日本への稲作伝播の動機は中国の戦争難民であるが、縄文時代の末期、稲作が日本に伝播する少し前、中国では春秋時代になるが、長江の稲作地帯を舞台に日本の源平合戦そのものの「呉・越」の戦争があった。
呉王闔閭(こうりょ)は長江下流域を征服し、中原(中央)に進出して武力で中国の覇権を握った。そして華中に出陣中、隣国の越王勾践が闔閭の留守中に呉の国に攻め入った。
闔閭は怒って軍を返し、勾践と戦った。呉軍は長期の戦争で疲れ、遂に闔閭は戦死した。時に紀元前496年であった。その子の夫差は残念でたまらず、夜は薪の上に寝て、(臥薪の語源)、その痛さで敗戦の悔しさを忘れず、日夜復讐を誓い、会稽の戦いで勾践を破り、勾践を捕らえて殺そうとした。
勾践は夫差の大臣に賄賂を贈り、夫差には美女を贈り命乞いをした。夫差は遂に勾践を許した。
今度は越王勾践が獣の苦い肝をなめ、(嘗胆の語源)、その苦さを忘れず会稽の恥を雪ごうと誓った。又呉王夫差は父同様覇王となり中原に出征中、勾践は再び呉の都を攻めた。
夫差も直ぐ帰国したが、勾践の軍は強く、三年間寒山寺で有名な呉の都蘇州を包囲した。遂に夫差は食・力ともにつき敗れ自害した。
風光明媚な蘇州も三年間包囲され食糧は尽き、餓えた住民は夜陰に乗じ、又夫差の王族、武将も幸い太湖に通じていたので、日本の平家同様の苦難を越えて長江へ逃れ、追っ手を逃げて海へ出て、黒潮に流されて日本・朝鮮へと漂着した。
これは物語ではなく、「れっきとした歴史」であるが、臥薪嘗胆の語源と言われている。
参考文献:
「日本の建国史−戦後隠された古代史」南原次男著 自由社
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