歴史道楽

 
 

78    日露戦争当時の旅順攻防戦
更新日時:
2004/10/28 
 
 一昨年9月、「アカシアの風吹く大連から、ロシアの薫り残すハルピンへ8日間」というツアーに参加し、初日に旅順観光を行った。旅順といえば日露戦争の激戦地であり、特に二百三高地の戦闘で多数の死傷者が出たことは有名である。末尾の参考文献にも挙げているように、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がよく知られており、乃木大将と伊地知参謀長が無能で多数の犠牲者を出し、参謀本部の采配で児玉源太郎が乗り込んで旅順攻略ができたと言われていた。
 
 成田から大連に着いてすぐ、バスで旅順に向かった。現在も旅順の観光はフリーではなく、通常は水師営と二〇三高地だけという。我々もまず旅順港の北にある茅屋の水師営に向かった。ここには日本軍とロシア軍の記念写真などがあったが、明治天皇の指示で敗軍の将を丁重に扱ったということをドナルド・キーンの「明治天皇」で読んだことがある。
 
 そこから西へ二〇三高地へ向かったが、麓で下車して頂上まで登った。途中駕籠かきがうるさく誘ったが、何とか徒歩で上まで登った。ここは昔は老爺山高度二〇六米あったが、激戦で頂上が三米削れて爾霊山と称していた。勿論港はよく見えるし、今なら空から簡単に攻撃できるのにと思った。だがどうしてそんなに激戦になったのかは分からなかった。
 
 ついで南の港の方から旧市街をバスで抜けて、今度は水師営の東にある東鶏冠山北堡塁という所を訪れた。入り口に写真館があり、日露戦争当時の海戦と陸戦の写真があり、旅順の地図の模型もあった。この堡塁は名前も初めて知ったが、トーチカで覆われており、なるほど之では簡単に攻略できなかったろうとは思った。しかしここを見ただけでは旅順攻防戦の全体像はつかめなかった。
 
 たまたま末尾の参考文献を読んで、ようやく旅順攻防戦の全体像がつかめ、司馬遼太郎の説は当時の軍事常識の観点がすっぽりと抜け落ちている作品であると知った。又乃木将軍は無能どころかドイツ語に堪能で、外国では高く評価されているそうで、逆に海軍にあおられた参謀本部が無茶な指令を出していたことも知った。同時に折角旅順を観光しても、ガイドも添乗員も日露戦争の専門知識が全くなかったのは甚だ残念であった。
 
 参考文献は日露戦争前の1877年の露土戦争や日露戦争後の1914〜15年の第一次世界大戦の例も参考にし、当時の軍事レベルを客観的に観察しながら旅順攻防戦の模様を詳細に解説している。その中でかねての疑問に対する回答を示す。
 
 乃木将軍が同じ旅順を10年前の日清戦争ではわずか1日で突破したのに、何故日露戦争では苦戦したのか? 
 理由は単純で、日清戦争の時は外周が城壁で防御されていた。従って1カ所突破すればよかった。ところがその後ロシア軍が要塞を作り、旅順港の周囲25kmに25箇所のコンクリートで固めた堡塁をつくり、その間を塹壕で結び、さらに三重の防衛線を作っていた。従って1ヶ所落とすと逆に周囲から逆襲を食うので死傷者が増え、簡単には防衛戦を突破できなかったということである。
 当時の武器である小銃の性能は日本の方がロシアのものより良かった。しかし旅順を落とすには、より多くの敵兵を殺傷するしかなく、どこを攻めるかではなく、どの地点で効率よく敵兵を殺傷できるかが問題で、現在のヒューマニズムの観点からの批判は見当違いになる。二百三高地は最後の決戦場であって、勿論そこだけで戦闘が行われたわけではなかった。尚旅順の攻略が陸海を通じて日露戦争の勝利に最も貢献したと著者はいう。
 
参考文献:
「坂の上の雲」では分からない 旅順攻防戦 乃木司令部は無能ではなかった
別宮暖朗著 [対談]兵藤二十八 並木書房 2004年3月10日発行1800円+税
 


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