カンボジアというと、普通アンコールワットとかポルポト、シアヌーク国王などの名前位しか頭に浮かばないが、その歴史はどうであったか概観を試みる。
(1) 先史時代(BC4200年頃〜紀元前後)
BC4200年頃からの人間の生活の跡や新石器時代の遺跡が発見されており、BC1500年
頃の人骨もトンレサップ湖東南の湖岸で発見されている。
(2) 前アンコール時代(紀元前後〜802年)
紀元前後からインド商人がコーチシナ地方に来航し、交易活動を行った。
2世紀頃「扶南」がメコンデルタ地帯にでき、海のシルクロードとして栄えた。
5〜6世紀にはクメール人がメコン川中流(南ラオス)から南下し、「真臘」へ発展。
7世紀「真臘」は「扶南」を併合し首都をイーシャーナプラへ移す。
8世紀「真臘」は「水真臘」と「陸真臘」へ分裂。
(3) アンコール時代(802〜1431年)
802年ジヤワから帰国したジャヤヴァルマン二世によって再統一され、即位後アンコ
ール朝を創設した。八八九年即位したヤショヴァルマン一世はアンコールを王都とし、
プノンバケン中心に大環濠都城を建設し、以後アンコールワット、アンコールトム
をはじめ都城と寺院が建築され続けた。1177年チャンパに一時占領されるがすぐ回
復し、1181年建築王ジャヤヴァルマン七世が登場し、インドシナ半島の大部分に勢
力を拡大し、アンコール王朝の絶頂期を迎えた。しかし死後国力衰退し、1431年に
はシャムのアユタヤ朝に攻略され、流浪と苦難の時代が始まった。
(4) シャムとベトナムの両属時代(1431〜1863年)
アンコール放棄後カンボジア王国は王都を転々と変更したが、15世紀以降は西のシ
ャム、17世紀以降は東のベトナム(阮朝)に領土を徐々に蚕食されて行く。又16世紀
中頃よりシャム王室の影響力が強まり、内紛と離反で衰退し、18世紀後半以降シャ
ムとベトナムの攻撃で国家滅亡の危機を迎えた。1835〜1840年にはベトナムに行政
権を奪われ、41年国土併合されたが、47年妥協が成立し、一時平和となったが、
実質的にはシャムとベトナムに両属状態であった。
(5) フランス植民地時代(1863〜1953年)
二重属国状態を脱するため1853年よりフランスに接近、1863年8月保護国条約を結び
フランスの支配下に入る。1884年協約によりフランスの植民地体制強化され、1887
年仏領インドシナ連邦成立。植民地時代伝統は温存したが経済開発や教育は進めず、
中国人移民やベトナム人労働者を受け入れ、1930年代後半までクメール人民意識は
形成されなかった。41年19才で即位したシアヌーク国王がカンボジア独立運動を
始め、49年11月フランス連合の枠内での独立、1953年合法クーデターで全権掌握し
フランスと直接交渉して同年11月9日完全独立を達成した。
(6) シアヌーク、ロンノル、ポルポト、ヘンサムリン、UNTAC時代(1953〜1993年)
シアヌーク国王は王制、仏教、社会主義で非同盟中立主義をとったが、1960年代後
半経済政策失敗し財政困難となり、1970年右派ロン・ノル将軍がクーデターを起こ
し、ベトナム戦争に巻き込まれ、1973年以降内戦激化した。1975-4月内戦終結した
が、ポルポト政権の急進的共産主義政策で3年8ヶ月大混乱が続いた。結局1979-1
月ベトナム軍に支持されたヘンサムリンがプノンペンを解放しカンプチャ人民共和
国の樹立を宣言した。1980年代はタイ国境に逃げた反ベトナム民主カンプチア連合
3派と二つの国家が併存して内戦が長期化した。1987年ようやくパリで3三派代表の
シアヌークとヘンサムリンのフンセンとの会談が実現し、以後何度も会談してよう
やく1991-10月パリ和平協定が締結され、1992-3月国連カンボジア暫定統治機構
(UNTAC)が成立し、21,000人のPKO、18ヶ月間で1993-5月には選挙も行われ、1993-9
月シアヌーク国王のカンボジア王国が誕生した。しかし大量のインテリを殺害した
ポルポト派の武装解除には成功していないで現在に至っている。又社会における
インテリ層の欠落が種々の影響を及ぼしている。
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