どの学校にも学則というものが定められている。その中には必ず賞罰の項目があり、停学や退学処分についての規定がある。停学処分や退学処分の対象となるのは、学校保健法施行規則による出席停止処置を除けば、その主たるものは校則違反や法律を犯すなどの非社会的行動によるものがほとんどである。しかし、ここで一つの疑問を呈したい。非行や問題行動を起こした生徒を停学や退学等の処分をするこは、たとえ、周囲に対する抑制力(見せしめ)にはなり得たとしても、果たしてその生徒に本来的な反省を促したり、改心をさせるような教育効果があるのだろうかと言うことである。わたしは、ここで前項で記したように再度申し上げる。「人は、人によって育てられるが、裁かれることによってではなく、ゆるされることによってのみ成長する。」と。そして、もう一つ「私たち教師は、裁き手ではなく、人の導き手である。」ということだ。ともすると、私たち教師は、児童・生徒及び学生に対して学校の閉鎖性および教師の個人的教育観による了見の狭さという性格上から、裁き手になりがちなものである。私たちは教師は、教育活動の結果を評価するという大切な作業からは逃れられないが、評価と裁きを混同してはならないのであって、学習活動に対する評価の延長線上で、安易に人格を評価し断罪するようなことがあってはならないということを肝に銘じておかなければならない。
では、「赦し」や「裁き」について、イエス・キリストのみ言葉を聖書から引用し、私たち人間にとって「赦し」こそが生きる道であるというイエス・キリストのみ教えを再確認してみたい。
@「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ18:21〜36)
その時、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたたちに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸したお金を決済しようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れてこられた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってくださいきっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで主君はその家来を呼びつけていった。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を前部長消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
A「人を裁くな」(マタイ7:1〜6、ルカ6:37〜38、41〜42)
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」
あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
B「赦し」(ルカ17:1〜4)
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらすものは不幸である。そのような者は、これらの小さいもの一人をつまずかせるよりも、首にひき臼をかけられて海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
B「罪深い女を赦す」(ルカ7:36〜50(抜粋))
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
C「ベルゼブル論争」(マタイ12:31〜32(抜粋))
「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」
D「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:1〜11)
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。女が、「主よだれも」言うと、イエスは一言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
E「『放蕩息子』のたとえ」(ルカ15:11〜32)
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢誰が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輸をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に人ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦ともと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
F「立法学者とファリサイ派の人々を非難する」(マタイ23:1〜12)
それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しにななった。律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷を
まとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生」と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
このほかにも聖書には、私たちカトリック学校が生徒指導上守らなければならない掟とも言えるべき原則を学べるところがいくつもある。まずは私たちカトリック学校に奉職する教師の一人ひとりが、イエス・キリストの教えを十分に学ぶことで、学習者である幼児・児童・生徒及び学生を、『私たち人間の一人ひとりは、神の御計画によって、神が必要としたために、神より生を受け、神より固有の使命と存在価値を与えられ、神よりこの世に招かれた、かけがえのない存在である。』と受け止めるとともに、私たち教師は、『教師』でありながら否『教師』であるからこそ「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」のイエス・キリストの教えを忘れることなく、主である神には勿論のこと、学習者である幼児・児童・生徒及び学生に使えるものとしての自覚を常に念頭に置きながら、原罪に定められた人間に対する「赦し」を教育の根底において、「人の裁き手」ではなく「人の導き手」としての使命を全うしていかなければならないのである。
カトリック学校にとって福音的人間観に基づいた福音的生徒指導は、ミッションスクールとして絶対に死守しなければならない生命線とでもいうべきものである。これを疎かにするのならば、即座にでもカトリック学校としての看板を下ろさなければならないだろうし、最も重要な存在価値とその役割としての福音宣教というミッションを果たすことはできない。福音的生徒指導とは、それだけイエス・キリストの教えの核心をなすものだからなのである。
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