歴史道楽

 
 

25    キリシタン大名・ジュスト高山右近
更新日時:
2004/10/30 
 
 先週学士会の午餐会で加賀乙彦氏の「ザビエルと高山右近」という話を聞き、早速大田図書館で加賀氏の「高山右近」という歴史小説を借りて一読した。右近というのは通称で正式には高山長房というのだそうである。
 
 高山右近の一生を描いたものかと思ったが、さにあらず、既に織田信長時代から数々の武功をあげ、明智光秀の謀反に対して先陣を切り、イエズス会の神父の導きでカソリックの洗礼を受け、高槻から明石を経て、豊臣秀吉ににらまれて金沢の前田家に拾われ、二万五千石の大名として暮らしているところから物語は始まっている。しかもはじめと終わりは神父クレメンテのスペインに残した妹への手紙という形で当時の様子を側面から描いている。
 
 金沢から秀吉に追われて北国を越え、京へ出てから長崎へ移り、ここでしばらく過ごしたのち徳川に追われてフィリピンのマニラに流され、フィリピン総督に大歓迎を受けたけれど、間もなく熱病に冒されて昇天するまでの物語である。丁度16世紀の末から17世紀のはじめにかけての話である。
 
 フランシスコ・ザビエルがはじめて鹿児島へきたのが1549年8月15日であり、日本に西欧文化が入った記念すべき年である。丁度ポルトガルやスペインを初めとする西欧の大航海時代であり、イエズス会を始めとするキリスト教がその先兵として世界の各地に進入し、キリスト教の布教と共に、日本以外では植民地化も進めた。
 
 高山右近という名前はキリシタン大名として有名であるが、彼が武術の他に、築城術に優れ、茶の湯では千利休の一の弟子であるばかりでなく、中国の古典文学、日本の詩歌、更には天文学から、外国へ行ったこともないのにポルトガル語、ラテン語、スペイン語にまで通じ、折から帰国した天正の遣欧使節も右近の語学に感嘆したという。勿論語学は神父に習ったのであろうが、当時の環境を考えれば余程の勉強家であったに違いない。
 
 交通の発達した今日とは違い、当時の不便な又危険な交通手段しかない時代に、よくも多数の宣教師たちが地球の果てからはるばるとやってきたものと感心するが、又一方得体の知れない異国人のキリスト教という在来の日本にない宗教に、よくぞ大勢の日本人が信仰し、あらゆる迫害にも屈せず信仰を守り通した事実は之また感心するばかりである。
 
 作者もカソリック信者なので何の不思議もなく右近をはじめとする多くの人の信仰を述べているが、どうして彼等が信仰を告白するようになったのかについては、残念ながらあまり描かれていない。神道と仏教しかない日本に、突然見たこともなかった異国人の、従来と全く違う一神教の教えに、秀吉も家康も拒否反応を示したのは理解できるが、多数の大名をはじめとして多くの日本人がなぜ異教のクリスチャンになったのか、恐らく宣教師の熱意と技術によるものであろうが、甚だ興味のある所である。
 
 マニラで大歓迎してくれたフィリピン諸島総督ファン・デ・シルバは軍人ではあるが読書好きで、ルイス・デ・グスマンの著書「東インド、中国、日本におけるイエズス会の伝道史」を読んでいて、ジュスト・ウコンドノの事を著書から知っていたという。逆にいえば右近殿は西洋で知られた最初の日本人の一人だったということである。マニラには倭寇の片割れのような嫌われ者の日本人がかなりいたが、高山右近をはじめとするキリシタンの連中は流石に礼儀正しく、占領軍からも鄭重に処遇されたようである。約400年前のことではあるが、日本がはじめて西洋に接した時代の歴史としていろいろと考えさせられる。
 


| Prev | Index | Next |

| ホーム | プロフィール | コラム | 歴史道楽 | 異文化探訪記 | What's New | リンク集 | フォトギャラリー |
| 掲示板 | | | フォト・シチリア・マルタ | フォト・ミャンマー | フォト・英国 | フォト・アメリカ西海岸周遊 |


メールはこちらまで。