歴史道楽

 
 

59    満州国の歴史(T)
更新日時:
2004/10/29 
 
[1] 満州国ができるまで
 現在は中国の東北地方と呼ばれているが、もともと万里の長城の北にあり、漢族ではなく、満州族、蒙古族、朝鮮族のいる土地で、清朝の本拠地でもあった。清朝滅亡後軍閥と匪賊が跋扈して無政府状態になったが、1919年4月この地の治安を確保するため日本の関東軍が統括した。
 1928年6月関東軍は地元の軍閥であり匪賊の頭目でもある張作霖を爆殺した所、同年
12月息子の張学良が国民党の支配下に入り、東北地方が南京の中央政府に属すことになった。このため赤色革命浸透からの自衛と世界恐慌にともなう日本の農村の貧困救済を目的とする満蒙開拓の権益の拡大は頓挫し、日本に対する中華民国の国益回復運動が盛んになった。そこで関東軍作戦主任参謀の石原莞爾は、満蒙領有計画を立案し、その占領統治研究は1931年6月に一応の完成をみた。
 1931年9月18日、遼寧省奉天駅の東北約7.5kmの柳条湖付近で、関東軍が満州鉄道の線路を爆破す柳条湖事件(日本では満州事変、中国では九・一八事変という)が起き、現場近くの中国軍の兵営北大営の兵士の手によるものと宣伝し、計画通り関東軍は一斉に軍事行動を起こし、瞬く間に満鉄沿線の各地を制圧した。
 
[2] 満州国の誕生
 しかし軍事行動の成功にも拘わらず、1931年9月22日、関東軍は元皇帝溥儀を擁立し親日政権を樹立する「満蒙問題解決法案」を決定した。同年9月24日には日本政府は満州事変不拡大方針の第一次声明を行った。同年10月24日には、国際連盟理事会が11月16日期限で日本軍が満州から撤退する勧告案を13:1で可決し、10月26日政府は撤退を可能とする条件について第二次声明を行った。(満州国とは直接関係ないが、現在の支配者である中共の誕生として、11月27日毛澤東は中華ソビエト共和国臨時政府を樹立した。)
 1932年に入り、関東軍は2月5日にはハルピンも占領し、2月16日には奉天(現在の瀋陽)に軍閥の有力者を集めて東北行政委員会を発足させ、日本が後援する新国家樹立の準備が整った。2月18日には東北行政委員会は国民党政府からの完全独立を宣言し、3月1日には東北行政委員会委員長の張景恵の邸宅で、「満州国」建国宣言が行われた。現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省と内蒙古自治区を版図として三千万人の人口を有する満州国の誕生で、3月9日には満州国建国式典が行われ、清朝最後の皇帝溥儀が執政に就任し、政府組織表が公布され、首都は長春とし、名を新京と改められ、元号は大同とされた。
 尚後に1934年3月1日、帝政を実施して満州帝国となり、溥儀が再び皇帝に即位している。
 
[3] 「満州国」建国に横槍の入らなかった事情
 世界の世論が軍縮に向かっていた時期に、なぜ、いとも簡単に日本軍が実権を握る「満州国」の建国に強い反対論がでなかったのであろうか?理由は当時の世界情勢による。
 英国は、ソ連が満州に力を伸ばしてくるより日本によって満州の秩序が保たれるのを歓迎していた。
一方米国は経済恐慌のまっただ中で国内問題に関心が集まり、対外関係にあまり口出しする状況になかった。
 ソ連は第一次五ヵ年計画の途上で国内建設に全エネルギーが集中されており、クレームをつけたり、兵を動かす余裕がなかった。
 肝腎の中国も、国民党政府が南京と広東に分裂し、第三次掃共戦と呼ばれる内戦のさなかであった。
 このような状況で、後にリットン報告書が公表され、国際連盟で満州国不承認へと動いていったのは、イギリスなどの常任理事国が日本に対する制裁を躊躇していたのに対し、ベルギー、スェーデン、チェコスロバキアなどの非常任理事国が日本に対する非難をはっきり口にし始めたからである。
 


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