歴史道楽

 
 

37    「桃源郷」によせて
更新日時:
2004/10/30 
 
 10世紀頃から中国の北方に契丹族が興隆し、キタイ(キャセイ)或いはその複数形のキタンが呼び名となった。契丹国は中国の伝統的王朝の命名法では「遼」と呼ばれる。遼は自国の文書を隣接する地域に持ち出すのを禁じたし、遼末の戦乱で多くの資料が失われたので、一種の「歴史の空白の時代」と言われた。
 
 そこで、空白の期間に何が起こったか、空想を交えて描いたのが陳舜臣の小説「桃源郷」で、上巻は西遷編、下巻は東帰編、集英社 2001年10月10日の発行である。
 
 遼の太祖耶律阿保機が即位したのは916年で、その後力をつけて宋を脅かし、1004年にはタン淵の盟として宋から毎年絹20万匹、銀10万両を贈られ、それで国力を整備できた。この契丹の遼に服属していた女真族が、裕福になった契丹の背後を襲うことになり、1115年自立して国号を「金」とした。遼の天祚帝が金(女真)に捕らわれたのは1125年で、九代210年の遼は王朝としての幕を閉じた。しかし金に臣属するのを潔しとしない耶律大石一派が、西方に逃れて新政権を作った。歴史家はこの政権を「西遼」と呼んだり、カラ・キタイ(黒い契丹)と呼んだりする。
 
 アラブの歴史家イブヌル・アシール(1160〜1234)は厳格な史家として有名で、耶律大石はマニ教徒だと指摘している。マニ教は3世紀ペルシャに生まれた善悪二元論の宗教であるが、創始者マニはゾロアスター教の祭司に排斥され、276年に処刑されている。しかしマニ教の信者は各地に拡散した。会昌5年(845年)唐の武宗が道教以外の宗教の大弾圧を行い、仏教、ゾロアスター教、景教、と共にマニ教も弾圧されたが、最もすさまじいのはマニ教で、還俗だけでなく、天下のマニ師はすべて殺された。会昌6年武宗の死によりマニ教以外は直ぐ復活したが、マニ教だけは受けた傷が深すぎてほとんど再起できなかった。ウイグルのみマニ教が国教となっていたが、契丹では辛うじて禁じられていない状態であった。このような背景で小説桃源郷は1120年から約20年間、マニ教と関連して今の北京、昔の燕京から西はイベリア半島のコルドバまでの広大な地域に展開するドラマである。
 
 主役は漢人陶羽で字は翔和。「桃源郷」より下界に遣わされた探界使という家族の末裔で、1103年燕京(北京)に生まれ、耶律大石の命により18才の時アラブへの使者として約20年の長い旅に出る。当人ははっきり自覚していなかったがやはりマニ教徒で、イランやコルドバ、或いは桃源郷と言われる雲南の大理で種々の経験をする。当時の日本は平安時代の末期であり、僅かに高麗や宋と多少の縁があり、そのご大分経ってから元寇の役に見舞われるが、いずれにせよ大分地理的なスケールが違う。
 
 陶羽のルートは燕京から開封まで歩き、後は船で運河から揚子江を経由して福建の泉州に行き、そこで外洋船に乗り換え、インドのカリカットを経由してイランのホルムズで上陸した。当時のイラン・イラクはセルジューク朝トルコであり、シラーズ、イスファハンを経て聖者のいるアムラートと東のニーシャプ−ルでいろいろ学び、カリフのいたバグダード、ダマスカス、カイロと旅し、イスカンダリーヤ(アレキサンドリア)から船で地中海を西に、マラガで上陸して騎馬でコルドバに行く。帰りは又イランに戻り、ホルムズから船で海南島まで行くが、ここから雷州に渡って北上し大理に向かう。その後一旦泉州から杭州へ行くが、ここでペラサグンの耶律大石から連絡が入り、大理経由でペラサグンで大石の遺言と最後に立会い、帰途敦煌の明沙山で、マニ教老奇術師の3回目の奇術を経験するところでストーリーは終わっている。勿論この間多彩な登場人物で賑わう。
 
 12世紀前半の中国の乱れ、西域の軍事力の弱さ、吐蕃(チベット)の広さ、ペルシャのイスラム地域での特殊性、イベリアの動向など印象的であり、その中の幾つかの地域には数年前観光旅行したこともあり、甚だ懐かしく感じた次第である。
 


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