大東亜戦争の戦局も不利になった昭和18年11月、東京で大東亜会議が開かれ、日本、満州、タイ、フィリピン、ビルマ、中華民国汪兆銘政権、インドの各代表が参加し、大東亜共同宣言が発表された。これを戦勝連合国は茶番劇と片づけたが、その裏付け調査を行って、深田祐介は末尾の参考文献に示すように、あらためてその意義を強調している。
日本には明治以来、東亜(日・満・支)共栄の思想はあったが、これに東南アジアを加えた大東亜共栄の考え方が出てきたのは、昭和15年7月東条英機を陸相とする第二次近衛内閣ができ、基本国策要項として大東亜新秩序、国防国家の建設方針を掲げたのが最初のようである。
昭和16年12月8日日本は米英両国に宣戦布告したが、12月12日の閣議で戦争の名称を支那事変を含め「大東亜戦争」と決定した。更に 昭和17年1月21日東条首相は議会で大東亜共栄圏建設の指導方針を表明、大東亜宣言と称された。
しかし宣戦の詔勅にも示されているように、大東亜戦争は自存自衛の戦争とされており、これは戦争の動機ではあるが、目的とは言い難かった。そこで戦後まで考えて重光が提言し、東条がこれを具体化したのが、前述の昭和18年の大東亜会議である。
大東亜会議の出席者は、東条首相をホストとして、満州国張景恵総理、中華民国汪精衛院長、タイ国ワンワイタヤコーン殿下、フィリピンのホセ・ペ・ラウレル大統領、ビルマのウー・バー・モゥ首相、自由インド仮政府首班としてチャンドラ・ボース氏が加わった。
深田氏はこれら出席者一人一人の波乱の人生をその死に至るまで調査し、同時に彼らと日本を結ぶ陰の人材を見つけ出して取材しており、極めて興味深い物語を形成している。以下そのうちの一部の話題について触れるが、詳細は是非参考文献を一読されたい。
戦後、バー・モゥは、「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」と「ビルマの夜明け」で述べている。この誤解している諸国民の中に「日本国民」自身も含まれている所に、戦後日本の悲劇がある、といえそうである。
又参考文献はイギリスやオランダのアジア植民地に対する圧政について強調しており、今の日本人がそれを知らないばかりか、植民地政策で最も優れていたのは日本ではないかと思っていると述べている。たしかにジャカルタのコタの博物館にはオランダの残酷な圧政の証拠が残されている。又イギリスもオランダも絶対に謝罪要求に応じない。これはアジアのどこに行っても見当違いの謝罪をする日本の政治家とは対照的であるとしている。
インドのチャンドラ・ボースは重慶の国民政府にラジオで「君たちはアジアの敵と組みアジアの見方と戦っているのではないか」と語りかけたそうであるが、残念ながら重慶では理解を得られなかった。今でも大東亜共栄圏で大局を理解出来ず、日本に対して反抗的なのは中国と北朝鮮、それに韓国の一部であろう。 その他、満州国は親日感情を残したし、戦後ラウレルが賠償交渉をリードし、バー・モゥが対日平和条約を先駆け、マハティールが親日的なのも大東亜会議の余波である。ただ戦時中一部の現地軍が日本の理想を理解できず、彼等を痛めつけて失望感を味わせた事もあったようである。
参考文献:「大東亜会議の真実」深田祐介著 PHP新書294
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