8.日本との歴史的関係
*日本軍戦没者慰霊碑
ミャンマーにはパゴダはあっても個人のお墓や慰霊碑はない。しかし大東亜戦争で亡くなった日本軍の戦没者慰霊碑が、我々の訪問先だけでも、メッティーラ、バガン、サガインにあり、更にバゴーのシュエモードパゴダには、ここで亡くなった鈴木さんの遺族が鎌倉大仏を建立・寄進している。いずれも大事にされているが、東南アジアでも珍しい事だと思った。実は一般的に親日的である裏には、私も余り知らない歴史が隠されていた。
*日露戦争
英国統治下の植民地時代、日露戦争での日本の勝利によって、当時、白人に勝てるアジアの国があることがミャンマーの人々を奮い立たせ、当時日本に滞在していたウーオッタマ僧正が、帰国後英国からの独立を目指して運動を開始したのが青年仏教協会の反英独立運動であった。
*南機関
1939年、日本軍は泥沼化する支那戦線で援蒋ルートを分断すべく、陸海軍協力して対ミャンマー工作を進める事になり、参謀本部直属の「南機関」が正式に発足した。南機関は鈴木大佐(バゴーの鎌倉大仏の寄進者鈴木さんではないかと思うが未確認)の指揮のもと、独立運動の中核となるミャンマー青年30人を日本に集め、武装蜂起に必要な軍事訓練を行い、資金と武器を与えた。この時の30人が「30人の志士」と呼ばれ、後のミャンマーで軍事、政治、経済界でリーダーとなった人々である。
*ミャンマー国軍の創設
南機関の訓練は、海南島、台湾で進められた。1941年12月8日の大東亜戦争勃発時にはバンコク周辺で待機していたが、直ちにビルマ独立義勇軍の募兵が始まり、28日には宣誓式が行われ、ミャンマー国軍の創設記念日としている。ビルマ独立義勇軍は日本軍と共に侵攻し、翌年3月28日に首都ラングーン(現ヤンゴン)を占領し、その後も各地で義勇兵を集めながら全土を解放した。
*士官学校の設立
ビルマ独立義勇軍は、その後ビルマ防衛軍、ビルマ国軍と改称すると共に、軍幹部養成機関として士官学校を設立した。教員は日本軍将校と下士官がつとめ、優秀な生徒は日本の士官学校へ留学する制度とした。現在までの軍事政権の指導者達の大半は、この士官学校の卒業生である。
*独立を前に日本軍のミス
ビルマ全土を解放した後、南機関は即時独立を主張したが、現地進駐軍はそれを認めず、1942年に南機関は事実上解体され、1943年8月にやっと認めた独立も、初代首相バモー、国防省アウンサン体制で日本軍の監督下におかれ、結果として当初のアウンサン氏との約束を反故にしてしまった。
*完全独立の達成
アウンサン氏らは、完全独立のための抗日戦線として反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成し、日本軍に対して全面攻撃に出る。折しも日本軍はインドのインパール戦線で敗退し撤退の時であり、AFPFLは全面勝利を獲得し、その後の完全独立を果たす事になった。
*アウンサン勲章の授与
時を経て、1981年1月4日、第33回独立記念日に、当時のビルマ政府は7人の日本人に対して「アウンサン勲章」を授けた。それまでこの勲章授与はミャンマー人を含めて皆無であったから、両国関係者を驚かせた。受賞者7人全員は、鈴木大佐の未亡人を含む元南機関の関係者だった。裏を返せば、ミャンマーの指導者は、ミャンマーの独立に対して、昔の「南機関」の恩義を未だ忘れていないという意思表示であろう。
現在でもミャンマー国軍は、軍隊の組織をはじめ、ほぼ完全に旧日本軍を踏襲している。これは、まさしく日本が基礎固めしたという事があったからであろう。
9.軍政と産業の実態
*軍政
軍政ということで欧米には評判が悪いが、既に述べたように1997年国家法秩序回復評議会から国家平和・発展評議会に改組し、民主化と市場開放を進め、農業分野と海外からの投資を含め、毎年7〜8%の成長を続けている。町中では軍人を見かけることもなく、又社会主義的な色彩もなく、ただ開発が遅れているというだけの落ち着いた国である。
少数民族が多く、135という多民族国家で、ヤンゴンの国立博物館には、135組の夫婦のモデルが展示され、微妙に異なる民族衣装が見られる。このためか、地方組織としては、少数民族を主体とする7つの州とビルマ族を主体とする7つの管区に分かれている。少数民族の反乱も殆ど収まったようである。国民意識としては、現状容認、非行動型である。
バスの中でガイドとの質疑応答の時間があったが、政治的な問題についてはガイドは情報不足を理由に回答を避けていた。たしかに電話も普及しておらず、電気やテレビなども不足しているので、情報の流通は不充分とは言える。
ただアウンサン・スーチー女史の行動は、意識的に法律を破り、そのため政府が規制するのを自由の侵害のように主張しているもので、欧米の報道が偏歪しているのだという見方もあり、実態をよく確かめてから判断すべき問題である。
社会主義的な匂いを嗅いだのは次の2件のみである。1つはマンダレーやヤンゴンの常設マーケットの中で、宝石類の販売業者が政府登録済みという看板を出していた。又ヤンゴンだったと思うが、車が沢山行列しているのを見て、ガソリンの配給を受ける為だとの説明があった。
*産業
ミャンマーは、ガイドが9人兄弟と言っているように子供が多く、人口はどんどん増えており、60才以上は僅か7.5%という。その中で農業に従事しているのは63.3%もいて、現在は農業国と言えよう。
しかし国民総生産の面から見ると、農業は37.2%であり、製造業は10.1%という。少し古いデータであるが、観光客も6万人で、これを50万人に増やす計画だとしている。序でに言えば、観光客は意外にヨーロッパ人が多く、折角親日的なのに日本人は案外少ないようである。
具体的数値は、ミャンマー・ホームページ(http://www.myanmar-shafu.com/)に出ているが、輸出で主な物は米、豆類を中心とする農産物とチーク材、ルビーを中心とする宝石類である。魚、海老、ゴム、既製服なども輸出している。
輸入では、原材料、自動車、食品、建築資材、設備機械、耐久消費財となっているが、最近は自動車や携帯電話が目立っているようである。
又最近エネルギー源の開発を含めて海外からの投資が増えているが、日本はまだ5〜6番目で、経済的にはあまりミャンマーに注目していないようである。
10. おわりに
以上「ミャンマー大周遊11日間」を「異文化探訪」という面からみたリポートである。
ミャンマーは特殊な文字を使っており、残念ながら全然読めないが、ヤンゴンの国立博物館の展示によれば、アルファベットは紀元1世紀頃チベットから入り、その後インド、ビュー族、モン族と変化してビルマ族の文字となったようである。しかしこのような分かり難い特殊な文字を使っていることが、経済的な発展にとっては相当な障害になっているのではないかと思う。(尤も日本の文字も外国人には分かり難いかも知れない)
ミャンマーは上座部仏教の遺跡の宝庫であり、一度訪れた日本人は殆どミャンマーが好きになって帰ってくると言われるが、今後もミャンマーが伝統を生かしながら着実に発展することを心から祈って報告を終わる事とする。
(おわり)
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