歴史道楽

 
 

10    中国文明の本質
更新日時:
2004/10/30 
 
1)皇帝の正統性
世界で自前の歴史という文化を生んだのは、ヘロドトスに始まる地中海文明と、司馬遷の史記に始まる中国文明だけである。司馬遷の創った中国文明の歴史の本質は「正統」の観念で、武帝こそ正統の天子であるという物語である。史記には勿論国家や国民の観念がなく、世界史でも中国史でもない。中国文明の歴史観は世界の変化を認めないので、史学者は停滞史観に悩まされることになる。では三国時代はどう見ていたかというと、陳寿の三国志では、魏のみ皇帝と認め、蜀と呉は魏の臣下なみに扱っており、現実とかけ離れている。つまり正史は現実ではなく理想の姿を描くものであった。
 
2)二つの中国
  秦から皇帝が始まり、前漢、新、後漢を経て三国時代に入り、晋が後をついで五胡十 
 六国時代に続き、鮮卑族という遊牧民の出の征服王朝である隋、唐の時代を迎える。こ 
 こで唐の時代には、勿論自己の正統性を主張すると共に、五胡十六国時代の南朝(東晋 
 −宋−南斉−梁−陳)、北朝(北魏−東魏−西魏−北斉−北周)を南史、北史としていず 
 れも正統と認めた。
  しかし唐の滅亡後五代十国を経て宋の時代に、宰相司馬光の書いた資治通鑑では、南 
 朝のみ皇帝とし、589年陳の滅亡により隋の文帝が皇帝となっていて、一応皇帝は一時 
 には一人の原則を貫いている。ただしこれは北宋と対立する契丹の遼を正統ではないと 
 する負け惜しみの中華思想の起源であるとされている。
  その後元の時代には、「宋史」、「遼史」、「金史」と再び南北二つの正統の並立を認め 
 ている。 このように一つの中国は原則ではあるが、二つの中国も時々存在している。
 
3)中華思想の由来
  中華思想とは、夷狄(非中国人)は軍事力では中華(中国人)より勝るが、文明の高 
 さでは中華は夷狄より遙かに勝っており、世界で最も優秀な民族である、というもので 
 ある。
  隋や唐が遊牧民の出であるだけでなく、907年唐が後梁に敗れて五代十国の乱に入っ 
 たが、五代は黄河流域に興亡した五つの王朝で、その三つは後唐、後晋、後漢というト 
 ルコ人の王朝であった。960年後漢の皇帝の親衛隊長がクーデターで北宋を建国した。 
 実は北京も唐の時代には遊牧民の中心地であり、有名な安禄山も実はトルコ人であった。 
 ということで10世紀から12世紀の北宋時代の漢人の出自ははっきりしていない。実際 
 は隋、唐時代の主流であった遊牧民の後裔であったが、意識の面では秦、漢時代の最初 
 の中国人の直系の子孫で、純粋の漢人と思いこんでいた。この思いこみが中華思想とな 
 ったと言われている。 
 
4)元の実態と正史のずれ 
  元朝はどこにも中国的要素が残っていない王朝で、ユーラシア大陸を制覇したモンゴ 
 ル帝国の中国での植民地政府のようなものである。明の太祖洪武帝が編纂させた元史で 
 は、従来の中国の範囲を超えておらず、元朝支配下のモンゴル高原、チベット高原、東 
 トルキスタンの一部すらも書かれていない。
 
5)国民国家の幻想
   19世紀末まで中国という国家も中国人という国民もなかった。日清戦争で負けて、 
 清帝国は日本をまねて近代化し、国民国家を目指した。多数の青年が日本に留学し、
 1911年の辛亥革命では日本の陸軍士官学校で教育を受けた将校たちが反乱した。そして
 現在モンゴル、チベット、東トルキスタンなど清朝皇帝の同盟種族の居住地も、日本型
 の国民国家の観念から自国の領土とし、又「朝貢」という皇帝と独立の君主との関係
 であって宗主国と保護国との関係ではなかったにも拘わらず、沖縄や尖閣諸島を自己の
 領土と主張している。つまり19世紀を境に皇帝の歴史が中国の歴史と読み替えられ、
 日本型の国民国家を標榜しているが恐らく幻想に過ぎないであろう。深センや上海をみて
 いると、社会主義国というより唯物論的拝金主義がぴったりの国であるように見える。
 


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