日本では殆ど知られていないラオスの歴史概要の紹介を試みる。
[1] ラーオ族の移動とサワー侯国時代:ラオスには68以上の少数民族がいるが、主と
して丘陵や山岳地帯に居住し、低地はタイ族系ラーオ族が主体となっている。紀元前
5000年頃より、アルタイ山脈の麓から南下し、中国の四川、雲南を通り、唐の圧力
もあり、紀元8〜10世紀には今のルアンプラバンを中心にサワー候国ができた。
[2] ラーンサーン王国時代:サワー候国21代目の息子ファーグムは1353年ラーンサー
ン王国を建国した。クメール帝国から流入した小乗仏教の信仰が広がった。やがて王
都をアユタヤ王国に接するビエンチャンに移し、旧都サワーをルアンプラバンと改称
した。1637〜94年マリニヤ・ウォンサー王の時代が王国の絶頂期で商工業、文化が
発展したが、同王の死後、王位継承を巡って内紛し、1707〜13にかけて三王国に分
裂した。ルアンプラバン王国、ビエンチャン王国、チャンバーサック王国である。
[3] 3王国、シャム王朝の支配下に:隣のアユタヤ王国とビルマ族王国の勢力争いに翻
弄され、1778年アユタヤ王国が崩壊したが、その武将タークシンがビルマ軍を撃退
し、バンコックにトンブリー王朝を興した。1779年にはラーオ族王の自治の下に3
王国を支配下におき、チェンマイ王国も占領してシャム王朝と称した。ビエンチャン
王国は1804年アヌウォン王が即位し、新王宮、新橋、新寺院を建設し、バンコック
に奇襲攻撃をかけたが失敗し、シャム軍に追われて殺された。しかし1872年ホー族
の反乱が起こり、シャム王朝の信頼が失墜した。更にフランスがシャムに圧力をかけ、
1893-10-3の講和で、シャム領の一部としてラーンサーン3王国はフランス領に編入
され、フランスがベトナム、カンボジアと共にラオスを支配する事になった。
[4] フランス領ラオス: ラーオの複数形としてフランスがラオスと称した。産業転換植
民地政策でラオスの自給経済秩序は破綻した。1940年日本軍が侵入し、1945-3-9仏
印処理として仏領シンドシナ連邦を解体した。同年4-8シーサワンウォン国王がラオ
ス独立宣言、8-15 日本軍降伏、9-14 自由ラオス結成、ベッサラート副王を首相に臨
時政府を作ったが、1946年3月フランスが復帰し、自由ラオスはバンコックに亡命した。
[5] ラオス王国の独立と内戦状態:1950-7-19 ラ仏条約でラオス独立は認められたがフラ
ンス連合の枠内とした。自由ラオスはベトミンと連携し、同年8月スパヌウォン殿下
を中心に民族解放戦線パテート・ラーオをハノイで結成、ベトナム、カンボジアと合
同民族統一戦線を結ぶ。フランスも三国との抗争を嫌い遂に手放す事にした。
1953-10-22 ラオス王国独立したが、人材不足、言語不統一で経済停滞した。パテート
ラーオはラオス愛国戦線NLHSを結成し、王国政府と連合政権を作る。しかし1958
年頃より王国政府軍とNLHS軍と抗争し、内戦状態となる。1961-5のジュネーブ国
際会議でトロイカ方式が採用されたが、まもなく崩壊し内戦再発。1973-2-21の和平
協定で1974-4 プーマ首相、スパヌウォン議長でようやく連合政府が発足した。
[6] 王制廃止と共和制への移行:政府内でNLHS勢力が強まり、1975-12-1 ビエンチャン
で全国人民代表大会が開かれ、600年続いた王制廃止と共和制への移行を決議し、ラ
オス人民民主共和国となった。このため旧体制派は国外に脱出し、経済は悪化し、ベ
トナムやソ連寄りとなった。1986年のラオス人民革命党大会で、食糧難から自由主
義経済の導入が必要になり、新経済政策が採択され、新思想、新制度を唱え、経済建
て直しと国交正常化をはかる穏健な社会主義への道を歩んでいる。
タイと同様仏教が盛んで、大衆もあまり豊ではないが穏健である。
|