歴史道楽

 
 

86    第一次世界大戦後の講和会議に対する批判と提言
更新日時:
2004/10/28 
 
 イギリスの経済学者ケインズは若き日、大戦中に一時イギリス大蔵省に配属され、1919年6月7日まではパリ講和会議で同省の正式代表をつとめた。更に最高経済会議にもイギリス蔵相代理の資格で列席した。しかし講和条件の草案に実質的な変更を試みる望みがもはや抱けないことが明白になった時、彼はこのような椅子から身を引いた。講和条約に対する激しい公憤に胸を燃やし、「未来の世論の形成に本書を捧げる」として、講和条件の批判と改定案を2ヶ月でまとめて「THE ECONOMIC CONSEQUENCE OF THE PEACE」という題名で図書を刊行した。時にケインズは36才であった。
 
 図書の構成は@序論、A戦前のヨーロッパ、B講和会議、C講和条約、D賠償、E講和条約後のヨーロッパ、F救済策となっている。
 
 1870年以前は、ヨーロッパは実質的に自給自足の状態であった。しかしその後50年間人口の急増と共に、ヨーロッパの経済状態は不安定で特異なものと化した。
 
 パリ講和会議の4巨頭会議は、フランス大統領クレマンソーを中心に、イタリア首相オーランド、アメリカ大統領ウィルソン、イギリス首相ロイド・ジョージの4名でフランス大統領官邸で定例会が行われた。
 
 所が講和条約には、ヨーロッパの経済的復興のための条項が一つとして含まれていない。中央ヨーロッパの敗戦諸帝国を友好的な隣人にするための条項も、ヨーロッパ新生諸国の安全をはかるための条項も、ロシアを矯正するための条項も何一つ含まれていない。また連合国自体の間の経済的連帯に関する取り決めを促進するものでもなく、フランス、イタリア両国の混乱した財政金融を立て直す協定や新旧両世界の体制間の調整をはかる協定が、パリでは一つも成立しなかった。
 
 クレマンソーは敵国ドイツの経済生活を粉砕することに、ロイド・ジョージはうまく取引して、1週間で、要求される程度に達するようなものの獲得に成功することに、ウイルソンは公正でないことは何一つしないでおくことに、それぞれ気を取られていた。彼らの眼前で餓え、崩壊しつつあった、一つのヨーロッパの根本的な経済問題が、四巨頭の関心を引き得なかったのは驚くべき事実であった。経済分野で足を踏み入れたのは賠償で、それを神学、政治、選挙目当てのはったりなどの問題として取り決めたのであった。従ってドイツの支払い能力とのバランスを欠いた賠償請求となってしまった。
 
 ケインズはベルサイユ講和条約が効力を持ち続けることは不可能であると考え、対案として次の四項目を討議するよう提案している。
 1.講和条約の改訂:賠償と、石炭及び鉄と、関税の3項目で、要するにドイツの産業           生活の継続を可能にして、講和条約の完全実施をはかる。
2.連合国相互間の債務精算:戦争目的の連合国相互間の債務を全額棒引きする。
 3.国際借款と通貨改革:ヨーロッパの輸入超過、逆為替、通貨の混乱に対処する。
4.中央ヨーロッパの対ロシア関係:地理的にドイツにまかせる。
 
参考文献:「講和の」経済的帰結」J.M.ケインズ著 救仁郷繁訳 ペリカン社
1972年2月10日初版第1刷発行 大田図書館333ケ
 
 この図書は「いま大人に読ませたい本」で谷沢永一が必読書として第一に推薦したものである。第一次世界大戦の前後のヨーロッパの状況がよく分かるが、アメリカはこれを教訓に大東亜戦後、日本を二度と立ち上がれぬよう精神面で洗脳工作をしたのは賢明であったと感じた。又イギリスはヨーロッパ大陸の事情にうといということも指摘されていた。
 


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