが貫いている。
 
 では、キリスト教の人間観はどうであるかというと、前述のように「原罪」の思想に集約できる。つまり、人間は罪を犯してしまう弱さをもつ存在であり、それ故に「ゆるし」による罪からの解放無くしては生きてはいけないというものである。罪からの解放は、神によってのみ実現する訳であるが、それは取りも直さずイエス・キリストの十字架上の罪の贖いによる「ゆるし」と、その後の復活によって証された「永遠の命」に私たちも与ることによって成就するというものなのである。そこにキリスト教が、愛と赦しの宗教であるという所以があるのだが、キリスト教では人間の中にある罪深さを積極的に受け入れ、人間が犯した罪を神よりゆるされることで、再び生ける者となるのが人間であるとの受け止め方をしているのだ。キリスト教における罪とは、あるいは人間の持つ二面性とは、善悪の判断としては悪であったとしても、決して否定することなく人間の罪深さを肯定的に受け入れるのだ。カトリック教会が認める聖人と呼ばれる人々ですら、この原罪からは逃れることのできなかったのである。しかし、かれらは原罪を背負う人間であればこそ、神への絶対的信仰によって人並み外れた善行の数々を人々に知らしめることができたのである。人間とは、罪の繰り返しの中で神によるゆるしによる回心と、そこから生まれる新たな希望によって育まれ、神の望まれる姿に成長していくものではないだろうか。そして、そこに教育の果たす重要な役割があるように思える。「人は、人によって育てられるが、裁かれることによってではなく、ゆるされることによってのみ成長する。」と考えるのである。
 
 わたしたちは、人生を生きていく上で、現象としては不幸なことではあるが、度々ままならないことを経験する。それを仏教では「苦」といい、キリスト教では「苦しみ」と捉える。仏教では「苦」から解き放たれた世界、涅槃寂静=極楽浄土(鳩摩羅什の訳)を説く。キリスト教においては、イエス・キリストによる神の福音である神による救いと御国の到来を説いているが、それは具体的には、私たち人間はイエス・キリストに対する信仰によって、神の愛による赦しを受け、死から復活して永遠の命に与ることができるということを説いているのだ。
 
 いろいろな意味で世知辛く価値観が氾濫し混迷する現代社会のなかで、人を育てるという教育に携わる私たち教師は、現代人が忘れかけ欠如してしまっている宗教心に根ざした人間観と教育観を、再び思い起こし、教育活動の実践に当たることが求められているのではないだろうか。多種多様な価値観の反乱が招く社会問題や社会病理の蔓延する現代に生きるこどもたちに、何を教えればいいのだろうか。何を身に付けさせればいいのであろうか。何をしたら守ってやれるのであろうか。何をどうすれば、よりよい社会を築いていけるのであろうか。現代にはびこる諸悪の現象の一つ一つが、わたしたち教育者に真実は何であるのかと問いかけ、その解決を迫ってきているように思えてならない。
 
 福音的人間観に断固として立脚し、福音的生徒指導の実践をしなければ、現代に息づいた人間の教育は実現しない。それは取りも直さず、現代を生き抜き、よりよい社会を築いていける人間をつくり上げていくことができないということである。だから福音的人間観に立ち、宗教心に根ざした教育の実践ができる私たちミッションスクールが果たす役割は、極めて大きいと言わざるを得ない。
 
 18     3.福音的生徒指導 (3)懲罰と赦し 2008年3月21日(金) 
 どの学校にも学則というものが定められている。その中には必ず賞罰の項目があり、停学や退学処分についての規定がある。停学処分や退学処分の対象となるのは、学校保健法施行規則による出席停止処置を除けば、その主たるものは校則違反や法律を犯すなどの非社会的行動によるものがほとんどである。しかし、ここで一つの疑問を呈したい。非行や問題行動を起こした生徒を停学や退学等の処分をするこは、たとえ、周囲に対する抑制力(見せしめ)にはなり得たとしても、果たしてその生徒に本来的な反省を促したり、改心をさせるような教育効果があるのだろうかと言うことである。わたしは、ここで前項で記したように再度申し上げる。「人は、人によって育てられるが、裁かれることによってではなく、ゆるされることによってのみ成長する。」と。そして、もう一つ「私たち教師は、裁き手ではなく、人の導き手である。」ということだ。ともすると、私たち教師は、児童・生徒及び学生に対して学校の閉鎖性および教師の個人的教育観による了見の狭さという性格上から、裁き手になりがちなものである。私たちは教師は、教育活動の結果を評価するという大切な作業からは逃れられないが、評価と裁きを混同してはならないのであって、学習活動に対する評価の延長線上で、安易に人格を評価し断罪するようなことがあってはならないということを肝に銘じておかなければならない。
 
 では、「赦し」や「裁き」について、イエス・キリストのみ言葉を聖書から引用し、私たち人間にとって「赦し」こそが生きる道であるというイエス・キリストのみ教えを再確認してみたい。
 
 @「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ18:21〜36)
 その時、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたたちに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸したお金を決済しようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れてこられた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってくださいきっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで主君はその家来を呼びつけていった。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を前部長消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 
 A「人を裁くな」(マタイ7:1〜6、ルカ6:37〜38、41〜42)
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」
 あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
 
 B「赦し」(ルカ17:1〜4)
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらすものは不幸である。そのような者は、これらの小さいもの一人をつまずかせるよりも、首にひき臼をかけられて海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 
 B「罪深い女を赦す」(ルカ7:36〜50(抜粋))
 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 
C「ベルゼブル論争」(マタイ12:31〜32(抜粋))
 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」
 
D「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:1〜11)
 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。女が、「主よだれも」言うと、イエスは一言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
 
E「『放蕩息子』のたとえ」(ルカ15:11〜32)
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢誰が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輸をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に人ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦ともと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
 F「立法学者とファリサイ派の人々を非難する」(マタイ23:1〜12)
 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しにななった。律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷を
まとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生」と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
 
 このほかにも聖書には、私たちカトリック学校が生徒指導上守らなければならない掟とも言えるべき原則を学べるところがいくつもある。まずは私たちカトリック学校に奉職する教師の一人ひとりが、イエス・キリストの教えを十分に学ぶことで、学習者である幼児・児童・生徒及び学生を、『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より生を受け、神より固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』と受け止めるとともに、私たち教師は、『教師』でありながら否『教師』であるからこそ「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」のイエス・キリストの教えを忘れることなく、主である神には勿論のこと、学習者である幼児・児童・生徒及び学生に使えるものとしての自覚を常に念頭に置きながら、原罪に定められた人間に対する「赦し」を教育の根底において、「人の裁き手」ではなく「人の導き手」としての使命を全うしていかなければならないのである。
 カトリック学校にとって福音的人間観に基づいた福音的生徒指導は、ミッションスクールとして絶対に死守しなければならない生命線とでもいうべきものである。これを疎かにするのならば、即座にでもカトリック学校としての看板を下ろさなければならないだろうし、最も重要な存在価値とその役割としての福音宣教というミッションを果たすことはできない。福音的生徒指導とは、それだけイエス・キリストの教えの核心をなすものだからなのである。
 
 19     4.福音的進路指導 (1)福音的人間観に基づいた進路指導 2008年4月4日(金) 
 福音的人間観とは、「私たち人間の一人ひとりは、神の御計画の中で、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、その完成のために固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。」というものであるから、この概念に基づいた進路指導とはどのようなことであろうか考えてみよう。
 
 教育現場における進路指導の基本的あり方に、まず第一に自己の適性を把握することから始めることはごく一般的なことではあるが、このことを福音的人間観に当てはめて考えならば、自己の適性を把握することとは、まさに福音的人間観の『神より与えられた固有の使命と存在価値』とは何かを考え、それに気づくことである。個人における適正とは、一人ひとり千差万別である個性にもつながるものであるが、それは取りも直さず人間が生まれながらに神より与えられた固有の使命や存在価値そのものであると言えよう。そして、これらのことは人間という観点から解釈すると「自己の可能性の模索と発見」であるとか、「本当の自分との出会い」であるとか、「本物の自分になる」とかという表現に言い換えられるものである。
 
 学習者である児童・生徒および学生、特に児童や生徒は若年かつ経験が浅いため、とかく進路を自己の希望や興味関心を中心に考えがちである。しかし、往々にして中高生ぐらいまでは自己に対する理解がまだ未熟であることから、自己の適性を見誤ったり、自己の適性そのものを考慮しないままに将来の進路考えがちなものである。もちろん自己の適性を考えるがあまり、将来に対する希望を失ったり、必要以上の不安を抱いたり、自己の可能性を狭めてしまったりしないように配慮しながら指導することも重要なことである。
 
 また、私たち教師においては、学習者やその保護者の進路希望を実現し、進路実績を果たすことが最大の任務と責任であると捉えがちなところがある。しかし、本当に学習者やその保護者の希望する進路を達成させることが本来的な進路指導であろうか疑問を呈さなければならない。カトリック学校の進路実績は、あくまでも学習者一人ひとりの神より与えられた固有の使命と能力の可能性の達成の結果でなければならないからである。学習者である児童・生徒および学生が、生まれながらに神より自己に与えられた使命や存在価値という福音的人間観に立ち、自己の将来と可能性および肯定的自我を見出していく中で、他者との関わりである社会に貢献していくというアイデンティティを確立していくことが青年期の発達課題であるとともに、福音的人間観という観点における進路達成であると言えるのである。 私たち人間の存在のあり方は、福音的人間観をもとに考えると、神の御計画の中で神より与えられた固有の命と使命を、他者との関わりの中で生き抜くことが求められているわけであるが、このこと自体が個人における固有の存在価値や私たち人間の命や人格の尊厳の根拠となるものであって、どんな価値基準にもまして優先されるべきものなのである。よって、この福音的人間観こそがどのようなことを差し置いても、最優先されるべきものであると言っても過言ではない。人間が、または個人が最大限に尊厳されるべき根拠は、私たち人間の一人ひとりが、神の御計画の完成のために、神より固有の命と使命を授かっているからに他ならないのであって、私たち人間はそのことに気づくことによって、初めて自我の尊さに覚醒し、「自己の可能性の模索と発見」であるとか、「本当の自分との出会い」であるとか、「本物の自分になる」と言われることを目指していけるようになるのである。
 
 よって私たち教師が、学習者に対して進路指導を実施する際には、この福音的人間観をしっかりと指導の根底に置いておかなければ、学習者に対して自己を本来的に生かしていくための進路指導にはなり得ない。カトリック学校における進路指導の第一には、福音的人間観に基づいて、まずは学習者である児童・生徒および学生が自分自身を福音的に捉えるという最も根本的で優先的な原点に立たせるということが重要なのである。そのために、私たちカトリック学校の教師は、まず自分自身の存在を福音的に捉えることからはじめ、その上で学習者に対して進路指導ができるよう厳然たる態度で臨むことが求められる。
 
 カトリック学校における進路指導とは、単に学習者とその保護者の進路希望を達成させるためのものでもなければ、進路実績を向上させ生徒募集に役立たせるためのものでもない。それは、あくまでも「私たち人間の一人ひとりは、神の御計画の中で、神が必要としたために、神より固有の生を授かるとともに、固有の使命と存在価値を与えられ、その完成のために神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。」という福音的人間観に立脚し、神の御計画の実現を図っていこうとするものでなければならない。なぜならば、神の御計画の実現とは、人間の本来的な幸福の完成でもあるからである。
 
 20     4.福音的進路指導 (2)福音宣教と進路指導 2008年4月24日(木) 
 進路指導において、あるいは進路指導をとおして福音宣教を可能にするにはどのようにしたらよいであろうか。前述の通り、カトリック学校における進路指導の第一には、福音的人間観に基づいて、まずは学習者である児童・生徒および学生が自分自身を福音的に捉えるという最も根本的で優先的な原点に立たせるということが重要なのでことある。つまり、福音的人間観に基づき自分自身は、『神より与えられた固有の使命と存在価値』を与えられた者と考え、それに気づかせることである。そうすることで「自己の可能性の模索と発見」であるとか、「本当の自分との出会い」であるとか、「本物の自分になる」とかと言われることが実現するであろう。そして、学習者である児童・生徒及び学生にこれらのことを自覚させることが一つの福音宣教であると言えるのである。進路指導における福音宣教の第一段階は、自己の存在を福音的人間観に基づいて捉えさせることにある。
 
 自己の存在自体を福音的人間観に基づいて認識できれば、神より自己に与えられた固有の命を生かし、その使命を果たそうと生きるであろう。それは取りも直さず、社会に対する働きかけに繋がるから、神の御計画の実現の一躍を担うことになるわけである。よって、進路指導における福音宣教の第二段階は、福音的世界観を持たせることにある。福音的世界観とは、神の御計画に従ってこの世界が創られ、神の御摂理の中ですべての営みが為されているという事である。だから自己の存在が、神の御計画と店吊りの中に組み込まれていると言うこと、そして私たち人間が、人間生活の営みの中で起こるさまざまな困難や苦しみ、理不尽なことやどうにもできないこと等々からの救いが、イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって実現し、ついには罪による死からも解放されて復活し、永遠の命に与るという完全な姿に招かれている存在であるということである。
 
 このような福音的世界観が学習者に形成されれば、福音的人間観と相まって自ずとおのおの自己に与えられた固有の使命を見いだし、それを全うさせることに邁進することであろう。私たち人間には、それぞれに固有の使命が与えられて、それに見合った能力が授けられている。しかし、それはあくまでも萌芽であって自ら培い、他者から育まれること無しには実ることはない。だから、福音的な進路指導において最も重要で必要な役割は、われわれ教師が学習者である個々人のそれぞれが神より授かった固有の使命や能力に先ずは気づかせ、その萌芽を育むよう導いていくことであると言えよう。このことが、進路指導における福音宣教の第二段階である。
 
 進路指導における福音宣教の第三段階は、弁証法的に考えると第一段階における「自己の存在を福音的人間観に基づいて捉えさせること。」と第二段階における「福音的世界観を持たせること。」を止揚させるという統合的作業である。それは、学習者である児童・生徒及び学生がそれぞれの成長段階における発達課題の達成とともに、自己の能力の開化や伸長及び開発を福音的人間観に基づいた目的のために行うことと、現在及び将来の自分を他者のために生かそうと決意する段階にまで引き揚げることである。この作業によって、カトリック学校の進路指導における福音宣教は、神学的知識または直接的な聖書のみ言葉を語ることなく、実質的かつ有機的に学習者の適正や将来の希望を考えさせながら達成させることができる。
 
 そもそも人間はすべてにおいて皆それぞれに生まれ、育てられて創られていく。その千差万別の異なる成長過程や能力・気質・性格等の人格の差異が存在する本質的理由は、絶対者である神より固有の生と使命を授けられているからなのであるとともに、そのすべてにおいて異なる人間が、神の御摂理に従って神の御計画の実現である真に幸福な世界の創造のためであることに他ならないであろう。
 
 私たちカトリック学校の教師は、いかなる理由があっても児童・生徒及び学生を排除もしくは疎外することがあってはならないのであって、福音的人間観と福音的世界観を日々の教育活動の根底に据え、学習者である幼児・児童・生徒及び学生の一人ひとりが神から固有の生と使命を授かった存在であることを心にとめながら、特に学習者の将来を決定づけることに繋がる進路指導においては、最善の注意と心配りをもって当たっていかなければならない。
 
 進路指導における福音宣教とは、私たち教師が学習者である幼児・児童・生徒及び学生それぞれの発達段階に応じて、一人ひとりの存在を福音的人間観及び福音的世界観に基づいて受け止めるとともに、学習者に対してもそのことに気づかせるよう導くことである。その結果、学習者の一人ひとりが社会との関わりの中でイエス・キリストの教えに学び、自己を他者に与えるということが自己を生かす最上の手段であるとともに、この世で最も崇高で尊い行為であって、それが神の御計画に参与することになると同時に、そのために自分の存在があるのだという覚醒に繋がることであろう。
 

Last updated: 2008/11/4