冷戦が終わって世界は全く新しい時代に入り、「国家は急速に意味を失い、一つの地球社会として人権や人道の理想を国境を越えて貫徹させてゆく時代が来た」という声も聞かれるが、これは西洋のごく一部の人の希望的観測に過ぎず、異端的な潮流に過ぎない。
冷戦が終了してあらためて日本の戦争責任追求や謝罪要求が出ているが、それは現在の政治の文脈の中で起こっているという認識を見失ってはいけない。第二次大戦も考えてみればおかしなことが一杯ある。たとえば枢軸国対連合国を「ファシズム対民主主義」と規定したが、スターリンのソ連や蒋介石の中国が民主主義陣営とは軽薄なご都合主義であり、ドイツと同盟しただけで日本をファシズム国家と規定するのも無茶である。冷戦後米英の国民たちはスターリンを「血に飢えた独裁者」とイメージを一変させたが、恬として恥じず、何ら疑問を感じない。更にソ連の満州における蛮行、アメリカの日本の都市への原爆攻撃、焼夷弾攻撃など、悪逆非道な事も、戦勝国は賠償責任を負わないという現実があり、国際社会の正義が普通の正義とは根本的に違うことを示している。
更に第二次大戦後、朝鮮戦争における北朝鮮及び中国、、ベトナム戦争におけるアメリカ、ソ連の数々の侵略責任も国際的には全く問われず、戦争責任を問うと言う面では第二次大戦が特殊な例となっているのが現実である。つまり力と正義は渾然一体のものとして混じり合い、数々の矛盾を含む複合的な歴史的秩序が各時代にあり、その上になにがしか「普遍的に見える正義」「人道」あるいは「国際的調和」という理想をうっすらと積み上げてゆくしかないという全体像をさめた目で見てゆく必要がある。
又ドイツは謝罪しているのに日本はしていないというような非難があるが、ドイツの謝り方はアデナウアーに代表される「ナチスだけを切り捨てて、ドイツ国家及びドイツ人としては何一つ責任がない」というもので、個人への被害はナチスに代わって賠償するが、国家間の賠償はベルリンの壁が崩壊するまでビタ一文出さなかった。又戦前のドイツ国防軍の将軍達が旧西独軍の最高指導部を形成していた。又イギリスは過去植民地獲得のために例えば阿片戦争など起こしているが、未だ嘗て謝罪したことはない。アジアとの和解ということで、教科書問題で宮沢氏、慰安婦問題で河野氏が過ちを犯したが、自己を全面的に否定するような謝罪は余りに非人間的で逆に空虚な偽善と思われてしまう。却って外国からは危険視されているという現実を知る必要がある。
21世紀はアジアの世紀というのももはや幻想である。又アジアは文明的に一体ではなく、今後長期に亘って安保環境が悪化してゆくと思われるので第一に従来おろそかにされてきた日本の安全保障の基本を固めてゆく努力が必要である。また従来のODA主導のアジア政策を市場メカニズムに則った新たな経済交流と協力に切り換えてゆくべき時である。更にアジアを過度に特別視することなく、民主主義とか人権という世界に通用する価値観を日本外交に明確に位置づけることが必要である。
グローバリゼーションの大波に対しては渾身の力で適応すべく応戦してゆかなければならないが、日本の議論では三つの誤謬があるとされている。一つはそれが「初めての現象」と思われているが、過去にもあり初めてではない。二つ目はそれが「いつまでも続くもの」と受け止められているが、おそくとも2020年前後には一つの終局がくると考えられ、第三に「国というものがなくなってゆく」と思われているが、歴史的には「国家の再浮上」という新しい波にとって代わられる。
感情的な反米主義、戦後平和主義、ウェスタン・アプローチ、アジア主義の夢は甚だ危険である。世界の中の日本の立脚点を見据えて、「自由で活力に富み、歴史と伝統を重んじて自立する日本」という新しい国家目標の追求が歴史的に求められていると思われる。「大国の興亡」の著者ポール・ケネディ曰く、「90年代日本衰退の原因は、国家としての目標を欠き、国家的結束を失ったことにあるのではないか。」
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