歴史道楽

 
 

60    満州国の歴史(U)
更新日時:
2004/10/29 
 
[4] 建国後の満州
 1932年4月7日、満州国初の国勢調査を実施、人口は約3400万人であった。同年9月15日日満議定書に調印し、日本は満州国を承認した。ところが同年10月1日にはリットン調査団が報告書を公表し、「満州国建国は自発的な独立運動や、日本の正当な防衛行動ではなく、利権を求める日本軍によってなされたもの」と結論づけられ、満州国は否認された。翌1933年1月15日米国は満州国を不承認とした。同年2月24日にはジュネーブで開かれた国際連盟臨時総会で、満州国からの日本の撤兵などを内容とする勧告案が審議され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択され、、日本代表松岡洋右は議場を退場し、3日後の27日には正式に国際連盟からの脱退を通告した。
 尚同年3月12日には、妥協点を模索する蒋介石は、徹底抗日を主張する張学良を更迭している。
 尚満州国を承認したのは、サルバドル、ローマ教皇庁、イタリア、ドイツ、スペイン、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、国民政府(汪政権)、で更に後に、ドミニカ、ポーランド、内蒙古、ブルガリア、フィンランド、タイ、デンマーク、ソ連が承認し、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ベルギーが領事館を置いていた。
 
[5] 満州国の実態
 建国後、日・満・漢・蒙・朝の「五族協和」とか「王道楽土」などのスローガンが掲げられ、理想国家を目指してインフラ整備や産業開発に日本から積極的な投資が行われた。又満蒙は日本帝国の生命線ということで、莫大な資金投入と共に、数多くの農民が海を渡って入植した。又清朝時代入国を阻止されていた漢民族も、理想郷を目指して大量に満州に流入した。
 中国が主張し、日本でもよく満州国のことを「傀儡国家」と称しているが、新興国は他国の協力、支援、影響を受けるものである。
 日本の敗戦後、満州に残した巨大な遺産を、はじめにソ連、序で国共内戦後中共が取得したが、それでも尚中共の重工業生産の9割を占め、鉄鋼、エネルギー、機械製造、林業、食料基地のトップとして中共を支えてきたという事実がある。それらを食いつぶして中共は改革開放路線をとることになったのである。
 満州が素晴らしかったという事実は、中華思想にとっては耐え難い屈辱であり、従って現在の中国は、満州国をわざわざ偽満州国と称し、あらゆる負のイメージを被せて暗黒の恐怖大陸であったかのように歴史を改竄しているが、いずれ真実が明らかになる時が来るであろう。
 
[6] 満州国の終焉
 1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州を侵略し、悪逆非道な事を行った。同年8月15日日本がポツダム宣言を受諾したのに伴い、同月17日国務院会議で満州国の解体を議決した。そして翌18日、通化省大栗子で、皇帝溥儀は満州国解体と皇帝退位の詔を発して退位式を行い、僅か13年5ヶ月で満州国は満州の地から消滅してしまった。
 同年8月22日、日本へ亡命のため通化を飛び立った皇帝一行は、何故か奉天で捕まり、ソ連へ連行されてしまった。
 その後、満州地区は中国共産党の支配するところとなり、1949年の中華人民共和国の建国と共にその一部となった。長春にあるかつての満州国政府機関の施設はすべて健在で現在も活用されており、ただし偽満州国交通省という如く「偽」を頭に被せている。又瀋陽にある満州事変を記念する博物館は九・一八歴史博物館と称して歴史を改竄した反日教育の拠点としており、江沢民の書いた「勿忘”九・一八”」という石碑があちらこちらにあり、長春の偽皇宮にも置かれていた。「満州」は反日家江沢民の癪の種らしい。
 
 


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