兄弟の皆さん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、聖霊に導かれて生きている人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。あなたも誘惑されないように、自分に気を付けなさい。互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります。何ものでもないのに、自分はひとかどのものだと思うのならば、自分自身を欺くことになります。一人びとり自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分にだけは誇れても、他人に対して誇ることはできないでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負っているからです。
(ガラテヤ6:1〜5)

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カトリック教育聖省文書

カトリック学校に関連するローマカトリック教会教育聖省からの公式文書
1 カトリック学校 1977年3月
2 紀元2000年を迎えるカトリック学校 1997年12月
3 学校に働く信徒の使命
−信仰の証人として−
 
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 1     T 紀元二千年を迎えるカトリック学校 カトリック教育省 はじめに H18年3月8日(水) 
はじめに
 
1.紀元二千年の到未を迎えるに当たって、教育は社会的な意味でも政治的な意味でも新たな状況に直面している。何よりまず、特に先進諸国の社会において、多くの場合教育はマスメディアにあおられた主観主義、あるいは道徳的相対主義、あるいはニヒリズム(虚無主義)の形を取った価値観の危機に遭遇している。現在の社会に蔓延している極端な多元主義は、共同体のアイデンティティを脅かすほど相互に対立する行動様式を生み出している。急速な構造上の変化と、驚くべき技術上の革新と、経済の地球規模化とは、世界のいたるところでいやが応でも人間の生活に影響を及ぼすようになった。人類皆の繁栄の未来像とは裏腹に貧富の格差は広がり、発展途上国から先進国への人の移動が顕著となっている。多種文化の共存している現象と、多くの宗教を容認する社会がふえている事実は、社会を豊かにしていると同時に、いろいろの問題をも生み出している。更に、長年にわたって福音宣教が行われてきている国々において、人間の存在を効果的かつ説得力を持って解釈する光の源としてのキリスト教の信仰が、徐々に周辺に押しやられている事実も忘れてはならない。
 
2.特に教育の分野では教育機能の範囲は広がり、複雑さを増し、徐々に専門化している。教育学はかつて子どもの生育と教師の養成を中心にしていたが、今では生涯のあらゆる段階と、学校以外の様々の領域や状況を含む拡がりを持つものになった。伝統的に守ってきたことだけでなく、時代は新しい内容と新しい可能性と新しい教育のモデルを要求している。かくて今日、教育、なかんづく学校教育を行うことが特にむずかしくなっている。
 
3.このような状況のもと、カトリック学校に勇気ある刷新が求められている。何世紀もの間に獲得された貴い経験の遺産は、今こそ適当な刷新を行う力としてそのバイタリティを発揮しなければならない。したがってカトリック学校は、昔したと同様に今日効果的に、かつ説得力のある形でその立場をはっきり主張しなければならない。それは単に適応の問題ではなく、救いのたまものを受けさせるため、人びとのいるところどこにでも赴いて、福音宣教という根本的な義務を果たす熱意の問題である。
 
4.かくてカトリック教育省は、紀元二千年という大きな祝いの年の準備期間に、それはまたカトリツクスクール・オフィスの創立三十周年記念と、一九七七年三月十九日に発刊された『カトリック学校』誌の二十周年記念を祝う時でもあるので、「『カトリック』と呼称する学校の本質とその明確な特色に焦点を当てるこど」を提案する。したがってこの文書は、カトリック学校で教育に携わるすべての者に激励と希望の言葉を伝えるために作成されたものである。特にこの文書を通して教育省は、カトリック学校が挙げている良い成果をともに喜ぶとともに、カトリック学校が抱えている問題に対する苦悩をもともに分かち合うのである。第ニバチカン公会議の教えも、教皇からの数え切れないほどの助言も、シノドス定例あるいは臨時の代表司教会議、各教区の教会栽治権者の司牧的配慮、司教協議会、教育と学校に関係する国際的なカトリックの組織などもすべて私たちの確信を支持している。その確信とは、教会と社会に対して効果的な教育活動を行うためには、カトリック学校がその根本的な特色について細心の注意を払うことは時宜を得たことであり、まことに重要だという確信である。根本的特色のいくつかは次のようである。「キリストを礎とする明確な教育計画(プロジェクト)を通しての全人教育の場としてのカトリック学校」「カトリック学校の教会的、文化的アイデンティティ」「愛の業としての教育の使命」「社会に対する奉仕」「教育共同体の特色であるべき諸点」
 
 2     U 喜びと問題点 H18年3月8日(水) 
5.私たちは数十年来カトリツク学校が積極的に歩んできた道を顧みて満足している。何よりまず私たちは、教育以外の牧職が不可能な地域を含め、世界のいたるところで、カトリック学枚が教会の宣教の使命を果たすのに貢献していることを認めなければならない。加えて、ガトリック学校は、おびただしい障害にもかかわらず、所属する諸共同体と諸国民と共に社会的・文化的発展の責任を分かち合い、その喜び、希望、苦しみと困難、真に人間的でしかもコミュニテリアンな進歩を達成する努力をともにしている。この点でカトリック学校は、恵まれない諸国民の精神的・物質的向上のために計り知れないほど貴重な奉仕を行っていることにも触れておかねばならない。カトリック学校が教育と教授法の分野での刷新に貢献していること、実に多くの男女が精力的にそれに参加していること、特に教職にあることを真の使徒職でかつ使命であると考えている修道者ならびに信徒に対して、感謝の念を示すことは私たちの義務である。最後に、カトリック学校が特に家庭に対して、組織立った司牧的な仕事においても、司牧的な心遣いにおいても果たしている役割を忘れてはならない。カトリツク学校は親子の間にある教育的な力関係の中に上手に入り込み、特に富んでいる国の中でますます増加している「脆(もろ)い」家族、崩壊した家族のために、目立つことなく、しかもきめこまやかな援助の手を差し伸べているのである。
 
6.カトリツク学校が、二十世紀の不安に満ちた終末を取り巻く様々な問題を賢明に解決していく一つの場であることは疑いの余地がない。かくてカトリック学校は、現代社会の中で生きることの難しさを体験している青少年と向き合っている。努力をいとう生徒たちには犠牲心もねばり強さもなく、また家族の中でさえ子どもたちは模範とするモデルを見いだすことができないでいる場合が多い。生徒たちは宗教に無関心であり、実践していないばかりか宗教的にも道徳的にも全く教育されていないケースが増えている。数多くの生徒もその家族も、倫理的・宗教的な養成に対して強い嫌悪感を持ち、事実、カトリック学校に求められているのは修了証書であり、良く言って良い授業と就職のためのトレーニングでしかない。そのような雰囲気は教える側にもやる気をなくさせ、この倦怠感が今日の状況のもとで、教師の役割と教育学者の役割との間の折り合いをいよいよ困難にしている。
 
7.現存する諸問題の中には、政治的な意味でも社会的な意味でも文化的な意味でも、カトリツク学校に通うことを困難ないしは不可能にさせる状況が存在している。世界の各地に起きている大規模な飢えと貧しさ、内乱と内戦、都会の劣化、大都市における犯罪の蔓延は、教育ならびに養成計画の実施を妨げている。また、他の地域では政治が邪魔をしていることがある。政府は実際にカトリック学校の運営を阻止しているわけではない。態度、民主的なやり方、人権への配慮に関する限りでは進歩しているにもかかわらずである。財政問題も困難を助長している。国公立でない学校に対して政府の援助が与えられていない国々での問題は深刻である。国公立学校に子どもたちを入れようとしなかった家族は、耐えられないほどの財政的な負担を負わされていて、それは学校の存在さえも危うくしている。さらに、このような財政的な緊張は、教師たちの採用とその学校における教師の身分の安定にも影響を及ぼすのみならず、すべての者に開かれているということをその一つの顕著な特色とするカトリック学校から、授業料の払えない子どもたちを締め出すことにもなっているのである。
 
 3     V 前進をめざして H18年3月8日(水) 
8.決してその全容を示したものではないが、以上述べたカトリック学校の抱える喜びと問題点の概要は、紀元二千年の到来を迎えるにあたって、カトリツク学校が若い世代の教育にどのような貢献ができるかを考えさせることとなるだろう。教皇ヨハネ・バウロ二世も書いておられる。「世界と教会の将来は『若き世代』のものである。それは今世紀に生まれ、新しく始まる一千年の最初の世紀において大人になる人びとのものである。」かくてカトリック学校は、これら若者たちが、技術的・科学的能力に特徴づけられる社会において生きてゆくために必要な知識を獲得する手段を提供しなければならない。しかし、それと同時に私たちは何にもまして、彼らにしっかりとしたキリスト教的な教育を施さなければならないのである。そしてカトリック学校が現代の世界において教育の一つの場であるためには、その根本的な特色を強化する必要があるとの確信を持たねばならない。
 
 
人格とその教育
 
9.カトリック学校は一人格になるための、また人格としての人間のための学校であることをその根本としている。「物質的あるいは精神的ニーズを持った個々の人間の人格こそはキリストの教えの中核である。したがって人間が人格になっていくことがカトリック学校の目標なのである。」この人間とキリストとの間のかけがえのない関係を強調する信念が、人間に関する真理の全容はキリストにおいてのみ明らかになると教えるのである。このためカトリック学校は、人間の全人的発達をその目的とすることにおいて、教会の要請に応え、人間のすべての価値のあますところのない現実と一致がキリストにおいて完成することに気づいている。この気づきはカトリック学校の教育プロジェクトが人格をその中心においていることに具現されていて、その教育的努力を力づけ、強固な人格性の育成へとその努力を導いているのである。
 
10.我々の時代の杜会的・文化的雰囲気は、「カトリック学校の根本的存在意義と、その本来の使徒職の土台、カトリック学校の価値」を影の薄いものにする危険を孕んでいる。最近は、学校と教育を巡る世論、国際的な組織、諸政府の関心が高まり、以前よりも敏感になっていることは確かであるが、しかし教育を全く技術的、ないしば実用的なものに格下げしようとする傾向が目立っている。教育学と教育に関する諸科学は、深い意味を持つ教育の価値とヴィジョンという本質的なものよリも、むしろ現象学と教授法の研究に注意を多く向けているように思われる。内容をぼやかす危険をもたらすゆるやかで安易な合意が求められ、一般的な価値観によって教育の断片化が行われ、学校は世間が求める中立性に後退させられる恐れがある。このような中立性は、教育によって引き出せる潜在的可能性を弱め、生徒たちの人格形成に否定的な影響を与える。教育は常に、人間とは何か、生きるとはどういうことかについてのはっきりした概念を持ち、それを前提として行われるものであるのに、そのことを忘れる傾向がある。学校が中立を表明するということは往々にして、宗教に関係のあることを教育と文化の領域からすべて締め出す結果を生むことになりかねない。しかしながら正しい教育学的アプローチというものは究極的な人生の目標の中において、より決定的な分野に対して開かれているべきで、それは「いかに」という方法だけでなく、「何故」という理由に触れるものでなければならない。それは教育の中立性の主張についての誤解を正し、知識と獲得した事実との間をさ迷うことから起きる分裂から、教育というプロセスに一致を取り戻すのだ。そして一人の人間をその全き存在、周囲から超脱することができる存在、しかも歴史の中で生きている存在としてクローズアップするのである。キリストの福音に生かされた教育プロジェクトにより、カトリック学校はこのチャレンジを受け止め、「人となられたみことばの秘義によってのみ人間の秘義は明らかになる」という確信をもってそのチャレンジに応えるよう召されているのである。
 
 4     W 教会の中心にあるカトリック学校 H18年3月8日(水) 
11.現代の世界の複雑さは、カトリック学校のカトリツク的アイデンティティヘのよりいっそうの自覚を必要としている。このカトリック的アイデンティティからこそカトリック学校はその独自の特色を打ち出し、"組織"として現実的、かつ特別な司牧の場の一つ、教会の正真正銘の道具であり得るのだ。カトリツク学校は教会の福音宣教の使命に参与し、キリスト教的な教育を実施する特権を持った場でもある。このようにして、「カトリック学校は同時に福音宣教と全人教育の場であり、文化的受肉の場、異なった宗教と社会的背景を持つ若者たちが、活溌な対話を交わす訓練を受ける場でもあり得るのだ。」つまりカトリック学校のカトリック的性質は、教えることを旨とする場としての学校のアイデンティティそのものの中にある。それはそこで行われる教育活動ゆえに、一つの真の正当な司牧的集団となり、「そこにおいて信仰と文化と生活は調和的なものになる」のである。かくて、カトリツク学校のこの教会的ディメンション(次元)は、単なる付加物ではなく、正当かつ特別な役割であり、教育活動のあらゆる瞬間に浸透、かつ充満する独自の特色であり、そのカトリツク性の基礎となるものであり、その使命の中心であることが強調されねばならない。この次元を育成してゆくことこそ教育共同体を構成する全員の目標でなければならない。
 
12.このアイデンティティ故に、カトリツク学校はキリスト教的共同体の中で作られる教会的体験をする一つの場である。しかしながら、忘れてならないことは、キリスト教的共同体の有機的な司牧的活動の中に位置づけられた場合にのみ、学校は教会を体験する役割を果たすということだ。カトリック学校は特別な方法で若者たちにキリスト教的な人間形成を助ける出会いの場を提供することができるのだ。しかしながら不幸にして学校が躍動」する司牧的活動の重要な部分とみなされていない場合があり、ときには共同体とは異質のもの、あるいは異質に近いものと考えられる場含もある。そういうわけで各教区の司牧的共同体の、教育と学校に対する意識を高めることは緊急の要である。
 
13.教会の中で、カトリック学校は何よりまず、多くの修道会が、その独特のカリズマと特別の使徒職に基づいて、教育に惜しみなく奉献したことの目に見えるあかしである。しかしながら、ここにも問題がないわけではない。会員の召命の数が驚くほど減少しているだけでなく、修道会員をして教育使徒職を放棄させる重大な誤解も生じている。言いかえれば、一方では学校の仕事を司牧的な活動と分離させようとする動きがあり、他方では具体的な教育活動を修道生活の特定の要求と両立させることがむずかしくなっているのである。それぞれの修道会の創立者たちが当初持っていた豊かな直感力は、どんな理屈を挙げようとも、このような態度が根拠のない危険なものであるかを雄弁に物語るものである。私たちは教育共同体の中で生涯をささげる修道者の存在が不可欠のものであることを忘れてはならない。なぜかというと、「自らを奉献した人々は、教育活動において特に効果をあげることができる」からである。彼らは、修道的奉献のうちに、自らを他者への奉仕のためにあますところなく無報酬で与える姿を身を以って示している。修道者の存在は、司祭と信徒の教師とともに生徒たちに、「教会のイメージを生き生きと示し、教会の豊かさ」を知らせているのである。
 
 5     X カトリツク学校の文化的アイデンティティー H18年3月8日(水) 
14.カトリツク学校の性質の中から、教育プロジェクトの極めて顕著な要素の一つ、文化と信仰の統合も生まれてくる。実に、信仰というコンテックスの中で知識は知恵となり、ヴィジョンとなるのだ。個々の教科を貫く理性と信仰を一つに織りなす努力によってそこに一致と統合と連携が生まれ、学校で習ったことの中から世界と人生と文化と歴史に対するキリスト教的ヴィジョンが産み出される。カトリツク学校の教育プロジエクトの中では学習の時間と人間形成の時間は異なったものではなく、また、概念を修得することはそのまま思慮深くなってゆくことなのである。いろいろの科目は、知識を獲得するためにのみあるのではなく、価値を身につけ、真理を発見するためにあるのだ。これらすべては真理探求の雰囲気を必要とする。そこにおいては、確信を持ち首尾一貫した教育者、学問と人生の教師は、不完全ながらも、唯一の師であるキリストの姿を生き生きと写し出しているのである。その意味で、キリスト教的な教育プロジェクトにおいて、すべての科目はそれぞれの異なった内容を持ちながらも、成熟した人間性の形成に寄与し合っているのである。
 

Last updated: 2007/1/5