中央公論新社では、日本の近代として全16卷、内訳として1853年の開国から年代別に8巻、テーマ別に8巻を企画し、6番目に五百旗頭真著の題記図書が2001年4月25日初版発行された。大東亜戦争の始まる直前から戦後の55年体制まで、日本及びアメリカで発表された文書をもとにまとめられたもので、全てを網羅しているわけではないがその時代を生きた者として種々の感慨を催した。ここでは著書の紹介というより、時代の背景に対する感想と、重要だが今までよく知らなかった点について概要を述べる。
1.日米開戦
日本がもたもたしているうちにハル・ノートにやられたが、当時は勿論、今でもやはり国際政治及び軍事に関して有能なエリートの養成が必要であり、又刻々変化する情勢に対応するには内閣直属のインテリジェンス機能が必要であると痛感した。ルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていたがどうかは結局分からないようである。
2.敗戦の方法
アメリカの内部では日本占領方針として無条件降伏派と大西洋憲章派ともめたらしいが、スティムソン陸軍長官の主張で原爆投下の目標から京都を除外し、天皇制について日本に配慮を与えることにした由。グルー元大使など知日派の主張でドイツと異なり日本は軍隊の無条件降伏で国家の無条件降伏ではなかった。尚日本側では陸軍及び海軍軍令部の反対で、ポツダム宣言の受諾に関しては結局昭和天皇の聖断によって受諾した。
3.戦後体制へ
1945年8月15日鈴木内閣は総辞職し、同17日東久邇宮内閣となった。久邇宮朝彦親王の九人の子の末子で、生後すぐ農家に預けられた為孤独で強情な性格となり、幼年学校から陸士、陸大を出て明治天皇の娘と結婚し、1920年パリを中心とするヨーロッパでの7年間の修行で視野の広い自由主義者もしくは民主主義者となって帰国した。内閣としては天皇に代わって民心の安定と軍部暴発の阻止を使命とした。
マッカーサーの厚木到着に準備がやっと間に合ったが、9月2日のミズーリ号での降伏式には、天皇と政府を代表して重光外相、大本営から梅津参謀総長が出席した。その午後直接統治を意味する三布告が出され、鈴木公使、岡崎局長、重光外相が必死に工作して間接統治に変更して貰った。(実は日本進駐の前日に間接統治方針への変更が通告された。)
9月11日戦犯容疑者39名逮捕、10月4日人権指令で山崎内相以下警察関係4000名が罷免され、この為翌日東久邇内閣は総辞職し、10月9日幣原内閣が成立した。
マッカーサーは11月1日に幣原首相に憲法改正を命じたが、日本側は独立まで調査のつもりでいた。しかしマッカーサーは46年2月26日の極東委員会前に憲法改正を自分の手で行うため、2月3日にマッカーサー三原則を出し、GHQ内で9日間で憲法原案を作り、2月13日日本案を拒否し、マッカーサー案に対し日本側の同意を求めてきた。天皇制、戦争放棄、民主化で、侵略戦争のみ放棄で自衛権と自衛手段は認められると民政局のケーディス次長は主張した。日本の閣議は大荒れで、3月6日ようやく修正した日本政府案ができたが、結局戦前からの幣原外交路線の復活であった。
4.歩み出す日本
1940年8月立憲民政党の解党で日本では全ての政党が消滅していた。戦後1945年11月16日日本進歩党が結成された。ところが46年1月公職追放令が出て、現職議員の95%が追放され、4月10日総選挙が行われ、自由党が第一党となり4月22日幣原内閣は総辞職した。5月3日自由党の鳩山総裁を首相に推奏したが、翌日追放され、5月16日吉田茂にお鉢が廻ってきた。吉田はマッカーサーの信頼を得、内閣人事権を掌握し、食糧危機に対して5月21日マッカーサーが日本国民を餓死させないとの声明を待って翌22日第一次吉田内閣を発足した。
46年6月下旬帝国議会で審議を始めた日本国憲法は、10月7日成立、11月3日公布し、47年5月3日施行された。この間46年7月1日より秘密会で憲法改正案特別委員会(芦田委員長)が開かれ、問題の第九条第二項の冒頭に「前項の目的を達するため」を付加して、自衛の為の戦力と交戦権は容認されるに至り、8月1日確定した。しかし国会答弁で吉田首相は自衛権を否定した。結局民政局のケーディス次長は自衛権は奪うべきではないとしていたが、日本政府がGHQの軍備許容限度を鮮明な形で問わなかった為今日まで自衛権に関してすっきりせず、種々の解釈を生む灰色状態に止まっている。
吉田内閣はどん底の夏場の食糧危機を緊急輸入でしのぎ、豊作の秋につなげたが、工業生産に対しては学者を動員して検討し、傾斜生産方式を編み出した。しかし47年2月1日のゼネストをGHQが禁止し、2月7日総選挙を指示し、4月25日総選挙が行われ、社会党が第一党となり、片山首相が指名され、6月1日社会・民主・国協の連立内閣が発足した。
片山内閣は各種民主化改革を行ったが、炭鉱国家管理政策で満身創痍となり、平野農相罷免問題で社会党内が分裂し、補正予算案不成立で48年2月10日総辞職した。後日片山首相はGHQより再軍備の要求を受けたためと発表しているが裏付けに乏しい。
48年3月10日芦田内閣が発足したが、支持率低く、しかも6月23日には昭和電工疑獄事件が発覚し、10月7日には早くも総辞職し、10月15日第二次吉田内閣が成立した。 当時の内閣は、GHQの管理下にあり、東久邇、鳩山両氏は嫌われた。幣原、吉田両氏はマッカーサーと親しく、民政局の支配を受けなかった。片山、芦田、西尾、楢橋の各氏は民政局のホイットニー局長、特にケーディス次長に管理された。又経済科学局によって多くの専門分野別官庁が支配されたようである。
5.保守政治による再生
実は第二次吉田内閣ができる時、ケーディス次長はそれを阻止する工作を行った。しかし吉田氏が直接マッカーサーと掛け合って支持を得、かくしてケーディスは破れ、中道連立内閣の要人たちも深い傷を負って政治の表舞台から後退した。48年11月12日には極東国際軍事裁判所で、戦犯25被告に有罪、7被告に死刑判決が出たが、本書は何故か本件に全く触れていない。
その後も民政局は嫌がらせを続けたが、48年12月23日内閣不信任案可決という形で国会を解散し、49年1月23日第24回総選挙を行い、官僚政治家が大量に初当選し、民自党は57%の264議席(内新人121)獲得し、経済復興と講和に向けて吉田体制が確立した。
当時卸売物価上昇率は年に2〜3倍であったが、ドッジラインで一挙安定論に踏み切り、49年12月には対前年上昇率20%、50年6月には10%に抑え、インフレを退治した。
講和に関しては、米国は独立後の米軍基地に対して、国務省は撤退、米軍は日本に基地不可欠につき講和に反対、マッカーサーは本土非武装化、沖縄永久基地化と三すくみ状態であったが、吉田首相は池田蔵相を米国に派遣して独立後の米軍基地供与の意向を伝え、講和の再起動をはかった。
50年6月25日朝鮮戦争が始まり、同年7月8日マッカーサーの命令で75,000人の警察予備隊を創設する。9月にはダレス特使がきて対日講和のとりまとめに動き出した。51年1月9日吉田・ダレス会談で、ダレスの再軍備要求に吉田は反対したが、50,000人の保安隊を作ることで妥協し、再軍備の約束は秘密にした。これが今日も負の遺産である。
51年9月8日サンフランシスコ講和条約が52ヶ国中49ヶ国の署名を得、同日日米安全保障条約も署名された。52年4月28日日米安保条約と共に講和条約が発効し、占領が終結し、独立を回復したが、本書には東京裁判同様明記されていない。更に4年してソ連と国交回復し、国連に加盟した。
戦後日本の政治社会は憲法体制(非軍事化と民主化)、サンフランシスコ体制(冷戦下経済第一主義)、55年体制(保守合同と社会党の統一で当初二大政党制、やがて一党優位制)と続いたが、軽軍備・通商国家として経済発展と利益配分に専念した結果、大局観による国家的自己決定能力を喪失してしまった。(東京裁判と独立はこの期間の重要事件だと思うが、何ら触れられていないのは甚だ遺憾である。)
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