6 『 山 』
古今東西、時代を問わず、いつの世も山は、神の住む領域として神聖な場所とされてきた。それは、大地と大空をつなげるその雄大さ故か、それとも下界の俗人を嫌い、寄せ付けぬその険しさ故か、山は、その麓は人々に多くの恵みをもたらすが、頂点を目指す者には行く手を阻み、迷わせ、そして時にはその命を奪う。しかし山は、泣きもせず笑いもせず、ただ静かに悠然たる態度で黙っている、畏れ多き大地が生んだ塊である。
男は小さな頂に立ち、これからの行く先を確かめるように、尾根づたいに続く峰々の向こうに目をやって、心を新たにした。男には、遠くに連なる稜線は、その険しさを隠すかのように薄青く霞すんでいて、男が遭難するのを強かに待ちかまえているかのように見えた。
「とうとう、ここまで来てしまった…。後戻りは許されまい…。ここから先は、神の住むところ…。」
そう言って男は、十字架を背に担いで、身を屈め最初の一歩を踏み出した。山道は起伏が激しく険しい道で、倒木や、泥地、砂礫、岩塊などが入り交じり、足場も悪く力が効かない上に、背中の十字架が至る所で障害となって男の体力を奪っていった。
悪戦苦闘の末、なんとか男は山の稜線上に辿り着いたが、神の山へと続くその稜線を間近に見て男は恐れて怯んだ。
「無理だ、とんでもねぇ。これ以上は上れないで…。」
それは、山稜にはいくつもの切処が造られていて、岸壁が繰り返され、今にも岩の塊が男を突き落とそうと待ちかまえているかのようであった。男には、ハケーケンやカラビナそしてザイルさえもないばかりか、この重い十字架を担ぎながら、登れるはずもない稜線であることが、誰の目にも明らかであった。
男は訴えかけるように、おそるおそる天に向けて顔を上げた。
「男よ、どうした。」
神の声がした。
「神様、いくら何でもこれ以上は無理で…。山登りのなんの装備もなく、その上この十字架が足を運ぶ度 に邪魔に… いえ、いろいろなところにつっかえるで…。」
神は言った。
「何が、望みか。山岳の装備か。それとも…」
男は神の言う言葉を遮るように言った。
「神様、どうぞお聞き下せぇ。私は、ここまで来ますに多くのあなたの助けをいただいて参りましたで…。 ですから、こんな私でもなんとか自力であなたのもとへ行きたいんで…。んだが、この背中の十字架は、ここの稜線の切処を上り下りするには命取りになりますで…。ですから何とぞ…」
今度は神が、男の言葉を切っていった。
「十字架を返すというのか。」
男は答えた。
「いえ、とんでもねぇですで…。十字架はあなたとのお約束のしるし、これがなかったら今までのように助けてもらえなくなりますで…。」
神が尋ねて聞いた。
「では、何が望みか。」
男は言った。
「大変済まねぇが、今背負っている十字架ではなく、違う十字架をくだされ…。」
神は応えていった。
「それは、容易いことだ。私の十字架の倉に行って、好きなものを選んで交換してくるがよい。」
男は応えていった。
「神様ありがとうございますで…。んだが、あなた様の十字架の倉とは、どこにありますで …。」
「お前のすぐ側にある。」
そう言って、神の声は聞こえなくなった。
男が、辺りを見渡すと、稜線を少し降りた斜面に洞窟のようなものがあった。男はそこまで降りていくと、恐る恐る洞窟の中に入っていった。男は薄暗い洞窟の中に目が慣れると、そこには数え切れないほどの十字架が所狭しと重ねられているのが見えたが、それは洞窟の奥深くまで続いて、その果ては見ることができなかった。男は背負っていた十字架をおろして、新しい十字架を探し始めた。
数え切れないほどの十字架の中から、新たな自分の十字架を探すことは、思った以上に容易なことではなかった。背負ってみては戻し、担いでみては下ろし、男は少しでも自分にしっくりくるものをと、色々と試しては見繕うのであった。しかし、しばらくして男は、新しい十字架選びに疲れて、飽き気さえ感じるほどになってきていた。男はいらだちを覚えて、声を荒げて言った。
「くそぉ…。こんなに真剣に何度も何度もあてがってみているのに、これというのがねぇで…。しかも、こんなにも多くの数があるというのに何で見つからんので…。」
男は、悔しさ余って地面を蹴り、拳を握って壁を叩いた。ふと、我に返って足元を見ると、十字架が一つ立てかけられずに横たわっていた。男はそれを取って背負い、担いでみると今までにはない感触が伝わってきて、男を満足させた。
「おぉ、これはいいで、あったではねぇか、これがいい、これがいい…。」
男はようやく見つけた十字架を背負い、倉を後にして外に出た。外は雲の中を光が差し、風が流れていた。稜線に登った男の背から光が差して、眼下の雲に、虹色に円を描くブロッケンが映し出された。円の中心の中に神の姿があった。そして、神が、再び男に語りかけてきた。
「男よ、お前に相応しい十字架はあったのか。」
男は答えて言った。
「はい、これというのがありましたで…。神様、あなたに感謝いたします。」
神は、男に伝えた。
「男よ、その十字架をよく見てみるがよい。」
男は、神の言うことに従って、新たに選んだその十字架を確かめてみた。そして、十字架の下から上へと目をやると、十字架の上の先端で男の目が止まった。
「おぉ、神よ、あなたは全知全能、すべてをご存じの方、私のよりどころ、私の主、私の神、あなたをお いて誰のところに行きましょう。」
男が驚き、神に伏せたのは、男が新たに選んだ十字架の先端には、男が大海原の航海にいたとき、その日数を数えるために、船の舳先に刻んでいた傷があったからである。男が新たに選んだと思っていた十字架は、実は最初に神からもらった十字架そのものであったからだ。
男は足下から続く稜線を目で追ってから祈りを捧げてこう言って神のもとへと続く尾根を縦走していった。
「ここは神の聖なる領域、私の判断はなきに等しいところ。
あなたの教えと掟のみが支配し、人間の業はむなしく及びもしない。
あなたのみ摂理に探りを入れず、ただ、あなたにのみ従うだけ。」
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