歴史道楽

 
 

26    フランシスコ・ザビエル
更新日時:
2004/10/30 
 
 フランシスコ・ザビエルがインドのゴアからマラッカを経て鹿児島に上陸したのは1549年8月15日であった。鹿児島から平戸、山口、京都、平戸、山口、大分と訪れ、1551年11月15日沖の浜港を出帆して広東沖の上川島へ向かい、翌年一旦ゴアに戻り、再びマラッカを経て上川島へ行き、1552年12月3日同地で46才で病死した。日本に滞在したのは僅か2年余であり、しかもその間イエズス会としてキリストの福音を宣べ伝えたが成果は少なく、その努力は挫折したかに見えたが、結果として厳しい迫害や殉教のなかに潜伏キリシタンを250年間も支え続けた、その理由は何であったのであろうか?
ザビエル・人と思想156−Century Books」尾原悟著 清水書院 98-11-20 700円+T
 
 16世紀半ばはヨーロッパでは大航海時代であり、日本では戦国時代であった。ここでキリスト教伝来という形で両者の最初の接触を起こしたのがザビエルである。ただ日本は当時ヨーロッパから2年以上もの永く危険な航海を要する極東にあり、船出した船の半ば近くは暴風や海賊によって失われる最果ての地であった。日本を軍事的に支配し、政治的に領有する力がポルトガルになかったと同時に、日本は豊かな未開の原料産出国としての魅力に欠けていた。そのような中で、ヨーロッパは霊魂、その文化の原点であるキリスト教として新しい世界日本にはじめて出会い、そこにザビエルがいたということである。
 
 ザビエル本人は1506年4月7日に誇り高いバスク人としてナバーラ王国のハビエル城で生まれた。 父はイタリアのボローニア大学で法律の学位を得、ナバーラ王国の行政会議の議長を務め、母は地元の名家の出で、ハビエル城とアスピルクエタ城は結婚のとき持参したものと言われている。二人の兄、二人の姉の末子としてザビエルは恵まれた幼年時代をハビエル城で送った。しかし9才の時、スペインとフランスの紛争でスペイン軍の領内通過を拒んだためスペインに滅ぼされ、700年に亘る独立国としての伝統が失われ、父は失意の内に没した。1524年18才でようやくカルロス1世の名で恩赦を受けハビエル城に帰るまで母と弟と共に貧しさと屈辱の少年時代を送った。兄たちは独立運動の騎士として活躍したが、彼は学問に生きる決意を固め、19才でパリの大学に入り、1530年24才でパリ大学哲学部を卒業、哲学修士となり大学で哲学の講義を担当する。その後イグナチオ・デ・ロヨラと知り合い、その仲間に入り、やがて司祭となりイエズス会が創立され、1540年ポルトガル王によりインド派遣を命ぜられ、1549年はじめて日本に来たものである。
 
 このようにザビエル自身学識豊富で人格的にもすぐれていた。このため日本をよく理解し、又大名や僧侶をはじめ多くの人と対話し、議論し、大いに尊敬された。目の不自由で日本名不明の琵琶法師ロレンソもザビエルからキリストの教えを学び、洗礼を受け、40年間説教師として宣教し、高山右近や小西行長なども改心させた。しかし当時の日本人にとって魅力的であったのはそれだけではなかった。
 
 ザビエルに劣らずヴァリアーノを初めとして後継者が有能であった。当時日本では知られていなかった地球が球体であることを初めとする自然科学、哲学、神学を教える教育に力を入れ、セミナリオ(神学校)、コレジョ(学院)、ノヴィシアード(修練院)の三種の教育機関を設立した。又文明の利器印刷機を天正遣欧使節と共に持ち込み、キリスト教の効果的伝道として多くの教材の印刷が行われた。これにより、日本人にとっては世界の新知識が導入され、又辞典や日本史をはじめ西欧に対して極東の国日本も紹介された。
 
 ルネッサンスを経て新しい文明を獲得したヨーロッパが、現代で考えても優秀と思われる方法で、極東の島国日本に新しい文明を伝えたと言った方が適当と思えるような形でキリスト教を伝えたもので、当時の日本人が如何に進んだ文明にあこがれを覚えたかが潜伏キリシタンを250年間も支え続けた真の原因であるように感ぜられた。
 


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