歴史道楽

 
 

56    インド仏教−Aインド仏教史概要
更新日時:
2004/10/29 
 
 日本でも馴染みの深い仏教がインドで生まれたことは誰でも知っている。しかし日本にまで伝わってきた仏教が、インドではどのような歴史を辿ったかは案外知られていない。現在インドへ行っても、仏教の遺跡はあちこちにあるが、肝心の仏教は姿を消してしまっている。ではどのような経過をとってインドの仏教は消えたのであろうか?仏教の誕生から初期、中期、後期と分けて概要を記す。
 
(1) 初期仏教
 本来インド人は歴史に関する意識が乏しく、特に古代は皆無に近い。そのため仏教の創始者である釈尊の年代もインドには伝えられず、種々研究されているが、南伝資料に基づく欧米の説より、北伝資料に基づく日本の説の方が信頼性が高いと言われ、概数ながら釈尊の年代は紀元前463〜383年と想定されている。
 釈尊は現在はネパール領であるが、釈迦族の小国の浄飯王の長子として生まれ、ゴータマ・シッダールタと称した。少年時代は王族にふさわしい教育をうけ、16才で結婚し、一男を得た。しかし幼い頃から思索にふける事が多く、29才で一切を放棄して出家し、一介の沙門となる。その後6年間は断食を含む苦行に励み、心身の衰弱と消耗から苦行を捨ててブッダガヤの菩提樹の下で瞑想の日々を送った。やがて悟りが開かれ、ブッダ (覚者)となった。
 悟りを得た釈尊は数週間躊躇逡巡したのち、ようやく説法を決意し、かつて苦行を共にした五人の住むバラナシ(ベナレス)郊外のサールナートに向かい、ミガダーヤ(鹿野苑)で最初の説法(初転法輪)を行い、五人は最初の仏弟子となり、ここに仏教が誕生した。
 以後の釈尊は常に旅をしながら説教を続け、多数の信者と多数の弟子が生まれた。45年に及ぶ長い旅の末に、釈尊はクシナーラ郊外の沙羅双樹の元に平安な入滅を迎える。時に80才、諸資料はこの入滅を完全なニルヴァーナ(般涅槃)と記している。
 弟子達の集団は教団に発展するが、そのリーダーは釈尊であり、仏滅後に教団の整備が次第に進んだ。この結果自発的に身につけるべき「戒」、集団としての規則「律」と、釈尊及び最初期の教えは膨大な「経」(漢訳は阿含経という)にまとめられた。更に弟子達の活動で仏教はインド全土に広まった。入滅後約100余年を初期とする。
 
(2) 中期仏教
 インドに最初の統一国家を樹立したマウリア王朝の第三代アショーカ王(紀元前268〜232年在位)の時代に王朝としても全盛期を迎えるが、王は仏教の普及拡大に努めたので仏教も一大躍進を遂げた。以後約550年間を中期仏教時代とする。
 仏滅後100余年して、教団の各成員を規制する律の条項の解釈を巡って新旧の対立が起こり、寛容を求める進歩派の大衆部と、厳格で保守的な長老達の上座部に分裂する。更に最初の約100年間に大衆部の内部に、その後の約100年間に上座部に、それぞれ再細分裂が生じ、大衆部系は9部、上座部系は11部、合計20部が紀元前100年頃までに成立した。上座部系は主としてインドの西と北方及びスリランカに、大衆部系は中部と南方に栄えた。根本分裂の年代はアショーカ王以前であることはほぼ確実視され、サーンチー、サールナート、コーサンビーなどの石柱小詔勅には、王が教団の分裂を憂い戒める文が見える。
 諸部派には多少の栄枯盛衰はあるが、教団としては常に優位を保ち、のち紀元前後頃以降に大乗仏教が興り繁栄を迎えても、インドから西域一帯の仏教の主流は部派が占めた。紀元1世紀には部派は経と律を整備し、更に創作された文献の大半をアビダルマと称し、それらの蒐集を論蔵と訳し、初期仏教から伝えられた経蔵及び律蔵と合わせて仏教の聖典を表す三蔵が成立した。中国ではこれを一切経や大蔵経とも呼ぶ。
 アビダルマの体系の完成をはじめ、一層専門化してゆく部派の出家集団に対し、それらとは別に、革新的な性格を帯びた諸運動が、長い年月の間にインド各地に生まれ、育ち、推進され、ついにそれが大乗を宣言するに至り、初期大乗経典が生まれた。大乗とはマハーヤーナの訳で、マハーは大、ヤーナは乗り物を意味して当初は教えを指示した。中国とチベットでは部派一般を小乗と呼称するが、インドでの濫用は見られず、貶称なのでなるべく小乗仏教という言い方はしない方がよい。
 大乗仏教の成立とその活躍は、仏教を一躍世界宗教とする原動力となったが、釈尊が直接説いた教えからは遠く隔たっており、大乗諸仏の教説ではあるが、釈迦仏の説の一部をなんらかの形で継承し発展させているともいえる。尚部派仏教は釈迦一仏に拘っている。 
 
(3) 後期仏教
 紀元320年にグプタ王朝が創始され、やがて全インドを征服してマウリア王朝以後はじめての統一国家の成立を見る。しかしこの王朝はヒンドゥ色が極めて濃く、バラモン文化に圧倒されて仏教は比較的急檄に信者数を減じはじめ、その勢力を失って行くので、四世紀初頭から約900年間を後期仏教時代とする。(当時よりヒンドゥ教では釈尊はヒンドゥの神の生まれ変わりと称している。)
4世紀から6世紀には中期大乗が、そして7世紀以後の後半には密教と後期大乗とが、またその全体を通じて数種の部派仏教がインドに行われた。
 中期大乗仏教では、如来蔵(仏性)と唯識と仏身論の三身説との三つの説が結晶のように組織され、初期大乗に見られたような積極的な外向性は消えて、内省的で消極的であっても、宗教として、また哲学として、仏教思想の一種の頂点を示すものであった。尚これら三つの思想の詳細は、追ってインド仏教思想史で説明する。
 7世紀以降の後期大乗は、一部に密教からのたとえば方便重視を受け入れながら、かつてナーガールジュナの説いた空観の再興があり中観派と呼ばれる。中観と唯識とは、折柄栄えたインド正統の諸学派入り乱れての多方面にわたる論争に、大きな比重を占めただけでなく、チベットに伝えられて、チベット仏教の本流となり、やがては中観派の独壇場になる。
 古来インドには呪術や密儀が盛んであり、それはバラモン教からヒンドゥ教にかなり多く流入し混在する。(個人的にはアーリア人のゾロアスター教の影響があるのではないかと思っている。)しかし釈尊が説いた初期仏教はこれを明瞭に払拭し、常に万人に開かれた知的要素に満ち、それは部派仏教にも継承された。
 インド土着の呪的活動は、やがて大乗仏教の中に吸収され、大乗仏教の教義の魅力が相対的に弱体化すると、新しく採用された呪的諸活動が顕在化してきて、ついにはそれが独立して密教を形成する。
 7世紀に密教の根本聖典である大日経と金剛頂経が成立してまもなく唐に伝来し、これに依拠する真言宗は、ほどなく空海により日本に伝わる。尚諸宗派からなる日本仏教の大半は、その基本教理や実践とは別に、密教をなんらかの形で混入して今日に及んでいる。 又密教の影響を受けつつ、後期大乗の中観・唯識の両派はやがて統合され、それとは別の流れの諸部派と並んでインドの一部に栄えるが、イスラムの圧迫を真正面から受けて、チベットに移行する。そして遂に1203年に、仏教最後の拠点のヴィクラマシラー大寺が、イスラム軍により何の痕跡を残さないまでに徹底的に破壊されて、インドにおける仏教の幕を閉じた。
 しかし上座部の一派は紀元前3世紀半ばにスリランカに伝えられ、南伝仏教が形成され、のちに東南アジア一帯に拡大して今日に及んでいる。
 又紀元後まもなく中国に到達した北伝仏教は、ほぼ大乗仏教を主流とし、のちに密教を加える。それは4世紀に朝鮮半島へ、6世紀に日本へ、又6世紀末と8世紀半ば以降にインドから直接チベットへ伝えられ、現在全世界の仏教徒は約5億人という。
 
参考文献:三枝充悳著 「仏教入門」 岩波新書103
 


| Prev | Index | Next |

| ホーム | プロフィール | コラム | 歴史道楽 | 異文化探訪記 | What's New | リンク集 | フォトギャラリー |
| 掲示板 | | | フォト・シチリア・マルタ | フォト・ミャンマー | フォト・英国 | フォト・アメリカ西海岸周遊 |


メールはこちらまで。