5 『 丘 』
大海を漂流して、幾日が過ぎたであろうか。男は、日が沈む度に小舟の舳先に傷を刻んで、日数を数えていたが、それがどれだけの意味を成すかは定かではなかった。昼の空には日の光と雲、雲が降らせる雨、そして海には潮の流れと風、風がつくる波、夜の空には星と月、月が照らす光、そして海には映し出された空の星と月の光、男は大海原を彷徨うかのように、潮の流れに身を任せ幾日かが過ぎていた。そして男を乗せた小舟は、いつしか陸地近くの沖ににまで寄せられてきて、そこから海岸線が望めるところまでに来ていた。海岸線の向こうには、街どころか林や森さえも見えず、それが何なのかはわからないが、何かが遙か遠くにまで広がっているのだけは見て取れた。きっとそれは、神のもとへと続く新たな試練の道のりなのかも知れないと思うと、男は重苦しいものを感じ、深いため息をついた。
男の小舟は、海岸の突端近くの岩礁に着いたが、そこは小高い小さな岬になっていて、行く先の向こうは遮られていて見えなかった。男は小舟を形造っていた葦を取り除き、頑丈に絡められた流木の塊から十字架を取り出し、自分の背中に背負った。久しぶりに背負った十字架は、川の水や海の水を吸い込んだせいか、やたらと重く感じて、これを背負ってまた歩かねばならないかと思うと、男は嫌気が差した。男はまず、神に言われたとおり丘を越えるため、重い十字架の末端を砂地の地面に引きずりながら、小高い丘の頂上を目指して上った。
「きっと丘の上に立てば、我が行く先が望めるに違いない…。」
男はそう考えていた。丘の頂上にさしかかろうとしたときである。男の目の前に信じがたい光景が、男の視界のなかに入ってきた。
「嗚呼、何ということだ…。」
男は、受け入れ難いその現実を見て、十字架にすがるようにうなだれ、膝を大地に落とした。そこには、果てしなく永遠に広がる広大な砂漠が、陽炎の幕越しにゆらゆらと揺らぎながら、浮遊するかのように男に迫って来ていたからだ。灼熱の太陽の陽の光が、男の全身に突き刺さるように浴びせられ、男は熱く渇いた汗をにじませていた。
男は気を取り直し、自分の視界に入る地形をゆっくりと確かめた。青く輝く海と黄土色に焼けた大地とを分ける波打ち際を境にして、東側には寒流による上昇気流によってつくられた広大な砂漠、そして西側には大海が広がっていて、その間を画するように果てしなく続く海岸線が途方もなく遙かに延びていた。神は丘を越えよと言ったのだが、男は砂漠の中を歩く気にはなれなかったので、果てしなく続く海岸線沿いに歩くことを決心した。男は、身の安全を守るために、その方が得策だと感じたからであった。
砂丘を下り砂浜に降りてきた男は、海岸線に目をやったが、それは男の視力の限界を遙かに超えて続いていて、どんなに目を細めてみても海岸線の遠く奥先は、靄に包まれ何も認知することはできなかった。しかし、男は重い十字架を引きずりながら背負い、そのまま歩き始めた。男の後には、引きずられてできた一筋の十字架の跡と男の足跡とが、海岸線に沿って波打ち際の砂の上に、明瞭に刻み込まれて残っていった。
行けども行けども行く先の見えない果てしなく続く神への道のりは、終着点のない旅のようなもので、あとどの程度の歩調で、どれぐらい歩けばいいのか全く見当もつかず、男の気持ちを萎えさせ、男を徐々に無力な者へと変えていくのであった。 男の体力の限界が近づき足下もおぼつかなくなると、男は背負った十字架の重さに耐えられなくなり、波打ち際にと倒れ込んでいった。その時、男の顔は海面へと激しく叩きつけられた。男は重い十字架の下敷きになった惨めな姿のままで、神に向かってこう呟いた。
「神よ、もう力尽きました…。助けて下さい。」
すると何としたことか、男の上にのし掛かっていた十字架の中から、水が染み出してきて一筋の清い流れを生んで、それが男の口の中へと滴り落ちた。渇いた男の喉は、それによって潤わされたたではないか。男は言った。
「主よ、主よ、ありがとうございます。あなたはまことに私の神です…。」
しかし、男は続いてこう神に尋ねて言った。
「しかし、主よ、あなたは『いつもお前と共にいる神である』とおっしゃっいましたのに、どうしてこのような試練を、私一人にお与えになるのでしょうか…。」
少しの間があったので、男は更に神に向かって言った。
「主よ、どうぞお応え下さい。」
神は応えて言った。
「男よ、お前の後ろを振り返ってみるがよい。何が見えるか。」
男はそういわれて自らの後ろを振り返って見て言った。
「主よ、私の足跡とあなたからいただいた十字架を引きずってできた跡が見え…。」
男の言葉が突然、途絶えた。
神は言った。
「どうした、男よ。」
男は驚きと不思議を隠せずにこう答えた。
「いえ、私の足跡だけが見えます…。十字架を引きずった跡がありません…。」
神は静かに尋ねて言った。
「男よ、その足跡は、本当にお前のものか。確かめて見るがよい。」
男は答えていった。
「は、はい…。」
男は、半信半疑でもう一度自分のものと思っていた足跡を、目をこらして確かめて見た。その足跡は、男の履き物のものではなかった。男には、ことの意味がまだわからなかったので、神に向かって尋ねて聞いた。
「主よ、これは一体どういうことですか…。」
神は、男に応えてことの次第を諭した。
「男よ、その足跡はお前のものではなく私のものだ。お前はこの砂浜を歩いている途中で力尽きて倒れていたのだ。だから、私がお前をお前の十字架ごと負ぶって歩いていたのだ。私は、お前に言っておいたではないか。『いつもお前と共にいる神である』と。」
男は、神の前にただただひれ伏して、神の憐れみと恩寵に感謝し、祈りを捧げた。男が顔を上げふと我に返ると、辺りは丘陵地に変わっていて、そこから先はなだらかな尾根が山々に続き、さらにその先の稜線を辿っていくと切れ立った峰々が連なる険しい山岳地帯を見ることができた。
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