1)歴史の証人として真相を語ると称して、当時の外務官僚加瀬俊一は「日米戦争は回避
出来た」(善本社)という本の中で、日米交渉が戦争を誘発した、と書いている。
2)ところが開戦前夜の秘められた日米交渉として、その立役者であった陸軍のホープ
岩畔豪雄(いわくろひでお)の遠縁にあたる京大出の医者橋本恵が、「謀略−かくて
日米は戦争に突入した」という本を早稲田出版より一昨年出版した。同書によれば、
折角日米諒解案ができて、日本の政府及び軍部代表が驚喜乱舞したにも拘わらず、
松岡洋右外相及び日米外務官僚によって葬り去られたことを明らかにし、これをコント
ロールできなかった近衛首相に責任があるとしている。
3)日米交渉については既に82年に山川出版社より近代日本史料選集5、伊藤隆、塩崎
弘明編で「井川忠雄日米交渉史料」という図書が出版されている。ここには井川忠雄
の書簡、電報約500件の他、回想として本人の他、マッカーサー元帥の幕僚フェラー
ズ将軍の国務省属僚非難の談話や岩畔豪雄氏述の「アメリカにおける日米交渉の経過」
を載せている。
4)井川忠雄氏は日本聖公会所属で、一高で近衛文麿と同級、東大法科を出て大正6年大
蔵省に入り、大正9年ニューヨーク財務官補佐官、同12年駐米財務官心得、コロン
ビア大学講師などの経験がある。昭和11年門司税関長で退官し、産業組合中央金庫
理事となり、昭和15年暮から1年間日米交渉に当たった。その資金を得るため16年
5月退職している。尚日米交渉のあと、火災海上保険の社長となり、戦後船田中と日
本協同党の代表世話人、書記長、勅撰貴族院議員となったが、昭和22年狭心症で死
去、53才であった。
5)日米交渉は、ルーズベルト大統領−ウォーカー郵政長官のラインでメリノール派海外
布教教会のウォルシュ、トラウトの両神父が井川氏に接触した所から始まり、近衛首
相の配慮で陸軍から軍事課長の岩畔大佐が派遣され、海軍大将の野村大使との3人組
で交渉された。途中ハル国務長官も加わったが、外交専門の若杉公使はアメリカ側か
ら拒否されている。
6)松岡洋右外相の個性もあるが、基本的には外交当局のヨーロッパ情勢の見誤りが原因
で折角の日米諒解案は日の目を見なかった。当時の陸軍の方が情勢判断が正確であっ
た。ただ岩畔氏も、もし日米戦争が避けられた際には、国内に二・二六事件に数倍す
る大規模な内乱が発生したであろうと予測している。又米国の真意が国防計画完成ま
での時日の余裕をとるための謀略ではないかとの疑惑は抱いたようである。
7)尚エドワード・ミラー著新潮社刊の「オレンジ計画−アメリカの対日侵攻50年戦略」
によれば、日露戦争直後からアメリカでは日本絶滅戦略が練られており、実際の日米
戦争の4年間は、ほぼオレンジ計画通りであったという。
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