歴史道楽

 
 

38    ロシア革命とシベリア出兵
更新日時:
2004/10/29 
 
 ある会合で雑談中突然シベリア出兵を知っているかと尋ねられた。もちろん名前は知っているが詳細は知らないので、残念ながら知らないと答えた。帰宅してからインターネットでGoogleを使って「シベリア出兵」を検索すると、なんと0.08秒で一五七〇件出てきた。その中で最初の十件をざっと眺めるだけで大凡のことは理解できた。世の中全く便利になったものである。たまたま第一次世界大戦の頃の歴史は今まであまり調べたことがなかったのでよい勉強になった。
 
 第一次世界大戦は一九一四年に始まり一九一九年に終わったが、一九一七年(大正六年)三月ロシア革命が勃発し、ツアーリの支配体制が崩壊する。更に同年十一月には十月革命によりボリシェヴィキが政権を握り、シベリアでもあちこちの都市にソビエト政権ができる。これに対して連合国、具体的にはイギリス、フランス、アメリカ、日本は、革命によって成立したソビエト政権を打倒するために共同して軍事干渉にかかり、その一環となったのがシベリア出兵である。
 
 シベリア出兵の直接のきっかけは一九一八年(大正七年)五月のチェコスロバキア軍団の反乱である。彼等は第一次大戦中オーストリアの支配下にあってロシア軍と戦ったが、多くはロシアに投降し、チェコスロバキア軍団として対ドイツ戦に使用されていた。兵力は二十〜二十五万に上った。このチェコ軍団は、革命後も独立を達成するためドイツと戦おうとし、又連合軍も対ドイツ戦に利用しようとしていた。そこで軍団はヨーロッパ戦線へ移動するため、シベリア鉄道経由で東へ進み、ウラジオストックから連合軍の船舶で海路フランスへ行こうとした。
 
 ところがソ連側は、軍団が連合国の干渉政策に利用されることを恐れて、移動中に武装解除を命じ、緊張が高まる中でウラルのチェリヤビンスク駅でドイツ・オーストリアの捕虜と衝突する。それを機に、軍団の中の対ソ強硬論者が権力を掌握し、各地の反ボリシェヴィキ勢力と結んで地方ソビエト政権に対する反乱を起こし、シベリア鉄道沿線に次々と反革命政権ができた。
 
 さらに、一九一八年(大正七年)八月アメリカの提案で日本とアメリカは、このチェコ軍団の救出を名目に、シベリア、極東出兵を宣言し、イギリス、フランスも派兵した。連合国は現地に成立した反革命勢力と協力して革命政権への干渉に乗り出した。シベリアでは一九一八年十一月に、帝政ロシアの提督であったコルチャークが連合国に支持されてクーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立した。又日本軍は、コサック出身の軍人セミヨーノフに武器と資金を提供し、彼はザ・バイカル州に反革命地方政権を作った。
 
 しかし一九一九年(大正八年)になると、次第に革命勢力が巻き返しに転じ、一九二〇年(大正九年)一月にはコルチャーク軍も敗れ、連合国も封鎖解除を宣言し、日本以外の国は同年六月迄に相次いで撤退した。たまたま同年三月極東のニコライエフスクで日本守備隊と居留民が皆殺しに遭う尼港事件があり、原内閣の兵力削減が参謀本部と対立して進まず、七万人を超える日本軍は撤退がおくれ、ウラジオストックから撤退したのは一九二二年(大正十一年)の十月であった。尚日本軍は北樺太も占領しており、そこから撤兵したのは更に三年後の一九二五年(大正十四年)であった。
 
 結局日本のシベリア出兵は前後八年間にわたり、この間戦費約十億円を費やし、死者は三千五百名を数え、ソ連側の抵抗、民衆の敵意と連合国の不信を招き、その挙げ句なんら得るところなく無惨な失敗に終わってしまった。これがシベリア出兵の顛末である。
 


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