[はじめに]
去る5月22日から6月5日にかけて、ユーラシア旅行社の「ドイツ北東部歴史物語15日間」というツアーに参加した。添乗員つきで同行者は24名であり、高齢で旅慣れた人が多かった。留守中に発生した雑用の処理から今回の旅行に関する写真や記録の整理に手間取り、併せて体調を少し崩してしまったので、いつもならすぐ書ける印象記が大変遅れてしまった。ただ従来にない中身の濃い旅行であったので、詳細は旅日記として異文化探訪記に連載中であるが、こちらにその概要の紹介を試みる。
[1] 今回の旅程
往復15日間、正味12日間で、ドイツ北東部の19都市を廻った。まず飛行機で成田からアムステルダム経由でハンブルグに入り、以後一人2席でゆったりとした大型バスで約2,200km都市間を走り、市内は原則として徒歩で観光した。ハンブルグ→リューベック→ハンブルグ→ブレーメン→ツェレと主としてエリカ街道を、続いてハーメルン→ゲッティンゲン→ハン・ミュンデン→カッセルとメルヘン街道を南下し、更にフルダ→バンベルグと南下し、古城街道でバイロイトを往復し、フルダまで北上してゲーテ街道に戻り、アイゼナッハ→エアフルト→ワイマール→ライプツィヒと東進し、マイセン→ドレスデンと廻ってベルリン→ポツダム→ベルリンに戻り、そこから飛行機でアムステルダム経由成田に帰ってきた。今までハンブルグ、リューベック、ツェレ、ベルリン、ポツダムと初めの部分と終わりの部分は何回か訪れているが、中程の14都市は今回が初めての訪問であった。
[2] ドイツの地理と歴史
エリカ街道、メルヘン街道、古城街道、ゲーテ街道と廻っている間に、ドイツの地理に大分親しんでしまった。ドイツは一般に人口が分散しており、あまり大都会はないが、人口数万の小さな町でも、何らかの特色があり、又それを売り物に観光客を集めている。今回の旅程でもハン・ミュンデンとかフルダ、アイゼナッハ、エアフルトなどという町の名は以前には馴染みがなかったが、行ってみるとそれぞれ特色があり、歴史上も一定の位置を占めていることがよく分かったが、何より町全体が非常に綺麗であった。
又今回のツアーに「歴史物語」の名前が付いているだけあって、従来ヨーロッパの歴史として漠然としか把握していなかったドイツの歴史について、あらためて正確な認識を余儀なくされる羽目となった。といって別に困ることはないが、森の民ゲルマン民族の移動に始まり、(今でも結婚式後の初仕事は鋸で薪をひくことである。)フランク王国、東フランク王国時代のキリスト教の導入、神聖ローマ帝国末期の18世紀からドイツ統一への過程の19世紀にドイツ芸術の花が咲き、文学のゲーテ、シラー、グリム兄弟、音楽のバッハ、ワーグナー、ベートーベン、ブラームス、メンデルスゾーン、絵画のクラナッハなどが輩出し、宗教改革のマルチン・ルターと共に今でも彼等が観光の目玉になっている。
又どこの町でも中心にある市庁舎と教会の建物が、ゴシック、ルネッサンス、バロックと時代と共に変わり、改築の度に変化しているのが見られる。
[3] 最近のドイツの食事
ドイツではビールにしてもワインにしても飲み物には文句のつけようもない。ビールは昔は泡を手で払っていたが、今は液状部分が定量に達するよう自然に泡が消えるのを待っているので、注文してから持ってくるまでの時間が長くなった。又ホテルの朝食は6:00からが殆どで、ビュッフェスタイルでアメリカ式になり、昔のようなコンチネンタルスタイルは姿を消した。つまりパンとコーヒー以外の飲み物や食べ物など大抵のものがあるようになり、大変贅沢になった。特に乾燥肉やソーセージの味はよい。問題点は口蹄疫問題から牛肉が食べられないことで、一時的とは思うが、肉類は豚か鳥、後は魚となる。もともとドイツ料理はそれ程評判の高い料理とはいえないが、仔牛のカルプシュニッツェルなど昔は結構楽しんだものであるが、今回はなくいささか寂しい思いがした。ただ少し不思議に思ったのはスープ、メイン、デザートとありながら、黙っているとパンが出てこない。習慣が変わったのか、日本人が少食なので旅行社が食事代を合理化したのかよく分からなかった。尚朝食以外、食後のコーヒーも注文しないと出てこない。
[4] テレビのニュース
以前はパソコンの代わりにモバイルギアを持ち歩いていたが、面倒くさくなったので今回は手ぶらで出かけ、ホテルでは注意してテレビのニュースを見るようにしていた。どこでもチャンネルは沢山あるし、ドイツだけでなく、アメリカのCNNやイギリスのBBCもあったが、僅かに特集で日本のバイクを扱った番組があったが、日本のニュースは殆ど流れていなかったと思う。確かに帰国後新聞を見ても大事件はなかったが、やはり欧州から見ると、日本は我々が考えている以上に遠いのではないかと感じた。IT技術の発達などで世界は益々狭くなっているというのに、かつての大東亜戦争をイギリスは極東戦争と呼んでいるように、ドイツに限らずEUの連中からみると極東とは地の果てという感覚らしい。
[5] 東西ドイツの統一
日本は戦後既に半世紀以上経過したが、ドイツは戦後東西に分裂し、従って講和条約もなく、冷戦終結してようやく東西合併したが未だ10年あまりである。合併直前には西独1マルクが東独の銀行で6マルク、闇で10マルクと交換された。それをコール元首相は1マルクだか2マルクだかで合併したので、随分無茶するなあと思っていた。果たして西側納税者には東側援助のための負担感が感ぜられ、東側では未だに道路がガタガタであったり、裏通りではまだ廃屋が野ざらしになったりしていて、まだ完全に東側が西側に追いつく所までは回復していない。新首都ベルリンでも、新しい官庁の建物は幾つか造られているが、計画通りに完成したのかどうか分からず、議事堂前広場などはまだ整備されていない。
[6] 観光と地方自治
各都市や街道ごとに観光には相当に力を入れており、しかも物語にあふれ、芸術家や宗教家の有名人の銅像やら記念館、博物館があちこちに出来ていて、極端にいえば食傷気味になる位である。今回のルートでは、メルヘン街道のグリム兄弟、ゲーテ街道のゲーテをはじめ、あちこちで活躍したバッハ、ワーグナー、マルチン・ルターなどしばしばお目にかかった。
又ハンブルグ、リューベック、ブレーメンなどの自由ハンザ都市、さらにブレーメンの音楽隊、ハーメルンの笛吹男、ゲッティンゲンの鵞鳥娘、ハン・ミュンデンの鉄ヒゲ博士など町を挙げて特色づけている。フルダの領主僧正、バイロイトの祝祭歌劇場、バンベルグの騎士像、アイゼナッハのヴァルトブルグ城、エアフルトのクレーマー橋と大聖堂、ワイマールのゲーテハウス、ライプニッツのバッハが27年間働いた聖トーマス教会、マイセンの国立磁器マニファクチャー、ドレスデンのツヴィンガー宮殿、ベルリンのブランデンブルグ門とペルガモン博物館、ポツダムのツェツィリエンホフとサンスーシ宮殿といった具合に、それぞれの都市が特徴ある見せ物を持っている。
もともとドイツが近代国家に統一したのは明治維新の3年後であり、地方自治の伝統が強いが、これからの時代には日本もドイツを見習って地方の自治・自立が重要になると思われる。尚環境面でも学ぶべき点が多々ある。
[7] ドイツの物価と風俗
今回は休日が多かったこととあまり買い物をする機会がなかったので、物価について詳しくは分からなかったが、食べ物は日本より多少安いかなという感じであった。ドイツ在住の日本人ガイドによれば、衣食住の衣と住はかなり安いと言っていた。ドイツ人は皆よい体格をしていたが、あまりごつい感じはなくなり、街角でもホテルでも観光客としての居心地は上等の部類であった。文字としてのドイツ語が分かるに越したことはないが、言葉では英語でもかなり通じるようであった。
[8] 記憶と写真
観光旅行にもいろいろあるが、ガイドブックに載っていない所まで廻ると、あとで記録を整理する段になって記憶が怪しくなってくる。特にバスを降りて歩いた所は比較的よく覚えているが、車窓から見聞したことは案外覚えていない。そのような場合に写真は有力な武器となる。特にデジタルカメラはあとから画像処理が可能なのと、スマートメディアで大量撮影が可能なので、普通のカメラよりはるかに便利であることが実証された。又画質を当初HQに指定していたが、SQでも画像にはあまり差がないので、今後はSQの指定にして、記憶すべきことはすべて撮るようにしたらよいと感じた。今回は359枚撮影したが、結果としては残念ながら大分撮影の機会を逃していた。(おわり)
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