異文化探訪記


Sunday, 9 December,2001    文明の十字路シチリヤ・マルタ10日間旅日記その1
[旅行概要]
 
 実は今年の秋は今まで行ったことのない地方ということで、東アフリカから南アフリカへ出かけてみようと、いろいろと準備していたが、たまたま9月10日の国際テロの発生で、外務省により危険地域に指定され、申し込んでいたツアーはキャンセルされてしまった。その代わりにヨーロッパでもまだ行ったことのないシチリヤ島とマルタ島のツアーに切り換えて11月23日出発し、12月2日帰着した。
 
 東京からミラノまで直行し、ここで乗り換えてシチリヤ島の首都パレルモに入った。予想外に飛行機は混んでいた。パレルモはシチリヤの西北海岸にあるが、ここから左回りで西海岸に出て南下し、南海岸に出て東へ向かい、中心部に寄ってから東海岸に出、今度は北上するという具合に名所旧跡を巡った。6日目の11月28日夜東海岸のカターニアから飛行機でマルタ島の首都ヴァレッタに渡り、翌日はマルタ本島、翌々日の11月30日にはフェリーでゴゾ島を往復し、やはり名所旧跡を観光し、12月1日マルタ島からローマ経由で帰国の途につき12月2日無事成田に到着した。
 
 例によってユーラシア旅行社のツアーに参加し、同行者は16名であったが、概して高年齢層が多く、又旅行マニアが多かった。かなりの強行軍であったので、帰国後は相当に疲労感が残った。しかし出かけてみるといつものように種々の新知識が仕込めるのが楽しみである。
 
 まず第一に文明の十字路と称するだけあって、ギリシャ、フェニキアから始まり、ローマ、アラブ(イスラム)、ノルマンと異文化が混淆し、シチリアでは西欧各国の王室が交互に君臨し、1860年ガリバルディによってイタリア王国の一部となった。マルタでは十字軍以来の聖ヨハネ騎士団がロードス島から引き揚げてきて根を生やし、イスラムの来襲には勝ったが、やがてナポレオンに敗れ、イギリスの援助を求め、1964年に独立した。
 
 シチリアではマフィアが有名であるが、旅行中は殆どその気配を感じられなかった。むしろ神殿やギリシャ劇場跡などが各地にあり、ギリシャ本国より完全な形で残っている。又モスクと教会が融和している。教会は沢山あり、カトリック系が主で内部は豪華絢爛たるものが多かった。人口はパレルモが90万人、第2位のカターニアが37万人で、その他は殆ど10万人以下である。住民の特徴は私よりも背が低い者が多く、老人が町中でぽつんと立ち止まっている姿が多かった。島内のエトナ山は3340mあるが、その他は750m以下であまり高い山はないが、全くの平地も少なく、田畑も傾斜地が多い。しかし田畑で人や動物を見かけることは滅多になかった。産業としては農林漁業、観光業、石油化学の順だそうである。食事ではパスタに特色があるだけで、現在狂牛病で牛肉がないため、味の面では今一であった。
 
 マルタも感じはシチリヤに近いが、現在本島35万人、ゴゾ島2万7千人の小人数ながら独立共和国であり、観光業、造船業、農林漁業で生きている。人種的にはシチリヤと区別がはっきりつかない。しかしシチリア同様カトリックで離婚率が極めて低く、シチリヤの街がゴミで汚れているのに対し、マルタは清潔で、泥棒もいないらしく、家の鍵を玄関に放置している家もあった。又遺跡の面ではエジプトのピラミッドより古い巨石神殿があり、海岸には奇岩も多く、ヨハネ騎士団の影響で教会の中は誠に素晴らしく、恐らく欧米でもトップクラスではないかと思われる。食事は洋食としてそれ程特色は掴めなかったが、ワインはよく飲む。大抵1リットルのボトルかせいぜい半分の0.5リットルで、この点はシチリヤも同様であった。尚マルタではマルタ語と英語が公用語であり、マルタはモルタと聞こえ、発音が難しくて案内書の土地名は間違いが多いことが分かった。
 
 

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