コラム


57    ドナルド・キーンと明治天皇
更新日時:
2002/12/16 
 
 2002年11月の学士会午餐会の講師はドナルド・キーン氏であった。名前は知っていたが、どんな人かよく知らなかった。団藤理事長の紹介によれば、1922年ニューヨークに生まれ、コロンビア大学、同大学院、ケンブリッジ大学を経て、戦後53年に京都大学大学院に留学、現在コロンビア大学名誉教授、アメリカ・アカデミー会員、日本学士院会員で、日本文学、日本文化の研究とその海外への紹介に対し、勲二等旭日重光章、文化功労賞の他、各種文学賞などを受賞している。特に戦時中源氏物語に出会い、戦後京都大学に留学し、25年かけて古代から現代に至る「日本文学の歴史」18巻を完成したという。
 
 勿論我々に対する講演は立派な日本語であり、一年の半分以上は日本で暮らしているそうである。文学史がライフワークであったが、まだ生きている証拠に誰かの伝記を書こうと思い、作家では文学史の延長の様なものなので、思い切って方向を変えて明治天皇の伝記にしたという。新潮社の編集者から明治天皇御集上下二巻が送られてきたが、更に「明治天皇記」全十三巻を買って調べたりして、明治天皇の伝記を中心とした明治時代史を書いたのが「明治天皇」上下二巻である、というような話を聞いた。
 
 そこで早速例によって大田図書館に行って調べたら、在庫があり、浜竹図書館のものを借り出した。手にしてみて驚いた。一冊が定価3200円で普通のA5版の本より一回り大きく、1頁は22行で、1行は50字。上巻が566頁で下巻が582頁もある。従ってざっと計算して百万字以上ある。しかも日本文学の歴史ではないが、参考文献が和文で実に313件、欧文でも103件あり、きっちりと出所を示して解説が付いている。しかも序章、終章の間に第1章孝明天皇から第62章乃木希典の殉死まで62も章があり、各章1年乃至2年の出来事を網羅している。尚明治天皇が即位して明治と改元するまでに17章を費やしている。このように極めて緻密な文章なので、ざっと読み流すこともできず、根気疲れしながら丸1週間以上かかってようやく読み終えた。
 
 ただ「明治天皇」は目次がよく出来ており、年代順にその年の主な出来事が章の主題となっており、例えば明治4年の第22章は「藩ヲ廃シ県ト為ス」と廃藩置県を謳い、それを含めてその章の主な内容8件が例示されている。従って厖大な内容をすべて網羅することは難しいが、目次に年代を付記すると明治の歴史が大体分かるようになっている。日本人が書かなかったことをよくもアメリカ人が書いたものだという気はするが、鎖国から開国に至る大変革の歴史として、できるだけ多くの方が一度読んで見られることをお勧めする。
 
 従来断片的には明治の歴史を知っているが、「明治天皇」を読むと、今までの知識には随分と穴があった事を痛感させられる。その中でも印象深かったことを若干付記する。
 
 明治天皇の父君孝明天皇については殆ど知識がなかったが、当時の歴代天皇は概して短命で、孝明天皇も10才で皇太子となり、17才で即位しているが、徹底的な外人嫌いからくる強烈な攘夷論者であったようである。従って幕府の開国政策に朝廷は猛反発したようである。又孝明天皇は明治天皇に和歌を指導そうであるが、そのような環境から明治天皇はよくぞ開国の明治維新を乗り切ったものと感じた。
 
 とはいえ孝明天皇も35才で亡くなり、明治天皇が元服し、即位の礼をとった慶応4年(1868年)は数え年で16才であった。これから西郷隆盛が賊臣となる西南の役のあった明治10年までの10年間は、天皇が未だ若く、昔からの公家と維新後天皇の近くに侍った旧士族の助けによって、明治維新と称する大革命を乗り切ったものと思われる。
 
 明治天皇のご活躍は寧ろその後であったと思われるが、その根底には明治4年に早くも天皇の侍読に任命された儒学者「元田永ザネ」の教育の成果が大きかったと思われる。明治45年に61才で亡くなられるまで、徹底的に「君主」であり、その「公」への奉仕を徹底し、「私」的生活を極度に圧縮してこられた姿には、今更ながら敬服の至りである。昭和天皇には、昭和55年10月に東芝那須工場にお迎えした折り、約40分間ご案内役を務め、種々下々とは全く発想の違うご質問に遭遇したが、今考えてみるとやはり明治天皇の血を引かれていることを実感した。
 
 明治時代に活躍した政治家は、一部の公家以外士族出身の政治家や軍人が多かった。彼等は勿論極く一部のエリートであり、大久保利通を初め暗殺されたものも少なくなかった。それだけ命を張って仕事をした点、現在より遙かに環境は厳しかった。又政治の混迷に対し、天皇のリーダーシップも目立つようになってきた。憲法が発布され、帝国議会が開設されたのは明治23年であるが、薩摩・長州の藩閥政治が修了し、大隈・板垣の政党内閣ができたのは明治30年になってからであり、しかも僅か5ヶ月くらいで挫折してしまった。このような面からみると、明治時代も日本人は近代政治に馴染んでいるとはいえず、今日に至るも尚政治家と国民共々にレベルが低いという実態を認識せざるを得ない。
 
 今年の秋満州を訪れ、旅順の水師営で日露戦争の敵将ステッセル以下が帯剣のまま乃木将軍以下の日本軍幹部と一緒に写真に写っているのをみて、何となく不審に思っていた。ところが「明治天皇」第45章「旅順虐殺ヲ目撃ス」によれば、明治27・28年の日清戦争でも、旅順口は世界三大要塞の一つとなっており、日本軍がここを撃破し占領した際、「虐殺」が行われたと外国人特派員が目撃し、これを報道したため海外で日本軍の評判を著しく損なったということがあったそうである。明治天皇はこれを覚えていて日露戦争の際には、敗軍の敵将に特に帯剣を許可する旨指示したそうである。このため上記水師営の記念写真ができたのであると初めて納得が行った。
 
 以上、明治天皇は優れた君主であると共に、その治世が長く、その間に日本が世界の奇蹟といわれるような大変貌を遂げるのを可能にしたという点で大帝と称されて然るべきであろう。アメリカとロシアによる開国要求に始まり、大政奉還で徳川幕府から天皇親政に戻し、内政を固め、頑固なイギリスの主張する不平等条約を改正し、国運をかけて日清戦争、日露戦争を戦い、遂に韓国を併合し、清国王朝が最後を迎える頃、枢密院臨御で「坐睡両三回」の後重体となり、明治45年7月30日午前0時43分明治天皇は崩御された。その時代環境をよく意識しながら、明治時代をあらためて学習できたことは甚だ有意義と感じた次第である。
 
参考文献:「明治天皇」上・下 ドナルド・キーン著、角地幸男訳、新潮社、01-10-30刊


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