兄弟の皆さん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、聖霊に導かれて生きている人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。あなたも誘惑されないように、自分に気を付けなさい。互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります。何ものでもないのに、自分はひとかどのものだと思うのならば、自分自身を欺くことになります。一人びとり自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分にだけは誇れても、他人に対して誇ることはできないでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負っているからです。
(ガラテヤ6:1〜5)

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カトリック教育聖省文書

カトリック学校に関連するローマカトリック教会教育聖省からの公式文書
1 カトリック学校 1977年3月
2 紀元2000年を迎えるカトリック学校 1997年12月
3 学校に働く信徒の使命
−信仰の証人として−
 
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 26     [ (2)さまぎまの教育思想を共有する学校の場合 H18年3月8日(水) 
(2)さまぎまの教育思想を共有する学校の場合
 
47 多元的な思想を持つ学校
 
 ここでは、カトリック学校とは教育思想を異にしながらも、キリスト教の人間観や人生観と本質的には矛盾しない公・私立学校を取りあげる。世界中の大半の学校は、このようなタイプのものである。こうした学校の教育基本方針には、明確な人間観および人生観をもって展開したものもあれば、もっと狭く限定して、ある特定のイデオロギーを建学の精神にするところも見うけられる。また、ある一般的原則の枠内で、教師たちのあいだにさまざまの思想やイデオロギーが共存することを容認する学校もある。この場合の「共存」とは、ここでは多元主義を表明するものと解してよかろう。そのような学校では、それぞれの教育者が、自分の人間観と独自のイデオロギーにしたがって授業をしたり、生活原則について説明したり、価値観を育成したりしている。こうして、いわゆる中立の学校というものは実際には存在していないので、ここでは問題にしない。
 
48 教会を独特の形で示す信徒
 
 今日の多元的で世俗化した世界では、教会の存在を示す唯一の手段はこれらの学校で働く信徒だ、ということがしばしば生じる。これは、さきに述べたことの具体的な一例である。つまり、教会は信徒によってのみ、ある特定の環境や学校に触れることが可能となるのである。この事実をはっきり自覚するならば、これに勇気づけられて、信徒がみずからの責任を引き受けていくようになるであろう。
 
49 文化と信仰との対語への導き
 
 信徒の教師は教科を担当する際に、キリスト教信仰の洞察が、自分の教える科目とも、また生徒集団や学校それぞれの情況とも両立するほどに、それを自分のものにしていなけれぱならない。そうすることによって教師は、生徒が真の人間的な価値を発見する助けとなろう。一方、たとえ学校に宗教教育をする意図が全くなく、むしろ実際上は、宗教教育に直接対立する多くの要因が作用しているような、その学校固有の制約のなかで働かねばたらないとしても、なお教師は、信仰と文化の対話を始めるという点で、貢献をなしうる。将来、生徒が両老を真に調和させるところまで導きうるものは、この種の対話にほかならない。このような努力は、カトリックの生徒には特に実りあるものとなるにちがいなく、カトリックでない生徒には、ある意味での福音宣教となりうるのである。
 
50 他人の信念の尊重
 
 思想上多元的な学校では、自分の信仰にしたがって生きると同時に、常に生徒の人権を侵害しない限りという条件のもとで、他の教育者の思想的な立場や活動を注意深く尊重する必要がある。相互に尊重し合うことによって、すべての善意の人びと、なかんずく他のキリスト者とのあいだに建設的な対話が始まる。こうして、多元的杜会の必然的な実りである信教の自由と人間の自由が、キリスト教信仰の立場から単に理論的に擁護されるほかりでなく、具体的に実践される現実が、必ずや明白に示されるであろう。
 
51 信徒と教育共同体の他の成員との関係
 
 同僚のいろいろな活動、教育共同体の他の成員との関係、そして特に生徒の保護者たちとの関係に積極的にあずかっていくことは、とても大切なことである。これを通して、信徒が働いている学校の教育目標やカリキュラム、また教授方法のなかに、次第に福音の精神を浸透させていくことができるからである。
 
52 福音に生きる者のイメージを映す信徒
 
 専門職に精進すること。真理と正義そして自由を支持すること。常に奉仕的な態度で他人の立場に心を開いていること。生徒に対して自分から進んで献身し、兄弟としてすべての人と連帯を結ぶこと。あらゆる点で全く良心的に生活すること。以上のことを、多元主義の学校で働きたがら実践しているカトリック信徒は、生きた鏡となる。その教育共同体の一人ひとりがその鏡のなかに見るものは、福音に生かされた者のイメージを映し出した姿なのである。
 
(3) その他の掌校の場合
 
53 布教地の学校に働く信徒
 
 ここでは特に、布教地と呼ばれている国々の学校、ないしは、キリスト教の活動がほとんど全面的に失なわれてしまった国々の学校のことを、念頭においている。おそらく信徒は、学校においてのみでなく、自分が居住Lている地域でも、教会をさし示す唯一の存在である。こうした情況にあっては、信仰の呼びかけはほかに道がない。信徒の教師が、生徒に対し、その教育共同体の他の成員に対し、また、自分がひとりの教育者として、あるいはひとりの人間として接するすべての者に対し、福音のメッセージを宣言する唯一の声なのである。これまで述べてきたひとつひとつのこと、たとえば、責任の自覚、教授についての(一般的に言えば教育について)のキリスト教的見地、他人の信念の尊重、カトリック以外のキリスト者、およびキリスト教を信じていない人びととの建設的な対話、学校の各種グループヘの積極的な参与、そして何よりも大切な自分自身の生活による生きたあかし−これらはすべて、学校の置かれている情況が右のとおりのところでは、決定的に重要となる。
 
54 教会が追害されている国々の場合
 
 最後に、忘れることができないのは、教会が迫害されている国々、キリスト教徒だということが判明すれば、教育者としては働けなくなるような国々の学校で働いている信徒である。学校の方針は無神論に根ざしており、そこで働く信徒は、自分が信仰者であることを隠していなければならない。このような困難な情況では、ただ存在しているだけであっても、もしもそれが福音に導かれている者の、無言ではあるが生気に満ちたものであれば、すでにキリストのメッセージの有効な宣言となっている。それは、学校で無神論的な教育を促進する人びとの、有害な目論見を打ち消していく役目を果たす。そしてこのあかしは、生徒と個人的にも触れ合っていくならば、諸々の困難にもかかわらず、より一層明示的に福音を宣教する機会に恵まれることもあろう。信徒の教師は、カトリック教徒であることを名乗りえないままであるにしても、こうした情況を憂う人間的、宗教的動機によって、やはり唯一の道となりうる。これらの国々の多くの若人たちは、彼ら教師を通して、学校で歪められ攻撃されている福音と教会について、幾分でも正しい知識を持つようになりうるのである。
 
55 カトリックでない生徒との接触
 
 どのような種類の学校でも、特にある国々においては、信徒の教師がカトリックでない生徒と接触する機会がたびたびある。その際に執るべき態度は、その生徒を尊重するだけでなく、気持よく受け入れ、普遍的なキリスト教の愛に動機づけられて対話を始めるとよい。これに加えて信徒の教師は、真の意味の教育は、知識の伝達につきるのではなく、人間の尊厳を高め、真の人間関係を樹立し、真理、すなわちキリストに心を開いていく道を準備するものだ、ということを常に心に刻んでおくとよかろう。
 
 27     \ 3 宗教の教師としての信徒教育者 H18年3月8日(水) 
3 宗教の教師としての信徒教育者
 
56 宗教の授業
 
 宗教を教えることは、どの学校においても妥当なことである。なぜなら、学校の目的は、人間の持つ基本的な次元のすべてについて人間を育成することであり、宗教の次元は、この人間形成に欠くことのできないひとつの部分だからである。宗教教育は、実際に生徒と両親の権利−これに相応する義務も伴うが−なのである。少なくともカトリックの立場では、これまで数多くの場合に強調されてきたとおり、宗教教育は、信仰と文化を適切に総合していくための、この上なく重要な手段である。
 したがってカトリックの宗教の授業は、いわゆる要理教育とは区別されるものであり、同時にそれを補足するものであって、当然、すべての学校のカリキュラムの一部を形成すべきものである。
 
57 信徒使徒職の優れた一方法
 
 宗教を教授することは、要理教育とともに、「最も優れた形の信徒使徒職」である。このため、また今日の巨大な学校組織で宗教を教えるには、多くの教師が必要となるため、信徒は大多数の場合、それも特に基礎教育の段階で、宗教教育を担当する責任を有している。
 
58 信徒に与えられた活動分野
 
 したがって信徒は、さまざまの場所でさまざまの情況にしたがって、こうした宗教教育の分野で自分たちに与えられている、この重大な役割を自覚せねばならない。信徒の寛大な協力がないならば、宗教の教師の人数は、目下の必要を満たすためにも不足を来たす。ある国々では、すでにそれが現実となっている。他の多くの点と同様、この点においても、教会は信徒の協力を頼んでいる。若い教会では、これは特に緊急を要しているはずである。
 
59 教導職への忠誠
 
 宗教の教師の役割は、きわめて重要である。なぜなら、この教師に「要求されているのは、自分あるいは誰かほかの教師の教えを伝えるのではなく、イエズス・キリストご自身の教えを伝えることだからである。したがって宗教の教師(および要理教師)は、教える相手の特質を考慮に入れて、「教導職の指導と真の源泉に忠実に従うよう心がけながら、自分の考察や授業に光を与えうるものを、神学的研究の成果から用立てるあらゆる機会を利用するとよい。」そのようにしてはじめて彼ら教師は、適切にその役割を果たすことができる。それで「教師は、変わった教説でもって子どもや青少年の心を混乱させてはならない。」さらに、宗教の教師自身の神学的および教育学的養成に関し、また彼らの教授細目に関し、その地の司教が定めた規準はすべて忠実に順守されねばならない。他面、彼らはこの種の分野では何よりも、生活によるあかしと熱心な宗教的実践とが、特に肝要であることを心に銘記しておくべきである。
 28     ] 三 学校で信仰をあかしする信徒の養成 H18年3月8日(水) 
三、学校で信仰をあかしする信徒の養成
 
60 あかしするための適切な養成
 
 学校に働く信徒の場合のように、内容ゆたかで奥深い召命を実際に生きぬくには、専門の面でも宗教の面でも、適切な養成が必要である。ことにこうした教育者に求められるのは、深いキリスト教的生活に現れてくる、円熟した霊的な人柄を身につけることである。第ニバチカン公会議は、教育者について語って言う、「この職務は入念な準備」が必要である。「したがって(教師は)、一般的な知識と宗教上の知識を証するために、必要な学位を取得し、目進月歩の時代にかなった教育技術を体得するよう、特に心がけて準備しなければならない」と。なかんずく、急を要するのは宗教と霊性の分野での適切な養成である。あまりにも多くの場合信徒は、自分の一般的知識面、文化面、そしてとりわけ専門的教養面に匹敵するほどの宗教上の養成を受けてはいないからである。
 
1 自覚と奨励
 
61 聖化の手段および使徒職としての教育
 
 概して学校に職を得る準備をしている信徒は、自分の召命を純粋に人間的なものとみなしがちである。彼らは、教育者となるのに必要な望ましい専門的養成については、十分気を配っている。しかしそうした気づかいが、職業的レベルのみに留まっているなら、それはカトリック信徒の特徴としては不十分である。彼ら信徒の教職は、本人を聖化する基本的手段であり、同時に使徒的使命の実践だからである。学校で働く信徒に要求されているのは、みずからの働きがそのまま召命を生きることなのだ、という自覚である。この自覚をどの程度持っているかは、信徒が自分自身に問うてみるべき事柄である。
 
62 刷新の必要な信徒の宗教的養成
 
 宗教的養成の必要性は、信徒に問われているこの特別な自覚と結びついている。宗教的養成は幅の広い、時代に適するもので、人間形成全体と同じレベルに達し、しかもそれと調和するものでたければならない。信徒は、この種の宗教的養成の必要性を深く悟らなければいけない。それは、使徒職実践の成否がこれによって左右されるから、というため
ばかりではない。加えて、特に教育の分野に欠かせないふさわしい専門的資格もまた、この宗教的養成のいかんに依存しているからである。
 
63 自分の召命の十全な実現
 
 これらの考察が目的とするところは、そうした自覚を呼びさますことであり、また各自に働きかけて、カトリックの教育者という信徒の召命を十全に生きぬくための基本的要件を、自分がどのくらい具えているかを熟考させることである。ここで問題の焦点となっているものはまさに本質的なので、それを単に意識するだけでも、求められている以下のような努力を生み出す大きな励みとなろう。つまり、養成の面で欠けているものが何であれ、それを身につけ、すでに身につけたものはすべて適度なレベルを維持していく、という努力である。その際、信徒が次の点についての期待を抱いてもよい。すなわち、教会共同体のなかで、司教、司祭、修道老、および、特に教育という使徒職に身をささげている人びと、さらに、信徒の教育者からなる種々のグループや連盟組織が手を貸して、彼ら信徒の教育者に、その養成面におけるそれぞれの不足に気づかせてくれること、そして同時に、彼らがそのような養成の要求する対社会的献身に、より一層徹底的に適進するように力づける、いろいろな手立てを見つけてくれることである。
 
2 専門的養成と宗教上の養成
 
64 適当な養成センターの選択
 
 教師養成セソターが提供する専門的訓練は、カトリックの教育者が自分の教育的使命を満たす上でとても役立つが、この訓練が、それを与える各センターの力量に応じて異なっている点は、注目されてよい。その理由は、専門科目(特に人文科目)の教授方法と、それを担当する教師の根本的な人間性、人生観、世界観とのあいだには、密接な関係が存するからである。教師養成センターの思想的傾向が、もしも多元主義的であれば、たやすく次のような事態が生じてくる。すなわち、将来のカトリック教育者は、現に学習しているそれぞれの科目について、信仰と文化との総合を個人的に進めるために、いろいろの勉強をもって補わねばならないのである。養成期間中彼らが忘れてならないのは、生徒が信仰と文化との対話を容易に発見し、この二つを、自分自身で徐々に総合していけるように導く方法をもって教材を提供すること、それこそ教師の役割だということである。これらをすべて考慮すれば、教師養成センターの存在する地では、教会の指導のもとでそうしたセンターに通うほうが好ましく、他方、この種のセンターが存在していないところでは、可能ならそれに類するものを設立するのが望ましい。
 
65 宗教上の養成
 
 カトリックの教育者にとって宗教上の養成は、教師としての基礎教育が修了したからといって、それで完成したわけではない。それは専門的養成の一都分であり、しかもそれを補完するものであって、おとなの信仰や人間の文化、それにとりわけ信徒の召命につり合ったものとならねばならない。つまり宗教上の養成は、個人的聖化と使徒的使命を、ともに目ざすものでなければならない。というのは、この二つは、キリスト者の召命のなかでは切り離せたいものだからである。「使徒職への育成は、各自のそれぞれの能力と身分に応じて、欠けることのない人聞的養成を前提とする」し、「霊的な養成以外に、……神学、倫理学、哲学を含めた教義上の堅実な教育も必要である。」その上教育者については、教会の社会的説教に関しても、適切な教育が不可欠であることを看過してはならない。これは「キリスト教的人生観に必須の部分」であり、今日求められている社会的意識を、常に生き生きと保持する力となるのである。
 教義の問題に関連して言えば、第ニバチカン公会議が特に教師について語った際に、適当な資格証明によって保証される、宗教上の知識の必要性を謳っていることは一考に価しよう。それゆえ学校に働くすべてのカトリツク信徒なかんずく教育者が、それの可能なところでは、この目的にかなった教会の機関とか、宗教学研究所とかで宗教上の養成プログラムを履修し、必要な資格を取ることが切に望まれる。
 
66 宗教数授に関する養成
 
 信徒の教育者が適当な学位を取得し、宗教教授の十分な準備を具えるなら、それは宗教の授業に必要な基礎的訓練を受けることにもなる。各地の司教は、宗教科担当の教師に対しても、また要理教師に対しても、必要とされる養成を促進し、その機会を提供するとよい。しかし司教は同時に、この養成を受けている教師たちとの対話をないがしろにせず、相互に啓発し合うとよいであろう。
 
67 絶えざる刷新
 
 近年、科学と技術の異常なまでの進歩を目の当りに見ている。すべてのもの、あらゆる情況、さらには価値という価値がみな、ひっきりなしに批判的分析の対象となっている。その結果、現代は変化を特徴とする時代になっている。しかもこの変化は、日夜、加速度的に進展し、人間自身、そして私たちの住む社会のすみずみにまで影響を与えている。この変化によって、ようやく習得された知識も、最近打ち立てられた機構も、またたく間に時代遅れのものとなる。新しい対応と新たな方法が常時必要とされるのである。
 
68 例外ではない宗教灼養成
 
 カトリックの教育者は、私たちがはじめて経験するこうした事態に直面して、自分の生活態度、教える教科内容、用いる教育方法のそれぞれについて、絶えず明確な刷新を重ねていかねばならない。教育者の召命には、「改善と適応をおこなうための不断の用意」が要求されていることを想起してほしい。それで絶えず刷新が求められるとすれば、教育者の養成も生涯続けられる必要がある。しかもこのことは、専門職の養成に限られるものではない。それは宗教上の養成、広く言えば、人間の全人格を充実させるものをも含んでいる。こうして教会は、みずからの司牧的使命を、各年齢層のすべての男女の情況に常に適応させる。これによりイエズス・キリストのメッセージが、分かりやすく、各自の情況に適した方法で伝えられることになるのである。
 
69 さまざまな養成手段
 
 生涯養成は、広範囲にわたるいろいろな側面に及ぶ。したがって、これを実際に果たす方途を捜すことは、個人にも共同体にも課せられた務めである。生涯養成にはさまざまの手段があるが、日常的で、現実に欠くことのできないものをいくつか挙げてみると、定期刊行物や関連図書を読む、講習会やセミナーに出席する、研修会や集会・大会に参加する、自由時間を適宜、養成のために活用する、といった方法がある。学校に働く信徒はすべて、これらを人間として、専門家として、また信者としての自分の毎目の生活のなかで、習慣化していくべきであろう。
 
70 困難だが必要な務め
 
 生涯養成が、その名の示すとおり、困難な務めであることは誰も否定できないし、誰もがそれに成功を収めるわけでもない。日ましに複雑化していく現代生活、本質的にむつかしさを抱えている教育という使命、それに多くの場合、経済的に不安定な状態が加わってくる点を考えると、生涯養成はいよいよ困難となる。しかしながら、これらすべての悪条件にもかかわらず、学校に働く信徒は、この今日の必要から目をそむけてはならない。これを無視すれば、時代遅れの知識、判断基準、生活態度に凝り固まったまま取り残されてしまう。生涯続く養成、そして人間として、専門家として、信者としての全人格に及ぶ養成を拒むなら、福音へと導くべき世界それ自体から、身を引いてLまうことになるのである。
 
 29     ]T 四 学校で働く信徒に対する教会の援助 H18年3月8日(水) 
四 学校で働く信徒に対する教会の援助
 
71 全教会に求められる支え
 
 学校で職務を遂行する信徒の置かれている情況は千差万別なので、彼らが孤立感に襲われたり、誤解されているような気持を味わうことも多い。そのため落胆したり、時には教える責任を放棄してしまうことさえある。こうした困難を克服するため、もっと一般化して言えば、みずからの召命を生きぬく上での力づけを求めて、学校に働く信徒が、いつも教会全体からの支えと助力を頼りにできるようでなくてはならない。
 
1 信仰とみことば、そして秘跡にもとづく生活による援助
 
72 謙遜な信仰・希望・愛
 
 まず何よりも、信徒は自分自身の信仰によって支えられる。信仰は、自分の召命を生きぬくために必要な謙遜、希望、愛の無尽の源泉である。なぜなら、誰であれ教育者が、みずからの限界とあやまちとを認め、自分が常に成長していかねばならず、自分の追求している理想はいつまでも実現しつくせないものと悟るには、謙遜が欠かせないからである。また教育者はみな、堅固な希望を持っていたければならない。というのは、教師とは、生徒のために骨折ったその実りを、みずから刈り入れる者ではないからである。最後にすべて教育者は、常に変わることなく成長していく愛を必要とする。それは、生徒の一人ひとりを、彼が神の似姿として創造されたものであり、イエズス・キリストのあがないの業によって神の子の位にあげられた者として、愛するためである。
 この謙虚な信仰、この希望、そしてこの愛は、みことばと秘跡による生活、それに神の民全体の祈りを通して、教会によって与えられている。というのは、みことばは教育者に語りかけ、教育者のアイデンティティとその任務の偉大さを思いおこさせる。秘跡による生活は、教師として生きていく上に必要な力となり、何かの失敗をなしたときには支えとなる。さらに全教会の祈りは、イエズス・キリストが約束された確かな応答に信頼して、教育者とともに、教育者のために、人間の心が希求し嘆願するすべてのこと、かてて加えて、あえて希望も嘆願もしないことまで、神に捧げるからである。
 
2 共同体による援助
 
73 信徒教育者の召命に対する正しい評価
 
 教育は、苦労は多いがこの上なく重要な仕泰である。そのため実際に教育するとなると、これはデリケートでしかも複雑である。教育という仕事には、落ち着き、心の平和、過剰負担からの解放、文化と信仰の両面での絶え間ない成長が要求される。だが今日の社会では、以上の条件がすべて同時に整うことは稀である。そこで信徒の教育者としての召命が何であるかは、教会の最適任者たちが神の民に対し、さらにたび重ねて、一層深いところまで説明してよいものである。教育というテーマは、このことばに含まれているあらゆる面にわたって、今まで以上に力をこめて発展させられて然るべきである。それというのも、教育は、教会がその救いの使命を果たす優れた機会のひとっだからである。
 
74 適度な社会的地位の保障
 
 この点が分かれば、必然的に教育についての望ましい理解と、適正な評価とが生じてくる。すべての信徒は、もしも教育者として働く信徒がいなければ、教会の信仰教育も重要な柱のひとつを欠くことにたる旨、よくわきまえておくべきである。したがって信徒はすべて、当然、教育者がその働きに相応する社会的地位と経済的水準を得られるよう、また、教育者がその任務を果たす上に無くてはならない、物心両面の安定を確保できるよう、力の限り積極的に協力しなければならない。教会の成員は誰であれ、それぞれの国にあって、教育政策の立法化およびその施行が、キリスト教的教育原則をできるだけ反映するように力をつくす戦いから、免じられているなどと考えてはならない。
 
75 促進すべきカトリックの連盟組織
 
 現代の世界情勢を直視するなら、教導職は、教育に献身する各種修道会とともに、教育にたずさわるカトリック信徒の、すでに存在している数多のグループや運動、また連盟組織を支援していくにちがいたい。その上、さらに他の新しいグルーブを組織して、各時代と、さまざまた国のさまざまな情況に最も適したタイプの連盟組織を、常に求めていくはずである。信徒の教育者の召命は、多くの教育上の目標に加えて、そこから生じてくる社会的および宗教的目標を達成することも求める。だがこれらのことは、結束した連盟組織の力がなければ、実現が不可能なのである。
 
3 学校白体からの援助−カトリック学校と信徒
 
76 他の組織の参考となるカトリック学校
 
 カトリック学校の重要性は、この場合、学校以外のカトリックの団体組織が、そこに働く信徒をどのように援助すべきかを示す、具体的実例になりうる点である。本聖省はかつて信徒の教師について語った際、カトリック学校の特徴は、教師のあかしと行動とによって与えられるものであるから、教師こそ何にもまして重要たものである」と、ためらうことなく宣言した。
 
77 調和のとれた雰囲笥
 
 信徒がカトリック学校に見い出すべきものは、何よりもまず、作為のない敬意と思いやりに満ちた雰囲気である。カトリック学校は、教育者相互のあいだに、ほんものの人間関係が樹立される場でなければならない。司祭、修道±、修道女、そして信徒は、それぞれ独自の召命にもとづくアィデンティティを保持しながら、同時にひとつの教育共同体に完全に統合される。しかもその一人ひとりは、
当然、この共同体の全く同等な成員として扱われるのである。
 
78 これを達成する手殴
 
 学校の理事とその同じ学佼に働く信徒とが、同じ理想のもとに生きるべきものとすれば、次の二点が重要である。第一に、信徒は、自分が学校で果たす職務に対し、十分に明確肢契約によって保障された、妥当な報酬を受けなければならない。それは、過剰な仕事を負担したり、教育者としての義務をおろそかにしかねない兼職に頼ったりする必要もなく、人間の品位ある募らしを営んでいけるだけの俸給である。これをただちに実現しようとすれば、家庭に非常な財政的負担をかけることになったり、学校の授業料を値上げしたために、それが一部のエリート集団の学校になってしまったりする恐れもある。しかし、真に妥当な額の俸給が支払われない限り、信徒は、その学校の理事会の第一の急務がそれを達成するのに必要な基金をつくり出すことにある、とみなして然るべきである。第二に、信徒は、学校の責任領域に真に参加すべきである。言いかえれば彼らは、必要な能力をあらゆる分野で有しているのであり、カトリック学校を特徴づける教育目標の実現に、真実かかわっているのである。そのため学校は、このような献身を励ますのに役立つ手段はすべて講じるべきで、それがなければ、この学校の種々の目標は、決して十全には実現されえたい。忘れてならないのは、学校というものは常につくられていくものであって、そのなかで役割を分担するすべての人びと、とりわけ教師たちの労苦のおかげで実を結んでいくものだ、ということである。望ましいこの種の参加を実現するためには、いくつかの条件が欠かせない。すなわち、信徒の召命を正しく尊重すること、必要な情報を交換すること、深い信頼感を寄せること、最後に、必要とあれば、学校の授業、管理、運営の責任を信徒の手にゆずること、である。
 
79 教育者の生涯養成への配慮
 
 学校はその使命の一端として、信徒の専門的および宗教上の生涯養成のために、手厚い配慮を加えるとよい。そうすれば信徒は、進むべき方向と必要な援助を学校に期待できることになるし、また必要に応じ、みずから進んでそのために時聞をさくようにもなろう。生涯養成は欠くことができない。それがなくては、学校は掲げた目標からますます遠ざかっていくことになる。他の教育センターやカトリックの専門組織と協力すれば、必要な養成を提供する講習会、セミナー、その他の会合をたびたび開催することも、カトリック学校にとってさほど困難なことではない。事情によってはこれらの会合に、カトリック学校に奉職していない信徒の教育者を加えてもよいであろう。この人びとにも、必要性を感じながらも他所ではなかなか見い出せない機会が、与えられることになるからである。
 
80 カトリックの家庭と学校
 
 カトリック学校の絶え間ない向上と、学校が教会の他の教育機関と協力して、信徒の教育者に提供する援助とは、カトリックの家庭−家庭一般、なかでも子どもをこれらの学校へ送っている家庭−の助力に大きく依存している。家庭はあらゆる面、つまり、学校に対する関心、敬意、秘力、経済的支援などの面で、彼らなりに学校を支えていく責任のあることを自覚すべきである。誰もが同じ程度に、あるいは同じやり方で協力することは不可能にちがいない。だがそれにもかかわらず、財力の許す程度に応じ、できる限り寛大に協力する用意がなければならない。家庭の協力は、学校がその目標を達成していく面にも、また、学校の責任領域を分担する面にも及ぶべきである。一方学校側は、その教
育方針がどのように適用され、どのように改善されているかについて、そして教育の実情や管理について、さらに時に応じては経営についても、保護者側に絶えず情報を提供し続けることが望ましい。
 30     ]U 結び H18年3月8日(水) 
結び
 
81 教会の大きな希望である信徒
 
 学校に働く信徒の教育者、つまり教師、理事、学校管理者、ならびに職員は、みなそれぞれに教会の抱く壮大な希望の一端を担っている事実を、決して疑ってはならない。教会は、福音と現実生活との統合を次第に築き上げ、こうして福音が、男にも女にもすべての人の生活にいきわたるようにする責務を、彼ら信徒の教育者にゆだねている。なかんずく、全人格的な人間形成と若い世代の信仰教育を、彼らに任せている。明日の世界がキリストに一層親しく結ばれるか、それともキリストから一層離れるかを決めるのは、まさしくこの若者たちなのである。
 
82 救いの使命の協力者
 
 カトリック教育聖省は、前項の同じ希望を繰り返すものである。学校に生涯をささげて働く無数のカトリック信徒が現に生きて示している、莫大な福音の富に思いをいたすとき、第ニバチカン公会議が『信徒使徒職に関する教令』の最後を結んだ次のことばが心に浮かんでくる。「すべての信徒が、今こそ自分たちを切実に招くキリストの声に、寛大な心をもって快くすみやかに応じるように、主において切に願うものである。……信徒は、この呼びかけを熱意をもって勇敢に受け入れるようにしなければならない。……主のことを自分のことと思い(フィリソピ2・5)、主の救いの使命にあずかるように……それは、時代の新しい要求に絶えず適合させるべき、教会の唯一の使徒職の種々の様式と方法において、信徒が主キリストの協力者となるためである。その労苦が主においてむなしくならないことを確信し、常に神のわざに励むように願う(コリントT15・58参照)」
 
 
 1982年10月15日 イエズスの聖テレジア帰天400年の記念日に
 
               ローマにおいて
 
                  カトリック教育聖省長官
                          枢機卿 ウイリアム・バウム
 
                  カトリック教育聖省秘書
                          大司教 アソトニオ・M・ジャヴィエール

Last updated: 2007/1/5