歴史道楽

 
 

77    江沢民の反日教育
更新日時:
2004/10/28 
 
 中国では1958年毛沢東の三面社旗(社会主義建設の総路線/大躍進/人民公社)が失敗し、1960,1961年の大飢饉で2000万人以上が餓死し、これに対して国民の離反を防止するため、中共の政治思想工作として林彪が「両憶三査」の運動を行った。これは階級苦と民族苦の二つを思い出し、立場、闘志、工作を調べるというもので、特に地主、富農、右派分子、悪質分子を敵として国民の団結を維持しようとするものであった。その後1966年から文化大革命が行われたが、経済的にはうまくいかなかった。
 
 1978年末華国峰からケ小平・胡耀邦に政権が移った。ケ小平は共産主義とは矛盾を孕む改革開放路線をとった。特に1982年に中央総書記となった胡耀邦は、従来の憎しみから協調へ自由主義的改革開放を唱えた。1985年には北京で学生デモが断続的に発生し、1986年には全国規模に拡大した。その結果元老保守勢力の圧力で1987年1月胡耀邦は解任され、1989年4月死去した。これに対して学生のデモ、民主化要求が行われ、同年6月天安門事件が発生した。
 
 胡耀邦の後を江沢民が継いだ。1990年4月ケ小平は引退したが、1991 〜92年、市場経済への移行を遅らせてはいけないと江沢民はケ小平に叱責されている。しかし改革開放は享楽主義、金銭万能主義を生み出し、このままでは共産党の一党独裁が困難視されるに至った。そこで江沢民は、林彪の両憶のうち、階級苦はやめて、民族苦のみとして、目に見える敵から近くにいる敵として日本憎悪教育を愛国主義教育として1994年開始した。 
 1994年6月に中国に弱い村山首相、河野外相の内閣が出現したが、同年8月愛国主義教育綱要が発表され、その第15条は「愛国主義教育の重点は広範な青少年にある」となっており、更に1995年6〜9月には終戦50年記念愛国主義キャンペーンとして中国全土に大々的な反日キャンペーンを行った。これに対して米人ジャーナリスト・クリストフ氏が日本に注意したが、内閣を始め、中国駐在の大使館をはじめ新聞社もすべてこれを無視した。このため一般の日本人が知らぬ間に、中国の特に若い層には嫌日感情が高揚し、特にパソコンのメールなどでは激烈な反日感情が投げつけられているようである。
 
 ケ小平がいなくなって江沢民は我が世の春を謳歌し、1998 年11月訪日の際も日本を小馬鹿にしていて不評を買ったが、おそらく10〜20年後、国民の不満や怒りを日本人に対する恨みや反感に変化させ、党が日本の侵略から中国を救い、党は今尚中国への再侵略を意図している日本への警戒を怠ってはいけないと説き、之により党と国民の間の亀裂を塞ぎ、江沢民は権力の頂点に立ち、共産党支配の中国を資本主義の道に進ませることができたと記すのではなかろうか。
 
 2002年1月22日、クリストフはNewYork Timesに愛国主義キャンペーンは手に負えなくなると再度警告を発している。神道の何たるかも知らず、日本の首相が靖国神社に参拝するのを猛烈に非難するのも反日教育の一環であると理解される。2002年10月江沢民は総書記と国家主席を辞任したが、在任中は小康13年と大いばりであった。
 
 2002年11月28日日本の対外関係タスクフォースは「政府は中国青年層の嫌日感情のもとになっている中国国内の教育のあり方について、中国政府と率直な協議を行うべきである」と敵意の取り除きを進言し、中国国内でも2002年末、人民日報で馬立誠氏が対日関係新思惟を提唱し、人民大学の時殷弘氏が中日接近と外交革命を説くようになった。更に中国は急速に老齢国家になろうとしており、又資源小国となり、農業の不振から都市化を急速に進めなければならなくなり、今や共産主義は全く空文になってしまったので、いつまで反日でごまかせるか時間の問題となってきた。
 
参考文献:「反日」で生きのびる中国−江沢民の戦争   鳥居民著
草思社 2004年2月27日 第1刷発行 1400円+税
 


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