ある日例のごとく用賀のスポーツ・ジム・アクアスパへ行って先ず自転車を漕いでいたら、ふと本棚に置いてある雑誌 Newton の表紙に「ラムセス2世」の文字と絵があるのが目に入った。途端に7年前のカイロにあるエジプト考古学博物館での、今から3200年以上昔のラムセス2世のミイラとの対面の感激を想い出してしまった。
[1] 雑誌ニュートン
そこで筋肉トレーニングのあと、雑誌を手にとって目を通してみると、なんと30頁の特集記事が組まれていて、とてもジムで片手間に読み切れる分量ではなかった。やむなく諦めて帰り、たまたま近所の本屋を覗いてみたら、その雑誌も 2001年5月号として売っており、一冊1000円で高いなとは思ったが反射的に買ってしまった。
[2] エジプトの名物
日本では、エジプトというとピラミッドやファラオではツタンカーメンの方が有名であるが、エジプトでは北のデルタ地帯から南のヌビアのアブシンベルまで、至る所にラムセス2世の建てた神殿やら巨大な20mもある彼の石像が残っている。もっとも他人の作ったものにも自分の名前をつけたという話もあることはあるが。。
[3] 古代文明の旅
実はエジプトは古代文明の旅というツアーで、ギリシャ、トルコ、エジプトと廻り、そのすぐ後に経済同友会から中近東の調査と言うことで、エジプト、ヨルダン、イスラエルと廻り、エジプトは都合2回同じような所を観光した。しかし当時はラムセス2世に関する知識が必ずしも充分ではなかった。おかげで今回 Newton により大分知識を補足することができた。
[4] 天照大神より古いラムセス二世
ラムセス2世は古代エジプトの新王国時代といわれる第19王朝のファラオであり、セティ1世の次男として紀元前1305年に生まれた。兄が早世したので、父の死に伴い26才でファラオの座につき、以後67年の長きに亘ってエジプトを統治し、当時としては珍しい高齢の92才でなくなった。彼がエジプトの建築王として活躍した紀元前1200年代は、日本では縄文時代であり、神話の天照大神よりもっと古いのに、現実に未だに彼(ミイラ)とカイロの博物館で直接対面できることに何とも表現しがたい感慨を覚える。
[5] カデシュの戦い
シリアの支配を巡りヒッタイトと戦ったカデシュの戦いは有名であり、6年前にシリアでパルミラの遺跡から西にクラック・デ・シュバリエへ行く途中にカデシュの古戦場を通った。実はラムセス2世は治世4年目から10年目にかけて5度もシリア遠征をしており、歴史に残るカデシュの戦いは2度目の遠征で30才の頃であったという。この戦いはエジプト、ヒッタイト双方とも自分の方が勝ったと称しているが、実際は引き分けらしい。
[6] 人類歴史上初の和平条約
ところでカデシュの戦いが有名なのは、16年後、ラムセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世との間で、人類の歴史上はじめて文書による和平条約が結ばれたことである。このことは、ヒッタイトの伝統を受け継ぐトルコのイスタンブール考古学博物館に記録があったように記憶している。
[7] モーゼの出エジプト
又旧約聖書の2番目の書「出エジプト記」によれば、ヘブライ人モーゼが自分の民族を率いてエジプトを脱出したが、当時のファラオとしてラムセス2世の名があげられている。そして有名な紅海の奇跡が起こったことになっている。 しかし地球物理学的に検討すると、これはどうやらギリシャのサントリーニ島の爆発による津波の影響らしく、年代もラムセス2世より少し古い紀元前1360〜1350年頃の事であるらしい。しかし予言者モーゼ終焉の地、死海東岸のネボ山も訪ねたが、モーゼの方が遙かに神話的な匂いを感じてしまう。
[8] ミイラとの対面
古代エジプト人は、人が死んでも再生・復活することで永遠の生命が得られると信じ、遺体をミイラにして保存したという。ラムセス2世のミイラの身長は167cmで、生存中は174cmと考えられ、当時のエジプト人としては高かったようである。髪の毛の色は黒で、石像のような付けひげはなく、ミイラでも対面していると、とても3200年以上も昔の人とは思えない現実感があるのは不思議である。
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