コラム


19    農村の今昔
更新日時:
2001/08/15 
 8月13日、叔母の葬儀で群馬県渋川に行き、葬儀に参列した。葬儀といっても、まず叔父の自宅で葬儀及び告別式が行われ、式後遺体と共に車で郊外の焼き場に行って火葬し、この間約1時間半接待所で待機し、骨を骨壺に入れてから天台宗の真光寺へ行って初七日の法要を行い、その後叔父の自宅に戻ってお清めとなり、現地だけで約7時間の長丁場であった。その後東京の自宅へもどったが、往復をいれると約13時間になる。
 
 もともと今から57年前、戦争末期の昭和19年、当時浦和高校の2年に進級したばかりであったが、春休みの合宿訓練でチフスに感染し、伝研に2ヶ月絶食入院した後骨と皮になって休学することになり、渋川の叔父の家の離れに住まわせてもらい、10ヶ月ばかり療養がてら叔母に食事などの世話になったことがある。(更に末弟が疎開でやってきて同じ部屋に寝起きし、終戦まで地元の中学に通っていた。)
 
 いつもは車で行くが、今回はお盆で混雑しているので列車で行くことにした。上越・長野共に新幹線ができたばかりに、東京或いは上野から渋川への直行便は殆どなくなり、東京から高崎まで新幹線で、高崎から上越線か草津の方へ行く便を見つけて乗り継ぐのが普通になり、帰りも同様とにかく高崎へ出て、新幹線を見つけて帰るのが当たり前のようになり、自由席と雖も運賃は結構高くつくことになった。
 
 戦時中は群馬郡豊秋村大字石原字田中と称していた。今は渋川市に編入されている。国鉄はJRとなり、渋川駅到着直前には列車の窓から田圃の先に田中の部落が見えたが、今は高架道路ができたり、中央病院やらいろいろな住宅ができてしまって全く見えなくなってしまった。更に渋川駅周辺には何本も大きな道路ができてしまい、大体の方角は分かるが、どの道を行けば近道か全然分からなくなってしまった。一面の田畑にあちこちと建物が建ち、様子がすっかり変わってしまったからである。
 
 火葬場も最近新しい綺麗なものが広域でできたそうで、素晴らしい設備であった。更に駅周辺にはレストランが何軒も出来ていて、メニューを覗くと結構な値段のものが多く、そのくせ子供連れでどこも賑わっている。農家も高齢化し、それ程他に魅力的な産業があるわけでもないのに、一般に東京より裕福な感じがするのは行政サービスのおかげであろうか?
 
 葬儀の参列者も高齢者が多かったが、多数の親戚縁者の他、隣組とか地域の何とか同好会とか、さすがに地域社会は相変わらず農村部では未だに濃密である。東京では地域社会はほぼ崩壊してしまったが、農村部は田畑を抱えているだけに、やはり人の出入りは桁違いに少ないのであろう。叔父も看病している間、近くの親戚などに雑草とりなど結構やって貰ったと話していた。
 
 祖父から数えて今や3代目から4代目の世代となったが、今回はいろいろな親戚や近所の方に会い、話をする機会があった。特に隣家の当主など57年ぶりであり、私の高校時代のマント姿の悪評を今頃聞かされて、いささか面映ゆかった。又中村の本家の当主とも初めてなのに、先方から名前を呼ばれてお礼を言われたのには面食らった。以前に手紙でだけ交流があったのを思い出した。叔母方の親戚とも初対面の方が多かったが、一度系図ででも関係を整理してみないととても覚えきれるものではない。叔父も84才であり、子供がいないので、今後のことを考えるとその内いろいろと手を打つ必要があるように思われる。
 
 昔は農村部の地域社会は狭くて息苦しい感じがしたものである。東京のように全く地域社会が崩壊してしまったのも問題であるが、まだ昔のまま踏みとどまっているのも今の老人世代までで、その後はやはり人間関係が希薄になってしまうような予感がして何となく寂しさを感じた。


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