大航海時代の波に乗り、最初にインドに来たヨーロッパ人は、1498年アフリカ南端を廻って西岸カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマで、ポルトガルは引き続き船団を送り、ゴア、コーチン等に東洋進出の拠点を設けた。しかしポルトガル人は16世紀ヨーロッパでの勢力失墜で退き、それに代わったのがオランダ、イギリス、フランスであった。
当初は香辛料や綿布などインドの産物を本国に送る純商業的活動であったが、18世紀になると武力も持ってインド各地の勢力と政治的な関係も持つようになった。ムガル朝に対抗し、或いはその衰退と共に、各地は再び抗争が続き、イギリス、フランスもそれに巻き込まれ、或いはそれを利用して支配権を拡大していった。
19世紀の初め、それらの戦いが一段落してみると、そこに出来上がっていたのは広大な英領のインドであった。1833年にはそれまでのベンガル総督に代わってインド総督が置かれ、次々に行政網が整備され、鉄道が整備され、地税の徴収が進み、インドの富はイギリスに流出し、逆にインドの産業は発展を阻害され、イギリスの綿布を購入する立場へと変質させられた。
こうした急激な社会の変動とイギリス人支配に対する反動として、1857年セボイの反乱と称される大反乱が発生した。しかしイギリスは反乱を鎮圧し、ムガル皇帝の帝位を廃し、東インド会社も廃してイギリス国王による直接統治へと切り換えた。そして自己の植民地支配に便ならしめるため、インド社会に対する一定の近代化政策は進めた。
しかしその結果、皮肉にもインド人の間に自分たちの近代国家を作り上げ、イギリスの支配から独立しようという気運を醸し出すことになった。種々の民族独立運動が立ち上がってきたが、第一次世界大戦でイギリスに全面的に協力したにも拘わらず、その報償として得たものは実質的自治権の賦与されない行政改革(1919年インド統治法)のみで大きな失望を味あわされた。そこから約30年間、人々と共に歩み運動を指導したのがガンディーであり、その影響下に入った若きネールたちであった。ガンディーは非暴力を唱えて断食を武器に、断固としてイギリスと対決した。しかし独立後間もなく狂信者の凶弾に倒れた。
第二次大戦が終わると、独立運動の高まりと、もはや広大な植民地を維持できなくなって、イギリスは遂にインドの独立を認めることとなり、1947年8月15日、インドの独立が宣言された。しかしヒンドゥー教徒主体のインドとイスラム教徒からなるパキスタンに分離して達成された。パキスタンには東西あったが、民族が異なるため衝突が絶えず、1971年遂に戦争に発展して、東パキスタンはバングラデシュとなって分離した。
独立を達成したインドは1950年新憲法を発布して共和国となった。同時に旧来のカーストに基づく人々の差別を禁止した。以後共和国初代の首相ネールの時代は非同盟政策で華々しい外交を展開し、内政面でも新しい経済建設に乗り出した。64年のネールの死後、66年から娘のインディラ・ガンディーが首相になったが、84年10月暗殺された。 その後息子のラジーブ・ガンディーが継ぎ、経済自由化政策を打ち出したが、90年に汚職事件で崩壊し、91年5月の総選挙中にラジーブも暗殺され、混迷が続いている。ただし自由化後経済は発展に向かっており、日本との関係も強化されている。
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