[1]戦後第一期の歴史学(1946〜)
戦後の歴史学といっても、戦前からの実証主義的史学、マルクス主義史学があるが、民間史学は切り落とされた。
*歴史学者には次のようなグループがあった。
マルクス主義史学には次の二派があり、民族派が優勢になった。
国際派:羽仁五郎(日本近代史)、井上清(日本近代・現代史)
民族派:石母田正(日本古代・中世史)、藤間生大(日本古代史)
京都学派:奈良本辰也(日本近世史)、林屋辰三郎(日本中世史)マルクス主義の影響強し
近代主義者:大塚久雄(ヨーロッパ近代史)、丸山真男(政治思想史)非マルクス主義
*研究団体としては次のようなグループがあった。
歴史学研究会:1932年以来で、羽仁クーデターが失敗し、民族派が主流となる。
民主主義科学者協会:マルクス主義者中心で、全国組織は消えたが、京都の歴史部会 などは今でも生きている。1946-01発足
日本史研究会:1946年旗揚げ、京都にできた。
*このころ教科書にマルクス主義史学が影響を及ぼしている。
*民族の文化を守れ、ということで、歴史学−文献史学と民俗学、文化人類学、美術史学、 考古学、文学史学などとの協力関係が盛んになり、次のような団体もできた。
(地方史研究協議会)、(民話の会)、(文化史懇談会)、(伝統芸術の会)、(民族芸術を作 る会)など。
*渋沢敬三が九学会連合で特定地域調査にあたり、その歴史分野を日本常民文化研究所月 島分室で担当し、対馬、能登の漁村の資料を水産庁から委託された。
[2]戦後第二期の歴史学(1955〜)
1955年共産党の六全協で武装闘争の方針が転換され、国民的歴史学運動は退潮し、戦後歴史学の集大成の時期に当たる。
*1953年に発表された安良城盛昭「太閤検地の歴史的前提」が民族派を批判し、中世史 と近世史を明確に二分して注目を浴びた。
*歴史学研究会は次のような統一テーマを掲げ、以後統一テーマを廃止した。
1955 歴史と民衆−変革の主体的条件
1956 時代区分上の理論的諸問題
1957 戦後歴史学の方法的反省
ここで石母田正が実証主義史家に対するマルクス主義史家の批判を自己批判し、両者の 共同戦線を提唱した。
*中世と近世は戦前は武家の時代、戦後は封建社会と言っていたが、いずれも誤りで、中世は家父長的家内労働的奴隷制社会であり、近世は小農民が自立した封建制社会である。
*又中世社会に対して、領主制論と非領主制論との間で論争が続けられた。
[3]戦後第三期の歴史学(1970年代後半〜現在)
*佐藤進一が「室町幕府の官制体系」として主従制的支配権と統治権的支配権という中世 王権の二元制を指摘し注目を浴びた。
中央公論社「日本の歴史」の一部である「南北朝の動乱」は現在でも名作である。他に
「合議と専制」、鎌倉幕府は「東国国家」など注目すべきものを残している。
以上参考文献の著者も戦後すぐ左翼運動にはまりこみ、それを戦後の戦犯と自覚して中世史の研究に入り、14世紀を境に日本は変わったと主張している。
参考文献:「歴史としての戦後史学」網野善彦著 日本エディタースクール出版部
2000-03-01、2200円+T、大田210.01ア
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