雲南省
現在は中国の雲南省と言っているが、中国の西南端にあり、ベトナム、ラオス、ミャンマー、チベットと接しており、面積は日本より少し広く、人口は約4000万人と言われているが、少数民族の宝庫と言われ、25の少数民族が雲南の台地に暮らしている。
前史時代
この地域の文化は、今から5000年位前に照葉樹林文化として日本にも伝わったということであるが、歴史の遺産として明確な形では残されていないようである。しかし比較的早くから農耕民族として土地にへばりついてきた様子が見られる。その意味でずる賢い中国人というイメージは全くなく、土地を愛し、自然と共に生きてゆく彼等の生き方にほほえましさを覚える。
旧石器時代の3万年前にはすでに昆明の西南にあるさんずいに真と書いた「テン」池周辺に人が住んでいたという。
テン国
紀元前3世紀、楚の将軍莊?が現在の普城あたりに築城し、テン国を建国した。紀元前109年、前漢の武帝は求国王にテン王の印を与えて正式な国家として認めた。
昆明が雲南の中央東部であるのに対し、中央西部にはペー族の町大理がある。ここには4000年前に既に人間が暮らしていたが、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけての戦国時代に黄河流域の中原から大量の移民が流入して人口が増大した。そしてテン国承認と同年に武帝はこの地に葉楡県を設置した。
南詔国
7世紀になると、蒙舎詔(詔は部落の酋長の意)など6つの部族が勢力を競い、その中で蒙舎詔の勢力が強まり、六詔の中で南(現在の巍山周辺)に位置したため南詔と称するようになった。
唐王朝に支持された南詔国は、残りの5つの詔と小さな部族を糾合し、738年に本拠地を大理に移して太和城を築き、皮邏閣王が唐の玄宗皇帝により雲南王に封ぜられた。この時から大理が雲南地区の中心となった。
大理国
しかし937年には段思平が東から大理に攻め込んで城を占領し、南詔国を滅ぼし大理国を建国した。しかし1253年にはフビライが率いる10万のモンゴル軍が雲南に攻め込み、大理国を滅ぼし、大理国は23王318年で滅亡した。そして1276年元王朝は行政の中心地を大理から昆明に移し現在に至っている。従って雲南の中心地としての大理の栄華は500年余りで終わる事となった。尚大理古城内の大理市博物館は、清朝末期、太平天国倒清運動の高まりで、総統兵馬大元帥に推された杜文秀の元帥府のあった所で、やはり漢民族主体の中国ではいささか毛色の変わった地域である。
少数民族
雲南の25の少数民族について詳細に記された書物は発見できなかったが、昆明の南郊にある雲南少数民族博物館には、雲南少数民族簡表という大きな一覧表が展示されている。それによると、テイ羌系、百越系、苗瑤系、百濮系などの出身から、歴史的に秦漢時代、魏晋南北朝時代、隋唐時代、宋元時代、明清時代それぞれ何と呼ばれていたか、現在の族別呼称を中心に更に言語(語系、語族、語支)、文字、人口、分布等が記されている。
これらの詳細を示してもあまり意味がないのでやめておくが、少数民族といいながら1996年の統計値によれば、テイ羌系の彝(イ)族などは423.6万人もおり、中央部から東部にかけて広く分布している。哈尼(ハニ)族は130.6万人、百越系で上座部仏教の敬虔なタイ族は108.5万人いるが、いずれも南部の西双版納タイ族自治州に集中している。又テイ羌系の白(ペー)族は 141.5万人いるが大理から北方の麗江にかけて、大理白族自治州に住んでいる。百越系の壮族も106.4万人いるが東南部に集中している。この他テイ羌系の納西(ナシ)族は28.6万人と少数であるが、麗江の北に集中しており、未だに家事と農作業は女子の仕事で、男子は書画、音楽、将棋、煙草に酒と決まっているそうである。しかも完全な象形文字である東巴文字なども持っており、華やかな染め物など独特の文化を温存している。この他回族(52.4万)、蒙古族(1.3万)、満族(0.7万)などもいる。
最近では文化大革命の時、漢族の多数のインテリがこの地に追放され、労働させられたが、この地の女性との間にかなりの子供が生まれ、現在いろいろと問題になっているとのガイドの話もあった。
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