歴史道楽

 
 

24    南アフリカの歴史
更新日時:
2004/10/30 
  
(1) 南アの原住民 
 アフリカの南部には数千年の昔から、狩猟採集民のサン人(ブッシュマン)と牧畜民のコイコイ人(ホッテントット)、あわせてコイサン人が住んでいた。紀元300年頃までに現代の南アフリカ人の多数派の祖先に当たるバンツー諸語を話す混合型農民がリンポポ川南部(南アフリカ東部)に定住を開始した。地域によりコーサ人、ングニ人、ムボンド人、ソト人、ズールー人、ツワナ人、ツォンガ人、ペディ人、ベンダ人などと呼ぶ。
 
(2) 白人の侵略
 1487年バルトロメオ・ディアス率いるポルトガル遠征隊がモッセル湾に到達して以来、白人の侵略が始まる。1652年オランダ東インド会社が喜望峰に補給基地を建設しオランダ領ケープ植民地が出来てから徐々にコイサン人を征服しながら領地を拡げたが、植民者をアフリカーナー又はボーア人という。彼等はカラードと称する奴隷をインドネシア、インド、セイロン、マダガスカル、モザンビークから移入した。しかし1795年今度はイギリスがオランダからケープ植民地を奪取した。1803年条約で一旦オランダがケープ植民地を再獲得したが、同年イギリスがケープ植民地を再征服した。
 
(3) ダイアモンドと金
 この間白人はコーサ人の土地を侵略したり、ズールー王国などアフリカ人の部族間でも戦争があり、アフリカーナーの大移動も重なって東部は大混乱に陥った。又イギリスもナタール植民地を作ったりしていた。1867〜72にキンバリーで宝石ダイアモンドの四鉱山が開かれ、2万人の白人と3万人の黒人が集まった。更に1886年ヨハネスブルグの近くに金鉱が発見され、6000万ポンドを投下して生産高が世界の27.55%となり、白人7.5万人、アフリカ人10万人が集まった。かくして19世紀末までに白人たちは先住民を編入して征服の歴史を完成させた。
 
(4) ボーア戦争と南ア連邦の成立
 1899〜1902南アフリカ戦争(ボーア戦争)でイギリスがトランスバール、オレンジというアフリカーナーの二つの共和国を征服した。要するにオランダ系アフリカーナーが英国に反抗したもので、1910年ケープ植民地、ナタール、トランスバール、オレンジ自由国が参加して南アフリカ連邦が成立した。当時アフリカ人400万、カラード50万、インド人15万、白人127.5万人であった。イギリス自治領となり、1912年南アフリカ原住民民族会議が結成され、後にアフリカ民族会議(ANC)となる。
 
(5) アパルトヘイト
 1910〜48年は植民地主義と人種隔離の時代となり、アフリカーナーと英語系白人が黒人住民を隔離し、差別して締め付けた時代である。ただ同じ白人でもアフリカーナーと英語系はエスニックな分裂で、アフリカーナーの方が強硬であった。居住環境、教育、賃金、投票権でも黒人は甚だしく劣悪な環境を強いられた。48年にはアフリカーナー国民党が総選挙に勝ち、アパルトヘイト政策を実施し始めた。要するに白人の利益・支配権優先の思想である。61年には南ア連邦共和国となり、イギリス連邦は勿論、コモンウェルスからも脱退した。バンツー諸族はホームランドに押し込められ、1966〜81の間次々と独立させられたが、国外では承認されなかった。(レソト、ボツワナ、スワジランド、トランスカイ、ボプタツワナ、ベンダ、シスカイ、但しクワズールのみ独立拒否)
 
(6) マンデラ大統領
 1978〜89にはアパルトヘイトも危機となり、サッチャーやレーガンは反対したが、アパルトヘイトに対して外部の制裁圧力が強まり、内部の抵抗も増えてきた。又アフリカ南部のナミビア、アンゴラ、モザンビーク、ジンバブエ、ザンビア等に対する南ア軍の介入行為も手を引かせられ、1990年には遂にANC等の合法化、ネルソン・マンデラの釈放、ナミビアの独立、アパルトヘイト法の撤廃が始まった。1994年史上初の全人種参加の総選挙が行われ、第一党ANC、第二党国民党、第三党インカタ自由党となり、マンデラが大統領に就任、アフリカーナーの前大統領デクラークが副大統領に就任して、めでたく人種差別のアパルトヘイトから完全に足を洗う事が出来たが黒人の生活水準向上には尚努力を要する状況である。
 


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