異文化探訪記


Monday, 7 October,2002    大連からハルピンへ8日間(その2)
[旅順]
 
 第1日目成田の出発が40分遅れたが、定刻10分遅れの12時45分無事大連周水子国際空港に到着した。日本とは時差1時間あり、飛行時間は丁度2時間30分であった。
 添乗員は若い女性の白石さんで、空港にはスルーガイドの倪さん(女)と大連・旅順のローカルガイドの唐さん(男)が待ち受けていた。予定では大連の市内観光であったが、明日の午後の瀋陽への列車が早くなったので、急遽予定を入れ替えて本日は旅順を観光することにした。旅順は現在は大連市旅順口区となっているが、軍港なので外国人の観光はオープンではなく、通常は水師営と203高地だけで、その他は現地の旅行会社やホテルのツアーでないと行かれないと地球の歩き方には書いてある。
 
(水師営会見所)
 13時30分バスで大連空港を出発して約40分、日露戦争で乃木将軍とステッセル将軍が会見したことで知られている水師営会見所を訪れる。旅順口北部7km位の郊外の畑の中にぽつんと建っている。木製の門柱に会・見・所と書いた板を張り付けたような粗末な入り口の奥に、屋根から草がぼうぼうと生えている納屋のような建物がある。右半分が日本軍、左半分がロシア軍の控え室と書いてあり、薄暗い部屋の中に裸電球が吊り下げられており、両軍の幹部やステッセルが乃木将軍に白馬を送ったなど当時の記念写真が飾られている。実際の会見は1905年15日であった。
 
(203高地)
 ついでやや西南の緑の山の203高地に行く。名前の由来は206mあった山が日露の激戦で203mになったからというが、元々は老爺山という。乃木大将の次男が戦死してその魂が眠る事から爾霊山(中国語のニ〇三と発音が似ている)と名付け、砲丸を再鋳造した巨大な記念塔を建てた。当時日本軍の死傷者は17,000人余出し、乃木大将と伊地知参謀長の評判が悪くなったが、実はその10年前の日清戦争当時、当地で乃木少将は1日で清軍を破った実績を買われたものらしい。ただ相手が変わり、ロシア軍はなかなかの難敵であった。
 最初は山の上まで車でいけるものと思っていたが、麓の駐車場から山道を徒歩で登ることになった。篭屋が大勢いてうるさくつきまとわれたが、誰も乗らないので皆の後について登ったが、初日でもあるし、独りではとても登る気がしない坂道でしんどかった。
 多少霞んではいたが、頂上からは旅順港がよく眺められ、又売店もあちこちにあった。しかし僅かこれだけの山に大苦戦したのは、当時は空軍がなかった為かなと想像した。
 
(旅順口市街)
 次の目的地に行く途中、わざわざ旅順口市街地をバスで迂回し、いろいろな施設の説明を受けたが、バスで止まることができず、写真もとれなかったので、結局殆ど記憶に残っていない。ただ人口は21万人で、名前が有名な割に思ったより小さな町であった。
 
(東鶏冠山北堡塁)
 旅順口の中心部の西北に203高地があるが、北の水師営を中心に対称的に東北方向に東鶏冠山北堡塁がある。実はこの名前は今まで知らなかったし、地球の歩き方にも出てこなかった。入り口の写真館には日露旅順海戦展示室と日露旅順陸戦展示室があり、真ん中に旅順口の地図の模型が置いてあり、旅順港封鎖の模様なども見られた。
 東鶏冠山北堡塁とはロシア軍が4年かけて構築したコンクリート製トーチカであり、大砲でトーチカの指揮所を打ち崩したり、地下道を掘ってトーチカを爆破したり、日本軍が散々苦労した激戦場の跡である。未だにトーチカ側面の爆破された跡などが生々しく残っている。
 中でも印象的だったのは、東鶏冠山北堡塁の記念塔の近くにロシア軍旅順陸上防衛司令官の猛将コンドラチェンコ少将の記念碑を日本軍が建てていることであった。敵ながら天晴れという武士道精神とも言えるし、当時の戦争はそれだけ余裕があったと言えるのかも知れない。
 
 以上で日露戦争の史跡巡りを主とした旅順の半日観光を終わり、又40分かけて17時30分大連のホテルに到着し、チェック・インした。 
                  (つづく)
 
 

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