「愛する皆さん、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るものだからです。愛する人はすべて、神から生まれた者で、神を知っています。愛さない人は、神を知りません。神は愛だからです。」
(Tヨハネ4:7)

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随想 Esseay

「あなたたちには神の国の秘技が授けられるが、あなたたち以外の人々にはすべてがたとえ話で語られる。」
(マルコ4:11)
 
「それは、『彼らが見るには見るが認めないように、聞くには聞くが悟らないように、こうして改心してゆるされることのないように』とあるためである」
(マルコ4:12)
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 1     「 信 仰 」 1 『 招 き 』 2007年5月23日(水) 
1 『 招 き 』
 
 あるところに、男がいた。男は土を耕し働く者であった。男は、神を求めながらも、神に絶対の信頼を置くことができずに、神の国のものとこの世のものとの狭間を行き来して、二心に揺れる者であった。男は、強くも脆く、怒るにも優しく、つまらなくも朗らかで、悲しくも楽しく、激しくも穏やかで、疑い深くも信仰を求め素直で、また賢くも愚かな者であった。そして、毎日の生活に不平と不満そして、満足感と充実感とを抱きながら、感謝と希望の祈りを捧げて生きていた。
 
 神は、そんな男をいつも憐れみと慈しみをもって見守り、多くの恵みを与えていたが、神の恵みは、男にとってその不信のため、あってもなく、持っていても持っておらず、届いても届かず、目の前にあっても見えない者であった。
 
 ある日のことである。今日も男はいつものように日照りの下で土を耕し、汗を流し働いていた。男は鍬の柄を力一杯握りしめ、渾身の力を込めて堅く乾いた大地にその刃を振り込んだが、大地は男の鍬の刃を嫌い、それを撥ね返した。激痛が手を伝い全身に走った。いく筋もの汗が額からほとばしり、大地へと染み込んでいった。男は、汗をぬぐいながら灼熱の太陽に目を細め、顔を歪めながら神に向かっていつもの弱音をつぶやいた。
 
 「神様どうして、なぜ、こんなにも苦しいので…。」
 
しばらくの沈黙の後、神は応えて言った。
 
 「何が苦しいのだ。」
 
男は、突然の声に畏れおののき、慌てふためきながら跪いて聞き返した。
 
 「今の声は、どなたで…。」
 
神はまた応えて言った。
 
 「お前といつも共にいる者だ。」
 
男の声は震え、心は疑いで満たされていた。
神は、男に向かってもう一度繰り返して聞いた。
 
 「何が苦しいのだ。」
 
男は、跪いた体をさらに低くし、頭を地に隠すようにひれ伏して答えた。
 
 「日照りの日も、雨の日も、風の日も、耕すことがでぇ…。」
 
神と男の問答が続いた。
 
 「耕したくないのか。」
 「いえ、耕さねば食べられませんで…。」
 「食べるために耕すのか。」
 「はい、この私も…そして私には妻も子もおりますで、食べさせなければならんので…。」
 
 「なぜ食べる。」
 「食べないと生きられませんで…。」
 「生きたいのか。」
 「生きたいで…。」
 「では、耕すがよい。」
 「んだが、耕すのが苦しんで…。」
 「耕さないと食べられず、お前も妻子も生きられないのではないのか。」
 「はい、そのとおりで…。」
 「では、苦しんで耕すがよい。それ故に生きることができるのではないか。」
 「はい…。」
 「人は皆、苦しみ故に生きるのだ。」
 「はい、承知いたしました…。」
 「いや、本当に分かってはいまい。」
 「はぁ…。」
 「どうだ、しばらく耕すことをやめ、私のもとに来るがよい。苦しみの本当の意味を教えてやろうではないか。」
 「来るがよいといわれましても、あなた様がどこにいるのかも分からんで…。」
 「そうか。わたしのところへ来るにはこうだ。お前のもとから見える峠をひとつ越え、その峠の向こうの川を下り、その川を下ったところの海を渡り、海を渡ったところの丘をひとつ越え、その丘を越えたところの山を峰伝いにすすむと、きれたった谷が見える。今度は、その谷を下りると高くそびえる崖が見える。その崖を登るがよい。その崖のを登ったところの頂に私はいる。」
 「ずいぶん遠いので…。」
 「いやなのか。」
 「いえ、いやというよりは…。私が無事そこにたどり着けるものか、そんな力がこの私にあるものかどうか…。」
 「怖いのか。」
 「怖いのは勿論でありますが、妻子を置いていくわけにはいかんで…。」
 「思い、煩うではない。妻子の無事はお前にではなく、私の手の内にある。お前の無事も同じことだ。」
 「では、せめてあなたのところへ無事たどり着ける力と、再び戻ってこられる力と、その後の働く力の三つの力をお与えください。」
 
男は、神に三つの力を三度願ったが、神は応えて言った。
 
 「お前には私が与えた恵みで十分足りる。」
 「…。」
 「では、旅の支度を…。」
 「そのようなものはいらぬ、お前に必要なもものは既に与えられ、すべて用意されておる。全てを捨ててくるがよい。」
 「とおしゃいましても…。」
 「では、約束のしるしとして、この十字架をやるから、それを背負って来るがよい。しかし、いいか、くれぐれも言っておく、忘れるではないぞ。私は、お前といつも共にいる者であるということを。」
 「はい、それでは…。」
 
 男は、その神からもらった約束の「しるし」ゆえに神のもとへ行く決心をしたが、それでも半信半疑からなのか、疑心暗鬼に囚われの身からなのか、神からもらった「しるし」である十字架の意味も分からず、苦しみのもとである土を耕す鍬が、十字架に変わっただけ位のことなのだ…としか考えていなかった。そして、男は神からもらった約束の「しるし」である十字架を背負い、神のもとへとつづく道のりの一歩を踏み出した。
 
 こうして男の一人旅は始まったが、男には、峠・川・海・丘・山・谷・岩壁の七つの試練が、自分にとっての「救い」の道へと続く神からの招きであり、神と共に歩む道のりであるとは到底分かるはずもないことであった。
 
 2     「 信 仰 」 2 『 峠 』 2007年5月23日(水) 
2 『 峠 』
 
 しばらく歩いた後、峠にさしかかったところで、男は、ここらで一本立てようかと思い、立ち止まり十字架の先を地面に付けた。神と交わした自分と家 族の安全の保障のしるしとはいえ、背負ってきた十 字架が肩に食い込み、やけに重く感じた。男は投げ捨てるように十字架を放り出した。何かに突き当たる鈍い音がした後、大地を伝わる重苦しい振動が足に伝わってきた。男は峠から見える自分の畑を見下ろしながら、即座に今夜の食事のことを心配した。 男は、神の教えを思い出した。
 
 「命のために何を食べ、何を飲もうか、また体のために何を着ようかと、思い煩ってはならない。命は食べ物にまさり、体は着るものにまさっているではないか。空の鳥を見なさい。種をまくことも刈り入れることもせず、また倉に納めることもしない。それなのにあなたがたの天の父は、これを養ってくださるのである。」
 
 しかし、男は心の中ですぐさまに反論の声を上げていた。
 「何も持たずに出てこさせられて、何を食べ、何を飲もうか思い煩うなと…。どうして目に見えないあなたにそこまでの信頼を寄せることが出来ましょうか…。」
 
男は、神の教えの続きを思い出した。
 
 「あなたがたは、鳥よりもはるかにすぐれているではないか。あなたがたが思い煩ったからといって、寿命を一刻でも延ばすことができるだろうか。着る物のことをなぜ思い煩うのか。野のゆりがどのように育つかをよく見なさい。紡ぐことも織ることもしない。あなた方に言っておく。栄華をきわめたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神は、このように装ってくだっさるのだから、ましてあなた方に対しては、なおさらのことではないか。
 
  男は、「思い煩ったからといって、寿命を一刻でも延ばすことが出来るだろうか…。」という部分にはうなずけたが、「ましてあなた方に対しては、なおさらのことではないか。」の部分には、合点がいかなかった。男は、頑なであったからである。
 そんな男に神はささやいた。
 
 「信仰の薄い者よ…。」
 
男は、神のささやきに畏れおののき、身を竦めた。そして、教えの続きが男の全身を貫いた。
 
 「だから、あなたがたは、『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』と思い煩ってはならない。これらはすべて、異邦人がせつに求めるものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、皆、必要であることを知っておられる。まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものも皆、加えて、あなた方に与えられるであろう。だから、あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 
 男が、ふと岩壁の方に目をやると、岩の裂け目から清水が流れ出ていた。男は清らかな一筋の流れに、そっと両手をやって、手のひらに一杯の水を溜めると、乾いた喉を潤すため口に運んだ。清水はゆっくりと男の喉を伝い、体の中へと染み込んでいった。男の疲れは癒された。そして男は、今夜の食事のことを忘れた。
 
 旅の続きを始めようと、十字架を背負おうと手にしたときである。十字架の縦の柱上の角が、かすかに傷ついていた。手にした十字架の先には、岸壁の岩の裂け目が見えていた。さっきまで流れ出ていた清水は、既に涸れていて流れてはいなかった。
 
 3     「 信 仰 」 3 『 川 』 2007年5月23日(水) 
3 『 川 』
 
 峠を下ったその先には、幾筋もの渓の水を集め早瀬となって流れる、深く大きな清流があった。昨晩の雨のせいで川は増水し、強い流れとなっていたが、水は笹濁りほどのくすみもなく、川のトロ場は空色と木々の緑色を吸い込んで、深い青紫色を映し出し、むしろ澄んで見えた。
 
 神のもとに辿り着くためには、この川を下らねばならない。男はそう考えるだけで身が竦み、震えてとっさにわが身を守るべくこう呟いた。
 
 「流れが速すぎる…。無事に川を下ることはできまい。引き返そう、そうしよう。」
 
男がそう考えて、後ろを振り返ることを一瞬躊躇したときである。男の脳裏に再び神の教えが息を吹き返し、引き返そうとした男の足を引き留めた。
 
 「あなた方を襲った試練は、何一つとして人間に耐えられないようなものではなかった。わたしは、信頼に値する。耐えられないような試練に遭わせるようなことはせず、むしろ、耐えることができるように、試練とともに抜け出る道をも用意する。」
 
 「どうしようか…。ここで一晩過ごして、流れが落ち着いてから下ろう。流れが静まりさえすれば、快適な川下りにもなろう…。」
 
男はそう考えることで、臆病な自分を弁解し、納得させることができた。そして、ひとまず神様もお許しになるだろうと…。明日の朝も流れが速かったら、諦める口実もできるというもの…。それでいいと考えた。
 
 「さぁ、今日はここで野宿だ。雨露を避けられるところを探し、柴を拾い集め、火をおこし食事の用意だ。」
 
男は、息を吹き返したように元気付いた。ところがそう考えたのもつかの間、この旅のために、何の用意もしてこなかったことを思い出したのだ。
 
 「神様の言うことを聞いたばっかりに…。くそぉ。」
 
男はついに呪いの言葉をはいてしまったが、そのことに気付いてはいなかった。男は、いつもの不満だらけで欲望の塊になっていた。男は、文句をさんざん言いながら、神との約束のしるしである十字架を、背負ったままの状態から後ろに投げ捨てた。十字架は、川の淵のゴロタ石に当たり、激しい音とともに緩やかな溜まりを堰き止めた。その溜まりには渓流魚が数匹、十字架が石に叩きつけられた衝撃で気を失って浮いていた。そして、足下には食用となる蟒蛇草やふきの葉が茂り、それらはみな、男の腹を満たすために、十分なものであった。男が魚を手にしながら辺りを見渡すと、川原には乾燥した小枝が散らばり、流木も横たわっていた。そればかりか、背後には松や杉林が広がり、火をおこすために必要な物のすべてが整っていた。
 
 夕まずめ時を迎えた川面には、おびただしい数の蜻蛉が羽化を繰り返し、強い流れに押し流されながらも、その亜成虫のか弱く柔らかな体をいたわることもせず、何度も何度も空中へと向かって力強く飛び立つ光景が見られた。
 
 男は、食事を目の前に、食べる物が用意されたことに感謝の祈りを捧げ、そして空腹を満たすことができたことに、感謝の祈りを捧げた。男は、食べる物と温かなたき火に当たることで満たされ、神に感謝の祈りを捧げ、眠りに着いた。男は、充足されることでしか感謝できなかった。
 
 朝靄に煙る川原の冷気で、男は目が覚めた。その瞬間である。男は十字架のことに気付き、慌てふためいた。神との約束のしるしである十字架を、川に投げ出したままであったことに、男は一生の不覚を取ってしまったと、自責の念に駆られながら、川の方へと慌てふためいて急いで走っていった。十字架は、男にとってはとりあえず、自分の身を守ってもらうための証にはなっていたからである。
 
 河原に広がるゴロタ石に足を取られながら、川の縁まで来ると、男は驚いた。昨日投げ出して川の淵を堰き止めていた十字架には、川上から流れてきた幾本もの流木が、頑丈に絡められていて、筏が形造られていたのだ。しかも、十字架の矛先は川下に向けられていて、それはあたかも、これからの進むべき道を導き示していて、船出の準備は全て整え終わり、男が乗るのを待っているだけかのようであった。
 
 男にはもはや選択の余地はなかった。川を下らず、引き返すためのどんな口実も見あたらなかったのだ。川の流れは昨日とはうって変わって、水面は朝日を受けて、鏡のようになり穏やかで緩やかな流れになっていたからである。男は、しょうがなく十字架に引っかかっていた長い一本の木を竿に、平たい木を櫓に選んだが、筏や櫓を形造っている流木の節や節穴は、櫓臍や櫓杭にちょうど良く、男の手にもしっくりきた。男は、川岸に悔いを残し川の流れに乗せられ、ゆっくりと海へ向かって運ばれていった。男は、何度も何度も後ろを振り返った。
 
 4     「 信 仰 」 4 『 海 』 2007年12月26日(水) 
4 『 海 』
 
 男を乗せた筏は、下流域の右岸寄りに流れていて、その辺りは葦が生い茂り、その隙間から時より河口付近が垣間見られたが、視界は良くなかった。葦やぶは男の視界ばかりか行く先も遮り、男は櫓を使って葦を払っていったが、不思議なことに払った葦は筏の組木に絡められ舟縁を造っていった。
 
 葦の茂みを抜けると河口から果てしなく広がる大海が広がるのが見えて、その風景は、男を別世界に誘っているような思いにさせた。河口の辺りはいくつかの州があって、そのいくつかは陸繋砂州をつくり、遠浅の砂浜海岸になっていて、穏やかな内海を成していたが、遠くには白波が見え風が強く外海はしけていることが取ってみられた。河口から抜け出たところで、筏から男がふと足下をのぞき込むと、海水は澄んでいて海底がはっきりと見ることができたが、その時の思いはまるで、足の着かない深い海に浮かんで海底をのぞき込んだときに感じる何とも言えない不安感によく似ていて、辿り着けるかどうかも分からない旅に旅立った男の恐怖にも似たものであった。
 
 男は、この十字架の筏に乗ったまま、海を渡る気にはなれなかったが、男の思いとは裏腹に筏は川の流れからそのまま潮の流れにと乗せられて、どんどん、どんどんと水平線が果てしなく広がる海へと漂流していくのであった。こうして男の航海が始まった。
男の頭の中を、不安と焦りが支配していて、男は理性をほぼ失いかけていた。ぜなら男は航海術を知らなかったからである。勿論、海図どころか方位計や経緯儀(トランシット)もなく、自分の現在位置を知るすべがなかったのだ。
 
 男は、不安に支配され、気が変になりそうな自分を 何とか保つため、河口付近で筏に絡み着いた葦の茎で縄を編み、十字架に絡められた流木をしっかりと固定し、筏を操る竿にするために川で拾った長い流木を今度は帆柱に立て、葦の葉で布を織って帆にしたりと気を紛らした。そしてさらに、男は祈りの言葉を口にした。
 
 「主よ、どうぞこのわたしをお導きください。お見捨てにならず、お守りください…。」
 
 男が、河口付近で葦が絡み合ってできた舟縁に座り、葦の茎で縄を綯っているときふと我に返ると、自分の臆病のおかげで筏はすっかりと帆掛け船に直されていて、それはこれからの航海を少し安心なものへと男の気持ちを変えさせた。男は冷静さを取り戻し、自 分には航海術の持ち合わせはないが、観天望気にだけは自信があったことを思い起こさせた。しかし、それは隠れ場のない大海の中で、どれほど役に立つかまではそのときの男には考えがおよばず、浅はかで安易な思いつきでしかなかった。
 
 「浜風夕刻まで」と男はどこかで聞いたことがあっ たが、夕暮れも間近というのに一向に風はおさまることを知らす、むしろますます強くなっているようにさ え感じた。男が空を見上げると既に日は落ちていて、得意の観天望気の知識は無いに等しくなっていた。みるみるうちに、海はだんだんとしけてきて男が乗った 小舟は、上下左右に大きく揺られるようになり波しぶきは容赦なく男を襲い、小舟の舳先から艫まで、左縁から右縁へと何度も何度も繰り返して傍若無人に男を 転がした。暗黒の海の逆巻く波は、一層の激しさを増 し、とうとう男に死の怯えさえをも感じさせるほどになっていた。
 
 「このままでは死ぬ…。」
 
 いよいよ、事態は悪化の一途を辿り、男は帆柱にしがみつき絶叫を発するのが精一杯で、男の口からは祈りの声が消えた。巨大な波が、小舟ともども男を飲み込もうとしたまさにその時である。神の御手が動き、救いの御業が始まった。
 
 吹きすさぶ風とともに、横なぐりの雨と波しぶきが交錯し、男の顔を強く打った。男は目を開けることがほとんどできなかったが、漆黒の闇にかすかな明るい光が、柔らかな優しさを醸し出して、その中から人影のようなものがこちらの方へと向かってくるのがよう やく見て取れた。その人影が近づいてくるにつれて、その見知らぬ人が海の上を歩いているのがわかった。
 
 「あなたは誰ですか…。」
 「お前が呼び求めた者である。」
 「わたしは今にも溺れそうです。どうか助けて下さい。」
 
するとその見知らぬ者は、嵐に向かってしかりつけ海に向かっていった。
 
 「黙れ、静かになれ。」
 
すると嵐はたちまち静まり、海は大凪になった。男はあまりにもの出来事に我を失い、恐れおののき尋ねた。
 
 「あなたは誰ですか、わたしの神ですか…。もし、わたしの神であったのなら、『水の上を歩いてこい。』と命じて下さい。」
「よかろう。舟を下り私のところまで歩いてくるがよい。」
 
男は両手で帆柱にしがみつきながら、恐る恐る片足を海の上にそっと置いてみた。海は大地のように男の足を受けとめたので男はもう一方の足も海の上に置いた。男は海の上に立っていたが、自分自身でもそのことが信じられなかった。突然強い風が吹いてきて男は 沈みかけたのでこう叫んだ。
 「神様、助けて下さい。」
 
神は、すぐに手を伸ばし男を捕まえてこう言った。
 
 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
 「あなたは、まことにわたしの神様なのですね…。」
 「そうだ。お前といつも共にいる神だ。」
 
男は神の前にひれ伏し、無言のまま自分の不 信仰と非力さを噛みしめると体から力が抜 けてうなだれた。
 
  男が顔を上げたとき、神はもう見えなくなっていて、小舟の上には数匹の魚が勢いよく飛び跳ねていた。男の空腹は、その魚によって満たされ、静けさを取り戻した暗い海の上で、男は闇に包まれながら眠りについた。
 
 5     「 信 仰 」 5 『 丘 』 2007年5月23日(水) 
5 『 丘 』
 
 大海を漂流して、幾日が過ぎたであろうか。男は、日が沈む度に小舟の舳先に傷を刻んで、日数を数えていたが、それがどれだけの意味を成すかは定かではなかった。昼の空には日の光と雲、雲が降らせる雨、そして海には潮の流れと風、風がつくる波、夜の空には星と月、月が照らす光、そして海には映し出された空の星と月の光、男は大海原を彷徨うかのように、潮の流れに身を任せ幾日かが過ぎていた。そして男を乗せた小舟は、いつしか陸地近くの沖ににまで寄せられてきて、そこから海岸線が望めるところまでに来ていた。海岸線の向こうには、街どころか林や森さえも見えず、それが何なのかはわからないが、何かが遙か遠くにまで広がっているのだけは見て取れた。きっとそれは、神のもとへと続く新たな試練の道のりなのかも知れないと思うと、男は重苦しいものを感じ、深いため息をついた。
 
 男の小舟は、海岸の突端近くの岩礁に着いたが、そこは小高い小さな岬になっていて、行く先の向こうは遮られていて見えなかった。男は小舟を形造っていた葦を取り除き、頑丈に絡められた流木の塊から十字架を取り出し、自分の背中に背負った。久しぶりに背負った十字架は、川の水や海の水を吸い込んだせいか、やたらと重く感じて、これを背負ってまた歩かねばならないかと思うと、男は嫌気が差した。男はまず、神に言われたとおり丘を越えるため、重い十字架の末端を砂地の地面に引きずりながら、小高い丘の頂上を目指して上った。
 
「きっと丘の上に立てば、我が行く先が望めるに違いない…。」
 
男はそう考えていた。丘の頂上にさしかかろうとしたときである。男の目の前に信じがたい光景が、男の視界のなかに入ってきた。
 
 「嗚呼、何ということだ…。」
 
男は、受け入れ難いその現実を見て、十字架にすがるようにうなだれ、膝を大地に落とした。そこには、果てしなく永遠に広がる広大な砂漠が、陽炎の幕越しにゆらゆらと揺らぎながら、浮遊するかのように男に迫って来ていたからだ。灼熱の太陽の陽の光が、男の全身に突き刺さるように浴びせられ、男は熱く渇いた汗をにじませていた。
 
 男は気を取り直し、自分の視界に入る地形をゆっくりと確かめた。青く輝く海と黄土色に焼けた大地とを分ける波打ち際を境にして、東側には寒流による上昇気流によってつくられた広大な砂漠、そして西側には大海が広がっていて、その間を画するように果てしなく続く海岸線が途方もなく遙かに延びていた。神は丘を越えよと言ったのだが、男は砂漠の中を歩く気にはなれなかったので、果てしなく続く海岸線沿いに歩くことを決心した。男は、身の安全を守るために、その方が得策だと感じたからであった。
 
 砂丘を下り砂浜に降りてきた男は、海岸線に目をやったが、それは男の視力の限界を遙かに超えて続いていて、どんなに目を細めてみても海岸線の遠く奥先は、靄に包まれ何も認知することはできなかった。しかし、男は重い十字架を引きずりながら背負い、そのまま歩き始めた。男の後には、引きずられてできた一筋の十字架の跡と男の足跡とが、海岸線に沿って波打ち際の砂の上に、明瞭に刻み込まれて残っていった。
 
 行けども行けども行く先の見えない果てしなく続く神への道のりは、終着点のない旅のようなもので、あとどの程度の歩調で、どれぐらい歩けばいいのか全く見当もつかず、男の気持ちを萎えさせ、男を徐々に無力な者へと変えていくのであった。 男の体力の限界が近づき足下もおぼつかなくなると、男は背負った十字架の重さに耐えられなくなり、波打ち際にと倒れ込んでいった。その時、男の顔は海面へと激しく叩きつけられた。男は重い十字架の下敷きになった惨めな姿のままで、神に向かってこう呟いた。
 
 「神よ、もう力尽きました…。助けて下さい。」
 
すると何としたことか、男の上にのし掛かっていた十字架の中から、水が染み出してきて一筋の清い流れを生んで、それが男の口の中へと滴り落ちた。渇いた男の喉は、それによって潤わされたたではないか。男は言った。
 
 「主よ、主よ、ありがとうございます。あなたはまことに私の神です…。」
 
しかし、男は続いてこう神に尋ねて言った。
 
 「しかし、主よ、あなたは『いつもお前と共にいる神である』とおっしゃっいましたのに、どうしてこのような試練を、私一人にお与えになるのでしょうか…。」
 
少しの間があったので、男は更に神に向かって言った。
 
 「主よ、どうぞお応え下さい。」
 
神は応えて言った。
 
 「男よ、お前の後ろを振り返ってみるがよい。何が見えるか。」
男はそういわれて自らの後ろを振り返って見て言った。
 
 「主よ、私の足跡とあなたからいただいた十字架を引きずってできた跡が見え…。」
 
男の言葉が突然、途絶えた。
神は言った。
 
 「どうした、男よ。」
 
男は驚きと不思議を隠せずにこう答えた。
 
 「いえ、私の足跡だけが見えます…。十字架を引きずった跡がありません…。」
 
神は静かに尋ねて言った。
 
 「男よ、その足跡は、本当にお前のものか。確かめて見るがよい。」
 
男は答えていった。
 
 「は、はい…。」
 
男は、半信半疑でもう一度自分のものと思っていた足跡を、目をこらして確かめて見た。その足跡は、男の履き物のものではなかった。男には、ことの意味がまだわからなかったので、神に向かって尋ねて聞いた。
 
 「主よ、これは一体どういうことですか…。」
 
神は、男に応えてことの次第を諭した。
 
 「男よ、その足跡はお前のものではなく私のものだ。お前はこの砂浜を歩いている途中で力尽きて倒れていたのだ。だから、私がお前をお前の十字架ごと負ぶって歩いていたのだ。私は、お前に言っておいたではないか。『いつもお前と共にいる神である』と。」
 
 男は、神の前にただただひれ伏して、神の憐れみと恩寵に感謝し、祈りを捧げた。男が顔を上げふと我に返ると、辺りは丘陵地に変わっていて、そこから先はなだらかな尾根が山々に続き、さらにその先の稜線を辿っていくと切れ立った峰々が連なる険しい山岳地帯を見ることができた。
 
 

Last updated: 2007/5/23

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