歴史道楽

 
 

73    日本の宗教学創生期の物語
更新日時:
2004/10/28 
 
 はじめに
 日本における宗教学の歴史は未だ百年を経ていない。しかし世界でも稀に見る多くの宗教を有する国なので、内外の文化の理解にあたり、宗教学の果たした役割は少なからぬものがあり、世界の宗教学に対する貢献も無視できない。このような宗教学が如何にして日本社会に定着するに至ったかを概観してみる。
日本では基督教を始めとする他宗教の研究は、明治初年に至るまでは、何れも「破邪」を目的としてなされたものであった。これには他宗教の比較的研究というものの、結局は自己の宗教に反して他宗教を邪悪視する立場が露骨に出るために、そこからはどうしても客観的なさめた研究は生じがたかった。
 他方明治二十年代は、近代日本の宗教史にとって、もっとも多事な季節であったといえるであろう。いわゆる自由主義神学の渡来、教育と宗教の衝突論争、万国宗教大会、日本宗教家懇談会、比較宗教学会の設立など、いずれもこの期に起こっている。日本の宗教学はこの時期をくぐり抜けて、はじめて社会的に定着するに至ったと見られる。
 
自由キリスト教の渡来
 明治10年代の終わりから明治20年代のはじめにかけて、「自由キリスト教」と称される普及福音教会(明治18年)、ユニテリアン(明治20年)、ユニバーサリスト(明治23年)の三派が渡来し、「新神学」の導入ということでキリスト教界に大きな波紋を起こした。これらの三派には多少の相違はあるが、聖書の歴史的批評という立場に共通性が見られる。
 なかでも最も合理性を重視したユニテリアンは、イエスを神とする三位一体説をとらないこと、人間の原罪を認めず道徳的進歩の可能性ありとすること、聖書を無謬とはしないこと、の三点が特徴である。これに福沢諭吉も後援している。尚日本のユニテリアン協会は後に安部磯雄をはじめとして日本の社会主義運動の中心となる活動を展開することになった。明治44年にはその名を統一基督教会と改名した。又宗教研究の開拓者として寄与し、岸本能武太のような先駆的宗教学者が出ることにもなった。ただ理性と道徳を強調するあまり、ユニテリアンは宗教でなくなるという危険な傾向をはらむものであった。
 ユニバーサリズムの訳語としては「宇宙神教」が採用された。その機関誌「自由基督教」には毎号、その表紙の裏に、宇宙神教徒の信ずるもの十ヶ条と信ぜざるもの五ヶ条が記された。ユニテリアン等との相違は微妙であるが、一時は三派統一を呼びかけたりした。明治42年には日本同仁教会と改称され、大東亜戦中に日本基督教団に合併した。
 自由キリスト教が日本に与えた影響は、キリスト教界に限られることなく、文学、哲学、歴史学などの学術にも大きな影響を与えたし、社会主義思想とその運動にも少なからぬ足跡を残し、仏教にも思想と研究方法の上で影響を与えている。さらに宗教研究に対して大きく寄与し、何人かの日本を代表する宗教学者が生まれた。
 
宗教と倫理の分離と一致
 日本文化の特徴の一つとして、主に江戸期のことではあるが、宗教と倫理の分離が挙げられる。宗教は仏教で代表され、倫理は儒教で代表された。ところが幕末から明治初頭にかけてのキリスト教、特にプロテスタントの流入は、宗教と倫理が一体化した宗教を紹介した。そこで宗教に関しては比較的受容に寛大さを示した日本社会ではあるが、その社会の倫理から強い抵抗に直面した。そして宗教と倫理との関係の論争を契機として、宗教自体への関心、その倫理をはじめとする他分野との相違の認識、宗教の比較的考察が生じ、宗教学の成立に及んだ。
 日本における宗教への関心をもっとも増大させたのが、明治26年井上哲次郎にによって起こされた「教育と宗教の衝突」論争である。 その起因は明治24年1月9日に挙行された、第一高等中学校における「教育勅語」奉読式で、教員の内村鑑三が「天子は神ではないから拝礼しない」という不敬事件である。井上は基督教の一神教的性格が、日本の秩序を乱し、やがては国家としての統合を弱め破るものであると非難した。更にキリスト教が「強き欧州人」の宗教であることも、国粋主義者が基督教を排斥する要因となっていた。
 その後井上は改めて基督教が日本人に必要でない理由として次の3点を指摘している。(1)耶蘇教は東洋最大の徳義たる忠孝を重んぜざる事。
(2)耶蘇教は今日の進歩せる科学の結果と撞着して、その虚妄なるを証せる事。
(3)耶蘇教は教義に於いて仏教に劣るが故に、仏教の行はるる我邦に、新たに耶蘇教を入  るるの必要なき事。
 尚当時のキリスト教が、井上の指摘するように多分自己の宗教のみを真の宗教として宣伝する傾向のあった事は確かであろう。ただし井上も「公平なる立場」ではなかった。
帝国大学での井上の「比較宗教及び東洋哲学」と題する講義は明治30年で終わり、その後は門下の姉崎正治によって明治31年より「宗教学」の名で行われたが、この間宗教と倫理に関して多くの論争が行われた。
 
初の万国宗教大会
 日本の宗教界における明治26年の、前半を賑わせたのが教育宗教衝突論であるとするならば、その後半の主役は、シカゴで開催された初の万国宗教大会であった。これはコロンブス記念万国博覧会の附祭であるが、万国博が人類の物質的進歩を示すものに対して、知的また道徳的進歩を示すものとして種々の大会が行われたものの一つである。その目的は相互の理解を深めることによって、唯物論的考え方に対し、協力してあたる勢力となること、世界の平和に寄与することを目指したものである。
 宗教家懇談会
 日本からは種々議論はあったが、万国宗教大会には、仏教から6名、神道から1名、キリスト教から2名参加し、大会で挨拶したり演説したりした。その結果相互理解に意義があると認められ、万国宗教大会の日本版として明治29年に「宗教家懇談会」が開催された。これはたった一日の会ではあったが、諸宗教が、自己の宗教の完全さと絶対さのみを主張しあっている時は過ぎて、むしろその足らざるを知り、革新しつつ、社会の道徳の面で連動することの必要性を謳っている。
 
比較宗教学会
 宗教家懇談会の席上で岸本能武太と姉崎正治の二人が、諸宗教の比較研究の組織結成をはかったことが、同年11月の比較宗教学会の設立となった。
 岸本は慶応元年の生まれで、同志社を出てからアメリカに留学して宗教学を修め、東京専門学校(後の早稲田大学)や高等師範学校で教えながら、宗教学関係の著作を刊行し、比較宗教学会をリードしてきたが、明治36年、宗教学のバトンをヨーロッパ留学より帰国した姉崎にリレーして、開拓的宗教学者の役割を終え、以後英語学者となった。
 姉崎正治は明治6年京都の真宗仏光寺派の絵所に生まれ、第三高等中学校を明治26年に卒業して帝国大学文科大学哲学科に進学した。種々の刺激をうけて宗教学を学び、明治29年卒業し、ひきつづき大学院に進学するが、同時に雑誌太陽の宗教欄の記者にもなっている。明治31年東京帝国大学文科大学の講師となり、哲学科の二年生に宗教学を講ずることになる。同時に東京専門学校でも比較宗教学の講義を担当した。明治33年東京帝国大学文科大学助教授になると共にドイツに留学することになった。各地を廻って明治36年帰朝したが、ドイツに留学したためにドイツ嫌いになったりした。帰国した姉崎は、東京帝国大学文科大学の教壇に復帰し、翌明治37年には教授となり、さらに明治38年には同大学に最初の宗教学講座を開設して、その担当教授となった。帝国大学に宗教学の講座が開設されたことは、宗教学が市民権を獲得したことを意味し、姉崎正治は「近代宗教学の祖」と言われるようになった。
 
 参考文献:明治宗教思潮の研究−宗教学事始− 鈴木範久著 東京大学出版会
1979年8月25日発行、3.400円 大田図書館162ス
 


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