日露戦争も、日本海海戦や奉天大会戦で日本が勝ちはしたが、このまま続ければどうなるか分からず、当時の中立国アメリカの大統領に頼んで仲介して貰ったことは知っていた。
たまたま(財)新渡戸基金から今年の3月に発刊された内川永一朗著「永遠の青年 新渡戸稲造」なる書物を知人から借りて読む機会があった。
この本は新渡戸稲造の一生を丹念に紹介したもので、年表に年齢を追加してみると、いろいろと感心する事象が見えてくる。 誕生は明治維新の6年前、1862年9月1日、盛岡で生まれているが、9才の時には早くも叔父を頼り兄と共に上京して築地外人英学校に入学している。以後東京外語、東京英語学校などに学び、15才で札幌農学校第2期生として入学し19才で卒業している。以後農商務省御用掛を勤めたり、札幌農学校予科教授になったり、東京の成立学舎英語講師で学資を稼いで東京大学選科生なったりしていたが、22才でアメリカに亘り最初アレゲニー大学、次いでジョンズ・ホプキンズ大学に留学し、農学、経済学、行政学、国際法学、史学、英文学等を学ぶ。次いで25才からドイツへ留学しボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済、農業史、統計を学ぶ。
28才でドイツから米国へ戻り、翌年メリー・エルキントンと結婚し、日本に戻って札幌農学校の教授となった。1895年(明治28年)33才で早くも札幌農学校教頭となり舎監兼任となった。しかし明治30年10月(35才)には重症の神経症で退任し、伊香保で転地療養し、翌年には「農業本論」を執筆出版し、続いて「農業発達史」を出した。更に明治31年7月(36才)には米国西岸モントレーのホテル「デルモンテ」で、若い頃からの宿願であった太平洋の架け橋たらんとして、日本人の精神構造を紹介する「武士道」を執筆し翌年1月出版した。
以後明治32年日本最初の農学博士となり、その後台湾総督府糖務局長、京大教授、法学博士、旧制一高校長、東大農学部次いで法学部教授、東京女子大初代学長、東大経済学部教授、国際連盟事務次長(1919年スェーデン・フィンランド間のオーランド諸島紛争を新渡戸裁定で解決)、その後も女子経済専門学校初代校長、太平洋問題調査会理事長、産業組合岩手支会長、等を歴任し、1933年(昭和8年)10月15日、第5回太平洋会議日本代表としてカナダに赴き、バンクーバーにて腹痛を起こし、手術したが死去した。享年71才であった。
ところで日露戦争の終結に際し、米国のルーズベルト大統領と学友の金子堅太郎が派遣され、米国に仲介を頼んだが、その際大統領から日本人の心が分かる本はないかと聞かれ、金子は新渡戸の武士道を推薦した。ルーズベルトはこれを読んで感激し、46冊購入して知人に配ったという。
「武士道」は100年以上昔に英文で書かれたものであり、当時新渡戸は36才であったが、新渡戸の弟子で後に東大総長にもなった矢内原忠雄が訳したものが岩波文庫にあり、図書館から借りてきて読んでみた。そして驚いた。
新渡戸の経歴を見ても分かるように、まだ日本の学校制度が整う前だったかも知れないが、日本や中国の古典を何処で勉強したのか知らないが実によく調べてある。それより武士道を西洋人に分からせる為に、アメリカやドイツ留学の成果か、ギリシャの古典に始まり、現代に至る迄の哲学、宗教、歴史を始め、類い希な世界の教養を駆使して道徳体系としての武士道を解説している。たしかにルーズベルトが感激するだけのことはある。
武士道や騎士道は封建制の遺物かも知れない。しかしキリスト教やイスラム教が根付かず、教育勅語が否定されて以来、日本には道徳の規準がなくなった。その結果モラル破壊が発生し、凶悪犯罪のニュースが毎日のように報道されてうんざりする。更に新渡戸の著作からみて、今から100年前と比べて現在は、トップクラスの日本人の知的レベルも低下しているのではないかと思われる。尤も科学や技術は進歩したが、人間の精神面では、この2500年間何ら進歩していないと言う歴史的事実の一端に過ぎないかもしれない。
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