コ ラ ム




生活面でいろいろと感じたことを随筆風にまとめてみる。

16    我が人生80年間の思い出 (その1)人生一代記:著作とホームページ
更新日時:2006/12/07
2008/03/18 
我が人生80年間の思い出
 
(その1) 人生一代記:著作とホームページ
 
(1) はじめに
 私が生まれた頃の平均寿命を調べると、何と44才であった。人生50と言われていたが、平均寿命が50才を超えたのは戦後の昭和22年(1947年)であった。それから考えると随分長生きさせて貰ったことになる。
 昨年(平成19年)の10月30日に自宅の門前で転倒して右肩を骨折してしまい、序でにX線で調べたら、左肺と肝臓に腫瘍が有ることが分かった。その前に内視鏡で調べていた大腸ポリープの切除をしたり、腫瘍の検査に二度も失敗して、すっかり腫瘍が大きくなってから小細胞癌と分かり、転院して化学療法を始めたが、目下先行きが分からぬ状態である。 そこで前から準備していた独特の将来葬儀計画と遺産相続計画を取りまとめた。又いろいろな会の会長や幹事を交代してもらい、ようやく暇になって気がついたら、最近殆どホームページに書き込んでいないことと、今年の1月に嶺文いきいき倶楽部で話をした「我が人生の思い出80年間」の要旨が残っており、これを文章に纏めてHPに書き込もうと思いついた。  
 昔から人生三分法として、生まれてから学校を出るまでの修業時代、続いて社会貢献の職業時代、引退してからの道楽時代、という三つの時代を考えていた。今から思うと、修行時代は一風変わった思い出が印象的であり、職業時代はがむしゃらにすべて我流貫徹してしまったようであり、道楽時代は好奇心の赴くままに過ごしたという印象である。
 そこでそれぞれの時代についての思い出を書き記すことにしたが、その前に既に詳細を著書として出版したものもあり、又ホームページに掲載しているものもあるので、初めにそれらを紹介しておくこととする。
 
(2) 著書
 電気工学の専門的著書は別として、今までに次のような3冊の著書を自費出版している。
これらはいずれも区立大田図書館、国会図書館に寄贈してあり、借り出し可能である。
 
@ 激動の昭和一代記
 これは現役最後の東芝プラント建設社長をやめて相談役になり、時間的余裕ができたので、平成4年4月・65才の時、今までの各種記録を整理してまとめ、印刷会社に依頼して製本し、お世話になった方々に配ったものである。内容は次の三部構成になっているが、見直して見ると、こんなこともあったのかと興味深い記述が多い。。
第一部 出生より大学卒業まで (昭和元年から25年)
第二部 東芝時代 (昭和25年〜59年)
 第三部 東芝関係会社時代 (昭和59年〜平成3年)
 
A ゴールデン エイジ
 こちらは道楽時代に入り、平成9年10月、70才の古稀を迎えたのを期に、道楽の一端を纏めてみたもので、こちらも印刷会社に製本を依頼し、知人に配ったものである。
 第一部 古稀を迎えて
 第二部 素人の歴史道楽
 第三部 異文化探訪記
 第四部 明日をみつめて
 
B 続 ゴールデン エイジ
 相変わらず歴史探索や海外の異文化探訪を重ねて、資料が大分溜まってきたので、喜寿には少し早いが、平成14年10月、75才の時出版したものである。激動の昭和一代記の頃はワープロで原稿を作ったが、その後はパソコンで原稿を作り、小さなフロッピー・ディスク1枚に内容と製本の仕様を納めて出版社に送れば、2週間くらいで製本できた。
 第一部 喜寿を迎えて
 第二部 知的好奇心の探求
 第三部 異文化探訪記
 
(3) ホームページ
何時から始めたのか正確な記憶はないが、「ゴールデン エイジ」の頃からホームページを作っており、それを編集して原稿を作成していた。現在も次のようなホームページを抱えている。
 
@ 続々 GOLDEN AGE
 著書「続 ゴールデン エイジ」出版後、ジャストシステムのホームページ・ミックスで資料を溜めていたら、平成17年8月、78才の時、借用している容量が満杯になってしまったので、そのままにして、新しいものは次の「OK牧人の新知識」に入れることにした。内容的には、トップページ、プロフィール、コラム、歴史道楽、異文化探訪記、フォトギャラリーとなっている。URLは次の通りである。
http://www.hpmix.com/home/bokujin/
 
A OK牧人の新知識
 こちらは平成20年81才でまだ継続中のものであり、内容的には「続々GOLDEN AGE」と同様であるが、健康を害してからはあまり新しい記事はない。URLは次の通り。
 http://www.hpmix.com/home/bokujin2/
 
B OK牧人の夢幻日記 
 これは2004年から2007年までの日記で、1日も休みはない。しかし都合により2008年からは病気で対外的活動ができないので、ホームページではなく、一太郎でパソコン内で処理している。
http://bokujin2.kt.fc2.com/
 
C 改革市民ネットの会ぼくじんのHP
これは生活者主権の会の生活者通信に寄稿したもので、道州制に関するものが多い。
http://www.seikatsusha.org/se-tusin/sippitusya-betu/otani/index.html
 

17    我が人生80年間の思い出 (その2) 修行時代:一風変わった思い出(昭和元年〜25年)
更新日時:2006/12/07
2008/04/07 
我が人生80年間の思い出
 
(その2) 修行時代:一風変わった思い出 (昭和元年〜25年)
 
(1) 幼少時代 (昭和元年〜8年)
 
@ 生まれは荏原郡大井村
 当時はまだ東京府下であり、荏原郡大井村というのは、現在の品川区大井町である。尤も大井町も昔は何丁目ではなく、地域毎に滝王子、庚塚、などいろいろな名前がついていた。その後いろいろと地域の名称は変化したが、荏原郡大井村という名称は懐かしい。
 
A 年齢2度の若返り
 戦後、それまで数え年だったのが満年齢で呼称するようになり、皆1才若返ったのは当たり前であるが、私は2度若返った経験がある。というのは年末に大正天皇が亡くなられて、1週間ばかり昭和元年となったが、その12月28日に生まれたという。本人には分からないが父母が言うので間違いないであろう。小学校卒業まではそれで通したが、中学校の受験で戸籍抄本を取ったら、昭和2年1月1日生まれになっていた。理由は分からないが、当時電話はなく、本籍地の群馬県豊秋村役場まで手紙で連絡したため、到着が遅れて役場が勝手に変えてしまったのではないかと思っている。これで1才若返ったので、合わせて2才若返ったという妙な経験をした。
 
B 九死に一生
 いつ頃か定かではないが、2〜3才の頃、疫痢にかかって死にかかったという。勿論本人には記憶はないが、親が言うので嘘ではないであろう。尤も死にかかったのはこの時だけでなく、戦時中の高校時代にチフスにかかり、当時有効な対策が無かったので死にかかったが、絶食して何とか凌いだことがある。現在の肺癌も見方によっては治る見込みが立たないらしい。
 
C 野原をかけめぐる
 これも時期は定かでないが、3〜4才の頃、横浜市鶴見区平安町の新しい団地に引っ越した。父親の会社の工場が鶴見にあり、横浜ゴムの北の広大な野原の中にできた団地で、12軒の同じような家が3軒づつ4列に並んでいた。団地の中は皆仲良しの友達となり、野原を駆け巡って遊び廻った。このため何度か溝に落ち、膝の傷は絶えなかった。しかし自然の中で暮らせたのは幸いで、幼稚園にもいかずに幼少期を野原で暮らした。
 
 
(2) 小学校時代 (昭和8年〜14年)
 
@ 鶴見区潮田尋常高等小学校
 後に平安町の自宅の北側に平安小学校が新設されたが、当時はなくて、かなり遠い所にあった潮田尋常高等小学校に昭和8年に入学した。丁度国語の読本が何年ぶりかで変わって「咲いた咲いた桜が咲いた」が最初にでてくる新しい読本になった。当時は1クラス80名いたが、この中で読本を読めるのは15人くらいしかいなかった。しかし尋常科の4年生でも硬式野球が強く、当時1塁を守らせてもらっていたが、鶴見区のいろいろな小学校の6年生と試合しても勝っていた。尤もこれは素晴らしいピッチャーがいたせいであろう。その他2・26事件の時は、休校になって、雪の降る中、野原を歩いて帰った記憶がある。
 
A 大井第一尋常高等小学校へ転校
 4年生の夏休みには、母方の祖父のいた木更津の別荘へ行き、祖父が漕ぐ小舟にぶら下がって沖合にゆき、そこで小舟から手放されて、強引に泳ぐことを教わった。これがきっかけで水泳とは道楽時代まで長いつきあいとなった。
 一方孟母三遷の教えだけでなく、父も会社の中で聞いて、将来を考えると進学率のよい所へ移った方がよいと判断されたのであろう、夏休みの終わりに品川区大井町庚塚に戻り、大井第一尋常高等小学校に転校することになった。
 
B 近所の有名人
 庚塚の借家の向かいは河合栄次郎という東大教授だった有名な経済学者がいて、息子さん2人は少し年下であった。戦時中で自由主義的だと批判されていたようであるが、息子さんたちとは仲良くつきあっていた。
 又その2軒先には、当時の県知事会長をしていた桑原幹根氏がおられ、こちらの息子さん達とも仲良くつきあっていた。これを見て桑原幹根氏は大礼服を着て、サーベルを抜いて子供達に見せてくれたのを思い出す。
 
C 麻雀満喫
 たまたま父親が出張で支那(現在の中国)へ行き、麻雀のパイを買ってきた。そこで早速小学校の同級生たちと、早すぎたかも知れないが、麻雀に打ち込み、満喫してしまった。このため、後に戦後大学の学寮などで麻雀が大いにもてはやされていたが、そのときはもはや見向く気もしなかった。
 
D 受験地獄に翻弄される
 もちろん勉強するために転校したので、5年生の頃から、受け持ちの先生の家に夜行って受験勉強をいろいろ教わった。又日曜日には青山会館だったか、模擬試験があり、これに参加して、大勢の生徒の参加の中で、成績を競い合った記憶がある。クラスの中では成績がトップになり、卒業の時は総代なった。
 ところが実際の中学の受験は惨憺たるものであった。というのは、まず受けたのが当時7年制高校といわれた中学4年と高校3年の一貫校である官立東京高校の尋常科(中学校)であった。倍率20倍位の所、2倍に絞る一次筆記試験には合格したものの、2次面接試験の際、それまで乗ったことのなかったタクシーに乗ってでかけたら、車に酔ってしまい頭がぼーっとしてしまって見事不合格になってしまった。
 たまたま真冬であることもあり、ショックも影響したのか風邪をひいてしまい、同じく7年制の府立高校は受験に出掛ける事もできず、続いて府立一中の試験には、クラスの仲間も合格したのに不合格となり、続く私立麻布中学の入学試験にようやく合格する事ができたが、何とも受験地獄に翻弄されてしまった。
 
 
(3) 中学校時代 (昭和14年〜18年)
 
@ 一学期で転校、麻布中学から府立四中へ
 当初府立一中に入るつもりであったが、入試に不合格で麻布中学になってしまったが、もともと怠け癖のあるのが原因で、父親が会社の中でいろいろ聞いた所、怠け者を正すには府立四中がよい、ということで、早速猛勉強して府立四中の編入試験を夏休みに受けることになった。ということで麻布中学は一学期しか在籍せず、又その間府立四中の先生の所に勉強に行き、編入試験には無事合格した。これは当時1年の秋に陸軍幼年学校などに行くものがいて、欠員が出ると予想されて編入試験が行われていたものである。
 
A スパルタ式教育
 府立四中(現在は都立戸山高校)はスパルタ式教育で有名であった。数学など予習が原則で、授業時間にはいきなり予習を指示した範囲でテストを行い、これができないと居残りを命ぜられ、放課後居残り教室に行かされた。国語、漢文、作文などは墨と筆で書き、漢文は教科書は伏せて白文帳を作る事が義務づけられ、英語は予習部分の暗記を要求された。又数学でも消しゴムは禁止された。更に毎日日記帳が義務付けられており、体操などでも蹴上がりなど、全員ができるまでやらされた。きつかったが落伍者を出さないのが原則で、スパルタ教育のおかげを蒙った影響がその後の生活に大いに役立ったと思われる。
 
B 那須修養道場
 四中時代の一番の思い出は那須修養道場である。これは那須黒磯の那珂川を含む地域にあり、生徒は1クラス1週間づつでかける。そこでは一切勉強せず、食べ物は全部自分たちで作り、動物や鶏も飼育し、冬の間森で作った薪で風呂を沸かし、最も原始的な人間としての生活を経験した。先生は農業に詳しい方1人で、他に従業員はいなかった。朝太鼓の音で起きて、那珂川に行ってみそぎをしてから、山の上の神社に参拝するなど、思い出深い所であった。
 
C 大東亜戦争突入
 小学校時代から支那事変は始まっていたが、中学3年の昭和16,年12月8日、遂に大東亜戦争が勃発した。このため教練が強化されたり、校長が代わって次第に軍事色が深まり、尊敬する先生達の異動のうわさがでたりしてきた。そこで中学は5年制であったが、高等学校へは4年から受けられるので、できるだけ早く、入りやすく、しかも東大の工学部への進学率の高い高校を狙う事にした。又近所に、後に国鉄総裁にもなった高木さんという先輩もおられて、浦和高校を受験することとし、今度は一度で合格した。尚当時の高校は全国で26校位で、大半が官立であった。
 
 
(4) 高等学校時代  (昭和18年〜22年)
 
@ 運動部別全寮制
 旧制官立浦和高等学校理科に合格して入学したが、当時は全寮制で、武原寮と称したが、運動部別になっており、東西各三寮ずつ木造二階建ての汚い寮で、一・二階各五室であった。水泳部はラグビー部、山岳部などと共に東三寮であった。一室は引き戸の入口に一畳の下駄箱があり、その両脇に六畳の部屋と押し入れがあり、3人ずつ計6人が住んでいた。入寮第一夜は伝統的な上級生によるストームに襲われ、その後寮歌の練習をし、更に月見と称して草履で中庭に出て、円陣を作ってデカンショを踊った。
 新入生は全国から集まっているので、顔を洗う習慣からして出身地域によって異なり、親元を離れて裸でつきあうのは得難い経験であった。戦後アメリカの教育使節団がきて、日本再起の恐れありと見て、旧制高校を廃止し、逆に自国に取り入れたという歴史があるが、教育制度として現在の六三制より遙かに優れていると今でも思っている。
 
A 水泳部から海洋班へ
 昔の高等学校では、文科が甲(英語)、乙(独語)、丙(仏語)の3組、理科が甲、乙の2組であったが、戦争の激化で、文科は1クラスになり、理科は4組で徴兵延期となった。しかし終戦後かなりの人数が理科から文科に移り、文科は卒業時は2組となった。
 又入学時どこかの運動部へ入らなくてならないので、夏だけで楽だろうと思って水泳部に入った。ところが4月からプール掃除をして泳ぎはじめ、予想に反する結果となった。しかし1年の秋には、文部省の指令だとか、敵性スポーツはいけないということで、インターハイを経験する間もなく、水泳部も廃止され、海洋班を作って、水泳部はまるごと、バレーボール部などと一緒になり、月島へ出掛けて、カッターを漕いだり、和船の艪を漕いだりした。帰り道には築地の歌舞伎座に立ち寄り、高見席から一幕覗いたりもした。現在でも水泳部の卒業生の浦泳会があり、又海洋班の会もあるが、同窓会は終了した。
 
B ジフテリアとチブス
 水泳部の思い出もいろいろあるが、1年の2学期、9月に御殿場の滝ヶ原に軍事演習のため廠営に出掛けた。生憎と雨ばかりで演習は殆ど行われなかったが、廠舎は馬小屋みたいな不潔な所で、間もなく伝染病のジフテリアにかかってしまった。昭和医専の付属病院に入院したが、入院当日血清注射しただけで熱は直ぐ下がったのに丸一ヶ月隔離された。 退院してから海洋班に移ったのであるが、昭和19年3月の春休みには、寮に合宿して毎日月島に通って海洋訓練を行った。訓練の合間にクラゲや海草を拾って食べたが、なかなか美味しかった。所が合宿が終わってから皆一斉に下痢をした。四月一日いよいよ二年生になり、新入生のストームをしてから、はじめて浦和劇場の近くの下宿に入った途端に発熱してしまった。そして今度はパラチフスと診断され、伝染病研究所付属病院に丸二ヶ月入院する羽目に陥った。当時は気の利いた薬はなく、空腹にして自然に治るのを待つばかりで、二週間位四十度以上の高熱にうなされ、これを繰り返し、66日入院した最後には、18貫あった体重が14貫を切り、全く骨皮筋右衛門になってしまった。先輩が1人死亡し、その次に重病だったようで、幼児以来三度目の伝染病で又も九死に一生を得た。
 
C 休学と渋川の田園生活
 戦局は次第に不利となり、既に高校は二年に短縮され、しかも二年目は勤労動員で工場で働くことになった。従って今更学校へ戻っても何ら得る所はないと判断し、思い切って一年間休学することにした。
 東京にいても食糧難で空襲の危険もあるので、父の郷里の群馬県渋川郊外の農業をしていた叔父のもとへ疎開することにした。叔父の家に世話になりながら、祖父が晩年を過ごした庭先の隠居所に1人で住まわせてもらい、今までとは全く違う田園生活を経験した。自然環境が違うだけでなく、農業地帯であり、また住民の感覚も東京とはかなり違い、その意味では貴重な経験であった。渋川の図書館を利用して、世界文学全集も殆ど読み尽くしたが、ロシア文学を読んでいたら、警察の特高係が叔父の家に思想調査に尋ねてきたのも笑えぬ実話である。又土地の人は殆ど高等学校の存在を知らなかった。昭和20年3月10日の陸軍記念日には東京大空襲があったが、渋川から見ても、前橋方面の上空が夜空に赤々と映えていた。
 
D 勤労動員
 昭和20年4月、上京して復学し、北浦和に下宿した。二度目の二年生となり、約一ヶ月の授業の後、新潟鉄工浦和工場に動員され、鋳物工場に配属された。そこでは戦車のエンジンのライナーを鋳物で吹いていたが、大半が水圧不良で良品率は2%位しかなかったらしい。たまたま病後ということで現場事務所詰となり、工場設備の改善というか、労働集約作業の近代化、自動化設備の製作など素人ながらやらせて貰った。
 
E 敗戦と投書
 昭和20年8月6日は廣島に、続いて9日には長崎に新型爆弾(後に原子爆弾と判明)が投下され、敗戦は決定的となった。東大生の先輩がわざわざ寮にきて、もう戦争は終わりだと教えてくれた終戦前日には、又工場の塀を乗り越えてエスケープし、浅草に映画を見に行った。ドイツ映画「ハイマート(故郷)」を上映していた。
 8月15日には終戦となり、天皇のラジオ放送が行われた。最初に心配したのは高等学校はつぶされないかという事であったが、幸いにして存続した。しかし本校舎が空襲で焼かれてしまったので、理科教室を主体に二部授業が行われた。下宿はしたが食事は寮の世話になったので寮外生と呼ばれていた。運動部は自由加入制になったので、時間の自由が欲しくて何部にも入らないことにした。最大の苦痛は食糧不足で、いろいろ工夫した。
 当時高校は二年制に短縮されており、間もなく大学の入学試験という事になったが、いろいろと具合が悪いので、当時の総理大臣東久邇宮宛に葉書で投書し、戦争は終わったのだから高等学校の三年制を復活せよと提言した。毎日新聞にも紹介されたが、これをきっかけに各種運動が活発化し、翌年1月には高等学校三年制が復活する事になった。
 
F 哲学と学業
 三年制が復活して余裕ができ、高校とは一体何をする所か考え直すことができた。その答えは案外簡単で二つに絞れた。
 一つは高校時代は丁度人生の転換期で、子供から自分で物事を考える大人になりかける時期である。「人生とは何ぞや」をゆっくり考え、多くの友たちと語り合う時期である。真善美を白紙から考え直し、自分の頭で哲学を作り出す事であり、5月の日誌に「我が輩の人生哲学」という記録も残されている。
 もう一つの学業は、大学の予科としての役割しかないが、やはり将来の学問の基礎となる過程であり、これを無視することはできない。将来社会的存在として活動するためには、しっかりとした実力をもたなければならず、哲学と共に学業も、高校生活として重要な一端を担うものと考えた。 
 
G 停電と大学入試
 高校の最後の頃は当時新宿の西大久保に移っていた自宅から通学した。東京の電力事情が特別に悪く、始終停電していた。そこで停電すると明かりを求めて国電(現JR)新大久保の駅へ行ったり、寒くなると山手線に乗って環状線をぐるぐる廻りながら勉強した。電気の有り難さを痛切に味わった。
 大学は父と相談したわけではなかったが、父と同じく、工学部を受けることになり、第一志望電気工学科、第二志望機械工学科、第三志望物理工学科を選んだ。試験は工学部全体一緒に行い、成績順に志望先に振り向けると言うことで三学科選択することになっていた。果たして電気科の倍率は工学部内最高で三倍であった。しかし試験になってみると、物理も化学も図学も殆ど山があたり、数学で一問ミスしたものの、4年間という他人より長い旧制高等学校生活を終えて、無事東大第二工学部電気工学科に合格した。
 
 
(5) 大学時代 (昭和22年〜25年)
 
@ 本邦最大の工学部
 入学したのは、東京帝国大学第二工学部電気工学科であった。但し翌年占領軍の指令で帝国の呼称が禁止され、東京大学になり、官立と言わず国立と呼称された。東大の工学部も元は本郷にのみあったが、戦時中の技術者養成の必要性から、昭和16年、本郷の工学部を第一工学部とし、西千葉に広大な敷地を持つ第二工学部を設立したものである。第一と第二で若干学科構成が異なるが、電気工学科など主要学科は両方にあり、入試の成績順に交互に振り分けて均等化を狙ったという。しかし地方からきた連中は本郷のつもりが外れて不満をもらしていた。しかし、私たちの次の昭和23年で入学試験が打ち切られ、昭和26年卒業と共に第二工学部は消滅し、学生のいない生産技術研究所になった。
 
A 学寮生活と芋作り
 最初新宿から電車で通っていたが、家が鎌倉に引っ越したので、直ぐ大学の近くにある学寮に入り、高校に続いて学寮生活となった。しかしこちらは一部屋2人であり、学科の違う人とも一緒になり、交友を深めることができたのは幸いであった。食堂のピアノを利用して庄司君からベートーベンの月光の曲の弾き方を教わったのが印象的である。
 大学の授業は最初から専門用語が多くて多少面食らったが、一クラス40人で、4人ずつ組んで実験を行ったり、専門が同じなので、生涯交友関係が継続した。当時は電気・電子・通信・情報の区別無く、そのすべてを包含した電気工学科であった。
 昭和22年入学当時は食糧難で、学寮の食事で砂糖しかでない程の変則的なものであった。そこで広い校庭を利用して、1人100坪貸してくれ、苗も供給してもらって薩摩芋を作って食事を補った。人によっては出来過ぎた薩摩芋をあちこちで売るのに時間をとられて留年した。又千葉神社で闇米を買って警察に捕まったこともある。
 
B 学友会、学生大会
 第二工学部には、学友会として弥生会という団体があり、そこの役員となった。杉村春子を呼んで1人芝居をやった事があるが、東大が千葉にあるとは知らなかったとこぼされた。そのせいでもないが、本郷の広い教室を借りて、当時一流のピアニスト、ヴァイオリニスト、声楽家など呼んで音楽会をたびたび開いた。そのお礼に、お金の代わりにリュックサック一杯の薩摩芋を差し上げて、却って大変喜ばれてしまった。
 学寮の寮生大会の議長もやったが、学生大会の議長も経験した。こちらは当時授業料値上げの動きがあり、学生は勿論値上げ絶対反対の運動を展開し、当時の学部長であった同じ電気工学科の瀬藤教授と全面的に対決してしまった。実はこのことが職業時代の一つのエポックになるが、内容は職業時代で述べることとする。
 
C 技術者の戦争責任
 たまたま極東軍事裁判が行われ、軍人だけでなく、政治家も戦争犯罪人として処刑された。これに対して学内でも若い先生方と技術者の戦争責任について話し合う機会があった。先生方のご意見は、力及ばず負けたのは残念であるが、技術者として、国民として協力するのはあたりまえで、別に犯罪でも何でもない、ということで成る程と思った。
 又本郷にでかけて何度か社会主義研究会を覗いて見たが、徒に批判的で、建設的議論が全くないのに呆れて、以後全く関係を断絶した。
 それより戦後の復興を果たすには、技術者の奮起が絶対必要だと確信し、以後授業や実験に全勢力を傾注した。
 
D 各方面での実習
 当時の大学は3年制で、3年の夏休みには工場や発変電所などで実習することになっていた。しかし大学と違って現場とはどのような所か非常に興味があったので、1年の夏休みから実習にでかけた。1年の時は、家が鎌倉に移っていたので、芝浦製作所の大船工場で旋盤やフライス盤など機械加工の実習をさせてもらった。2年の時は、日立製作所の戸塚工場へ行き、電話用リレーの試験をやらせてもらった。3年になって、正式の卒業実習として、榎村君と東芝の鶴見工場へ行き、2人とも高電圧を卒業研究でやることになっていたので、避雷器の衝撃電圧試験をやらせて貰った。
 どこの現場も大学とは雰囲気がまるで違い、現場の工員さん達と話し合う機会もあり、今までにない経験をすることができた。帰宅してから海水浴客のいなくなった鎌倉の海で、夕日を浴びながらのんびり泳ぐのは気持ちよく、大自然の中の孤独の楽しみにひたるのが日課のようになった。
 
E 卒業研究
 卒業研究は高電圧の藤高研究室に入り、「捲線における衝撃電圧伝搬特性の研究」を行った。千葉の材木屋から細長い角材を仕入れ、表面を絶縁物で掩った上にエナメル線を巻き付け、これにインパルス電圧を加え、途中数点の電圧波形をブラウン管オシロで観測するものであった。なかなか満足なデータがとれず、三年の二学期から三学期にかけて、毎日、毎晩、研究室で実験したり理論検討したり、あっという間に時間が過ぎてしまった。後年親父の卒研を尋ねたら、「衝撃電圧の陰極線オシロによる観測」で、知らぬ間に親子二代似たようなことをやっており、当時の技術革新のスピードが遅かったのを痛感した。
 
F いよいよ就職
 卒業研究も目処が付き、さて就職となったが、日本はまだ復興しておらず、就職難で電力会社だけでなく日立、日電、富士通なども新規採用はなかった。教室には採用希望通知のあった会社名の一覧表が張り出され、学生はそれぞれ希望する所に記名して待機し、主任教授の星合先生が、各社と相談して適任者を送り込み、私は東芝を希望し、友人の遠慮で無事推薦されることになった。以上で長い修行時代を終え、いよいよ実社会に入って滅私奉公の職業時代を迎えることになったが、最後まで旧制教育を受けられ幸せであった。
 

18    職業時代(1)東芝入社・見習い社員
更新日時:2006/12/07
2008/03/28 
我が人生80年間の思い出 08-03-19 大谷和夫
 
(その3) 職業時代:すべて我流貫徹 (昭和25年〜平成3年)
 
(1) 東芝入社・見習い社員 (昭和25年〜26年)
 
@ 入社式
いよいよ実社会に第一歩を踏み出す記念すべき入社式が、昭和25年4月1日、東芝川崎本社で行われた。当年の大学卒新入社員は24名で、その内技術系は14名であった。まだ学生服のままの者もいた。当時の社長は後に財界総理とも言われた故石坂泰三氏で、入社式の訓辞はなかなか辛辣であった。「東芝はまだ復旧していないので、本来新入社員を採る状態ではない。しかし将来を考えて技術系は最小限採用する。事務系は必要ないが、途中減耗補充のためで、仕事があるわけではないので、なるべくじっとしていてほしい。」
 
A 京浜地区五工場の実習
 講話の後は半年間工場実習や見学があり、10月から仮配属となり、入社後1年間は見習い社員であった。当時の東芝は、管球、機器、通信、電機の四事業部制で、京浜地区にそれぞれの主力工場があり、堀川町、柳町、小向、府中、鶴見で実習しながら、時々発電所や関連会社の工場見学に連れていって貰い、実務知識習得の訓練が行われた。工場ではどこも概要の説明が行われた後、製造現場に配属されて、誰でもできるような最も初級と思われる仕事が与えられた。それでも各工場の特色や現場の雰囲気を知ることができた。又この期間に父の集めた電気学会誌やGEレビューを片っ端から読み、休日は日曜だけであったが、日比谷の米軍のCIE図書館に行き、世界の新知識の吸収に努めた。
 実習の終り頃に配属の希望調査があり、重電でも複雑な機構は苦手なので、遮断器以外の大型電気機器なら何でも結構ですと返事しておいた。所がいざ蓋を開けてみたら、何と鶴見工場の遮断器の設計に仮配属となり、唖然とすると共に、開き直りの好機となった。
 
B 鶴見工場設計部仮配属
 当時の遮断器設計課は課長以下10名で、私は11人目で当時唯一の大学出であった。しかし新入生の常として、朝は8時始業より早く来て、掃除、雑巾がけ、まだ水洗式になっていなかった臭い便所掃除などを行った。又エアコンのない時代で、夏はバケツに水を汲んで、その中に裸足を突っ込んで冷を取っていた。冬はストーブだが、燃料不足で、工場の床の木煉瓦を剥がしてくべたり、設計部の天井板を剥がして燃やしたりした。
 又当時はまだ大学出が珍しく、他課からもベテランが覗きに来て私の製図の腕前をチェックしたり、英語やドイツ語の文献があると、先輩達から抜粋や翻訳をやらされた。
 当時は若かったせいか、仕事以外にも色々なことをやった。一つは合唱で工場の男声合唱団に第二テナーで加入し、ドイツ語の歌を歌って毎日新聞の合唱コンクールで優勝した。も一つはバレーボールで、部内の若者達と設計部の横の空き地にコートを作り、毎日昼休みに各課対抗で九人制のバレーボールのリーグ戦を運営した。下手な課長や主任連中も引っ張り出してボールをぶつけ、若者たちの日頃のストレスを解消したりしていたが、反面設計部内の横の連絡も良くなるという副次効果もあった。
 
C 鶴見研究所実習
 鶴見工場の中に鶴見研究所があり、重電機器の基礎となる材料、計測、現象の研究を行い、学会でも知名な技術者が揃っていた。一方遮断器設計課(通称シャセ)では実務経験第一という感じで、昔はどうだったとかいう話が多く、余り理論的な雰囲気がなかった。そこで一通り設計製図の実務を教わった所で、折角やるなら基礎からじっくり勉強したいと思い、特別に希望して、鶴見研究所の中の遮断器の遮断性能を検証する短絡試験場に実習させて貰うこととした。  
 遮断器の故障電流遮断性能はまだ理論的に解明されておらず、大電流の遮断試験で検証していたが、なかなかスリルのあふれた試験であった。当時最大の161KV 2500MVA碍子型小油量遮断器の遮断性能の実験的研究を行わせてもらった。そこで消弧中のアークの電圧波形と電流を詳細に測定する必要があり、独特な測定器を考案して実験を行った。その結果、米国のGEが提唱し、東芝も顧客に説明していた油衝消弧室の理論を真っ向から否定する結果となり、これを技術報告として提出し、途端に物議をかもしてしまった。
 

19    職業時代(2)遮断器技術者時代
更新日時:2006/12/07
2008/04/07 
(2) 遮断器技術者時代 (昭和26年〜42年)
 
@ 空気遮断器の開発
 短絡試験場の実習を終えて昭和26年4月から(シャセ)に正式配属となり、平社員から主任、課長と17年間遮断器専門の技術者として、種々やりたい放題やらせて貰った。
 遮断器はタンク型油入遮断器からスタートしたが、戦時中から油節約の為、欧州で開発された碍子型小油量遮断器が主流となっていた。
 しかし遮断性能の技術報告で物議をかもしたことと、たまたま東京電力から都内の20KV地下ケーブル網再建のため、空気吹付遮断器(以下ABBと呼称)が期待され、東芝でもABBを試作することになり、新人ながら早速ABBの設計担当者になった。
 当時は開発の概念がなく、試作として現場を駆け回るなどしてようやく形を整え、研究所や関連部門の協力を得て、遂に15気圧の圧縮空気でアークを吹き消す23KV-1200A-1000MVAの本邦最初の屋内型ABBの開発に成功した。これを基礎に11.5KV, 23KV, 34.5KV用のABBをシリーズ化すると共に、23KV用を東京電力日比谷変電所へ納入し、11.5KV用を九州の三井鉱山の坑内に入れた。
 続いて屋外用ABB(80.5KV, 2500MVA)の計画、設計、開発を行い、かなり短期間に完成し、関西電力湊川変電所に納入した。このあと技術提携でスイスのBBCから屋外用ABB を導入して取り替えられたが、世界でたった1台の80.5KVの断路器付きABBが、千葉方面にバス旅行した際、三井東圧の工場の受電変電所で発見され、我と我が眼を疑った。その後屋外用はBBC型とし、屋内用は国産ABBの軽量化を初め改良開発した。
 
A 短絡試験場の大型設備投資
 鶴見には戦前から35MVAの短絡発電機を主体とする短絡試験設備があったが、遮断容量増加の趨勢に対応できなかった。又等価合成試験法は信頼性に乏しく、容量増加が切望されていた。ところが戦後の混乱期で業績不振であり、誰もなかなか言い出せなかったが、昭和28年に思い切って150MVA短絡発電機を主体とする3000MVA短絡試験設備の建設という大型設備投資を本社に申請した所、思いがけずに許可が出て、早速着手して完成させた。これにより業界随一の規模となり、同業他社からは大いに羨ましがられると共に、以後の東芝遮断器の業界飛躍の原動力となった。
 
B 遮断器技術懇談会
 電力用遮断器は、電気機器の中でアークを取り扱うので、最も理論的取扱いの難しい機種であり、電気工学の中でも体系化されていなかった。又膨大な試験設備が必要なので、大学でも研究し難く、さりとても電力系統が拡大してくると、どうしても保護機器である遮断器がその死命を制するようになってくる。
 そこで東大の福田教授を会長とし、大学、電気試験所、四大メーカーの設計、研究の技術者が集まり懇談会が結成され、毎月1回集まって新しい研究や文献の紹介を行い、相互啓発を図る事になった。私も昭和27年〜45年まで18年間お世話になったが、新人の私には非常に刺激の強い会で、もの凄く啓発されたように思う。お陰でかなり昔からの歴史が分かり、各社の客観的な評価と開発の動向が分かり、合わせて欧米の先進メーカーの状況も把握することができた。数多くの社外団体の委員会活動中最も有益だったと思われる。
 
C スイスBBCより技術導入
海外技術文献調査と遮断器技術懇談会での評価も参考にして、昭和28年2月、「欧米各社空気吹付遮断器の製作現況」と題する調査報告書を提出し、各社製品を比較の上最も優れていると思われるスイスBBCからの技術導入を提案した。所が東大の第二工学部学生大会で対決した瀬藤先生が定年退官で東芝に来て技術担当専務となっておられ、平社員の報告にも拘わらず早速取り上げて下さり、宮本技師長と共にスイスに行ってBBCを説き伏せて交渉が成立し、翌年技術援助契約が調印され、東芝として初めて欧州から技術導入することとなった。
 昭和29年8月〜12月迄技術習得という名目で私がBBCへ派遣された。JALもジェット機も羽田の空港ビルもない時代で、SASのプロペラ機に乗って、南回りで44時間もかかってようやくスイスに到着した。BBCでは設計部に席を置いたが、営業では英語が通じたが、設計はドイツ語かフランス語、製造はイタリア語が主であった。図面はドイツ語で一角図法であった。
 出張期間中毎週詳細な報告書を送り、合間に関連工場や購入先工場を見学し、後半には鶴見から設計、製造、工具課長を迎え、私の通訳で視察して頂いた。又帰国後は鶴見工場幹部の特別支援で図面は一角図法で特別に適用させてもらい、製造設備も一新させて貰った。又27年から(シャセ)に入ってきた学卒の諸君にドイツ語図面の翻訳に大活躍して貰い、早くも昭和30年には国産化を開始する運びとなった。
 その他多くの方々の協力でスイスからのABBの技術導入は大成功となり、受注が激増し、鶴見工場も俄然活況を呈し、東芝としても戦後復興期の画期的な出来事であったろう。  
 
D スイスの生活と文化ショック
 昭和29年の頃は日本人にとって、スイスは風光明媚で永世中立の平和な憧れの国であった。何から何まで珍しく、当時の日本とは常識が全く違っていて、若者にとっては毎日がショックの連続であった。
 実は会社でもまだ平社員の海外出張の規程がなく、1日10ドルの滞在費を日銀へ行って貰ったが、それではホテルに泊まるには不足し、海外通商や安川電機の安川先輩のお世話でチューリッヒに民宿し、毎日急行列車で20分かけて、BBCの工場のあるバーデンまで通い、昼食はバーデンで、夕食はチューリッヒの民宿と同じマンションの別の家でとる事とした。民宿も、昼食・夕食の下宿も非常に親切で家庭的に面倒をみてくれた。
 夕食の下宿の娘さんは、チューリッヒの国立歌劇場の支配人の秘書をしており、度々オペラの切符を取ってくれたので、よくオペラ劇場にも通った。その他滞在費を浮かせた金で、休日にはスイス内の各地を訪れ、又仕事と関連してドイツ、フランス、スエーデンなどにも行き、それぞれが持っている独自の文化の一端に触れることができた。。
 スイスの思い出は尽きないが、若い時に異文化に接した事は、その後の一生に大きな影響を受けることになった。陸続きの周囲の強国に絶えず侵略されていた中で、民衆の力で独立を勝ち取り、北海道と同等の面積、人口、気象条件なのに、皆勤勉に働き、独自に工業力を持って世界的に貿易し、しかも断然美しい町や自然を維持し、どこへ行っても雑草などまるで見かけない。当時のスイスは本当に素晴らしかった。
 
E 結婚、スキー、ゴルフ
 以前から入社後5年で結婚しようと考え、相手を選ぶ選定基準も詳細に定めていた。複数のお見合いの候補者が集まったので書類審査し、最初にお見合いしたのが家内の惠子であった。両親と共にお見合いし、評価基準に達していたのでOKとした。丁度スイスへ出張する直前だったので、結婚は帰国後とし、昭和30年4月13日に日本工業倶楽部で結婚式及び披露宴を行い、伊豆、箱根方面へ新婚旅行に出掛けた。
 結婚直前に両親と弟達は東玉川へ移り、私達はそのまま田園調布本町の家に住むことになり、初めの頃は歴史学者の三島夫妻に2階を間貸しして、少ない給料を補った。子供がなかなかできず、伊香保温泉で身体を温めたりしたが、翌年7月22日に長女綾子が誕生し、33年2月16日には長男文夫が生まれた。
 学生時代にはとてもスキー等やっている余裕はなかったが、(シャセ)に入ってから、後輩の手ほどきで何回かスキーをする機会があった。結婚の翌年、山形県の五色温泉に夜行列車でスキーに行き、朝一番の滑降で道具が壊れ、右足首を捻挫してしまった。東京に帰って惠子の父親の児玉医院で、X線で調べたら骨折であった。このため東芝鶴見病院に入院し、その間に「激動の昭和一代記」の第一部修行時代の大半をノートに記した。
 骨折の原因の一つが太りすぎであり、何か運動をしなければと思っていた。そこで親父の古いクラブを借りて、庭でスイングの練習を開始し、5〜6年後、多摩川べりで打ち放しの練習をしたり、対岸のミニコースへ行ったり、六郷の河川コースへ出掛けたりした。昭和35年頃本厚木カンツリークラブが会員募集をし、浦高の小山先輩の勧めで入会した。最初のハンディは19であったが、昭和53年には9となり、61年には7になった。この頃は絶頂期で、数カ所のゴルフクラブに入り、海外でも各地でゴルフを楽しんだ。しか次第に飛距離が落ちてスコアも悪くなり、65才で12、70才で19、80才で22にハンディが落ち、ついには骨折や病気でゴルフもできない状態となってしまった。
 
F ABB全盛時代
 話を空気遮断器に戻すと、屋外用ACF型をBBCから技術導入し、屋内用は自主開発でAP型シリーズを揃えた。その後屋外用として大容量のAHF型を導入し、更に系統容量の増大に伴い、50KA遮断のABM型を導入国産化した。昭和30年代から40年代にかけてはABBの全盛時代であり、ユニット生産をしながら日本全国大いに稼ぎ廻った。
 しかしただ技術導入しただけではない。系統条件の違いから一部設計変更したり、騒音防止の消音器を開発したり、塩害対策をしたり、地震対策をしたり、新幹線用に多頻度開閉に耐えるABBを開発したり、伊勢湾台風の被害を修復したり、関西電力新北陸幹線の事故に迅速に対処したり、近距離線路故障に対処したり、ABM型導入の前に超高圧大電流大容量ABBのAGF型を自主開発したり、種々対策を迅速に遂行した結果とも言える。 も一つ注目すべきはABBの出現により、高速度再閉路が実現され、落雷その他送電線が故障しても、高速度にリレーで検出して遮断し、又高速度に再投入が可能になった。この為、線路が故障しても、一般の住宅などでは停電に気がつかず、無停電時代となった。
 
G 国際電気標準会議 (IEC)
各国の規格統一をはかるため、国際電気標準会議(IEC)が設立され、各国代表が議論しながら国際標準規格の制定作業が進められていた。IECの国内委員会が、日本では電気学会の中に設けられ、私もその委員として活動し、昭和37年のブカレスト大会、昭和40年の東京大会、昭和42年のパリ大会、昭和47年のストックホルム大会に日本代表として参加した。
 ブカレストのルーマニアは、東欧の中で初めて西側に門戸を開いた記念すべき年で、又各国の遮断器の専門家と初めて知り合いとなり、東京大会では、遮断器技術懇談会の福田先生の音頭で各国代表を八芳園に招待し、日本料理、琴、三味線、日本舞踊のあと素人のど自慢を行い、大好評であった。パリ、ストックホルムでは、大分慣れてきていろいろと意見具申できたが、序でに各地を廻って見学したり、新製品のPRをしたりした。思えばIECに日本代表として出ている頃が、私の技術者としての花の時代であったと思われる。
 
H 浜川崎工場へそっくり移転
 既に昭和30年から、鶴見でも遮断器の設計・生産・製造・試験・検査部門は特別に製品部の走りとして遮断器部に纏められていたが、ABBの受注、生産が著しく増加して鶴見工場が満杯となってしまい、昭和36年初頭に新工場建設を決定した。私も昭和36年4月には主任となり、短絡試験設備の増設をはじめ、工場のレイアウト等意見を出させて貰い、昭和37年6月浜川崎工場に遮断器部がそっくり移転した。これにより鶴見は回転機、浜川崎は将来変圧器も移して静止器のセンターとすることになった。
 38年7月技術課長代理、39年8月技術課長となり、41年3月には設計課長兼務、42年3月には企画担当課長となり、42年6月には真空遮断器開発課長兼務となった。実質的には若い時から社内遮断器委員会の幹事役として、東芝遮断器の技術開発面の舵取りを任されていたと思っていた。他に遮断器の設計標準や工場のルーチン・システムを新たに作ったり、社内、社外多数の委員会に参画し、又多数の論文を社外、社内に発表し、(ハマ)時代は超多忙な技術者生活であった。
 
I 真空開閉器具の開発事業化
 アメリカでの発表が刺激となり、ABBの開発の目途もたち、東芝でも真空開閉器具として、真空スイッチ(VS)、真空遮断器(VCB)、真空コンタクタ(VCTT)の開発を計画した。技術的な問題点は真空容器と電極材料で、真空容器ははじめ堀川町のX線管部門にガラス容器で製作依頼したが、途中から真空排気化成炉を設置して自家生産し、電極材料は金属材料部門や総合研究所の援助を仰いだ。又VCTTは真空バルブのみ開発し、器具としては府中の制御器部門に纏めて貰った。
 昭和40年2月には3/6kV級のVSが完成し、41年7月には6kV 150MVAのVCBを完成した。しかしこのような新製品を事業として成功させるには、設計、製造のみでなく、営業部門までスルーして経営する必要が痛感され、前工場長の三好電機事業部長に特別にお願いして真空開閉器具事業化促進委員会というプロジェクトを作り、初代のプロジェクトマネージャーとして、電機事業部、浜川崎、府中を含めて事業化を推進した。
 私自身は間もなく本社に移り、製造も浜川崎から府中に移管されたが、後輩諸君のたゆまぬ努力により、真空開閉器具は東芝スイッチギアの基幹となり嬉しいかぎりであった。それより私自身、単なる設計開発より、新製品の事業化という経営面に興味をひかれた。
 
J GCB、GISの開発準備
 六弗化硫黄ガスの絶縁性が良い事は知られていたが、戦時中に米国W社により、これを消弧に利用する特許が取られていた。そこで昭和40年に特許が切れるのを見越して、昭和38年頃からガス絶縁の研究を開始した。日本でもビルの地下変電所が増え、屋外でも用地難からコンパクトな変電所が要求されるようになったので、ガス遮断器(GCB)と、それを入れたガス絶縁の密閉型開閉装置(GIS)が最適と判断され、その開発を計画した。私自身は開発或いは企画担当課長としてGCB、GISの開発戦略を策定し、いよいよ具体的開発活動に入る所で、突如昭和42年9月、日比谷電々ビルの電機技師長室長に転勤となってしまった。
 東芝遮断器の顔を自認していたので、この異動は意外であり、開発を直接実施できなかったのは残念であった。しかし後輩達の努力で大型GCB及びGISの開発に成功し、海外に販路を広げるようになったのは誠に喜ばしい。
 以上ABBの最初の開発からABB全盛時代を中心に、真空開閉器具の開発事業化、GCB、GISの開発準備までの17年間が、私の専門技術者時代であり、変化の激しかった時代に一介の技術者として我流貫徹できたのは大変懐かしく思い出される。遮断器は私の技術者としての一生の心の故郷であり、停電のない明るい社会の実現に些かなりとも貢献できた事も技術者として本望であった。
 遮断器技術者時代として最後になるが、このような仕事を支えてくれた多くの先輩、同僚、後輩や、内外の知己の皆さん、そして仕事一筋を我慢してくれた家族に対して、心から感謝を捧げる次第である。
 
 
 
 

20    職業時代(3)電機技師長室長
更新日時:2006/12/07
2008/04/11 
3) 電機技師長室長 (昭和42年〜45年)
 
@ 転出の経緯  
 職業時代に入って、遮断器技術者時代は長かったので時代としたが、以後は2〜3年で職場が変わることが多く、従って時代とは呼称せず、役職名のみ記す事とする。
 昭和42年夏、当時の浅川電機技師長から藤井室長がGE駐在員となるので後任として技師長室へ来るよう話があった。これは表向きの話であるが、技師長が工場へ見えた時、本社の施策に大いに噛みついたり、工場の中でも納得しないと命令も聞かぬ扱い難い存在となっていた事も影響していたのではないかと思われる。
 GISの開発がまだ軌道にのらないので浜川崎に未練はあったが、次の理由で2年間という条件付きで電機技師長室に転勤した。
@)真空開閉器事業化促進プロジェクトマネージャをやって、事業経営に興味を持った。
A)事業部の技術力の強化に文句をつけるだけでなく、直接力を尽くしたいと思った。
B)利益責任体制を確立し、事業経営の高度化推進の必要性を痛感していた。
C)遮断器に居座ると後輩のモラルを損なう恐れがあり、むしろ視野拡大の転機と感じた。 尚当時の電機事業部は重電の親事業部として電力、電力応用を担当し、鶴見、浜川崎、府中、三重、蒲田の五工場を区処し、電機商品、交通、タービン等の関連事業部の技術管理も合わせて見ていた。
 
A やり遂げた技術管理の諸々
 2年8ヶ月の在任中にやり遂げた技術管理の主なものは次の通りである。
@)電機技術委員会を体系的に再編成し、事業展開の柱となるよう態勢を整えた。
A)事業部は典型的な職能組織だったので、製品別利益管理も可能に分権化を推進した。
B)インデント中心から製品、部品の徹底的標準化、業務の標準化、機械化を推進した。
C)技術長期開発計画を策定し、市場企画G、生産企画Gと協同で重電産業の超長期ビ  ジョンを作成した。
D)研究所不要論の重電担当専務が海外出張中に、常務会を通して電機技術研究所を設立。
E)新製品開発、業務合理化等、臨時的なものに対しプロジェクト制を制度化した。
F)技術開発強化の為、アドバンスト・エンジニアリング(AE)セクションを制度化した。
G)不採算機種を中心に、機種整理のルーチンを制定し、幹事会で具体化を促進した。
H)エレクトロニクス技術の進歩に対応して、GEからNC制御装置を技術導入した。
I)以上の重点施策の他、技術力強化に関して種々の施策を講じた。
 以上やりたい事をやらせて貰ったが、その間経営管理のセミナーにも出席させてもらい、又藤井さんの後をついで、電気学会の編集企画やニュース、広告の委員をつとめ、視野が広がると共に、電気学会とも長い付き合いが続くことになった。
 丁度2年たって当時の佐波技師長にローテーションをお願いし、在任2年8ヶ月で昭和45年5月15日に電力応用の第一電機技術部長に就任する事になった。
 
 
 


| Prev | Index | Next |

| ホーム | プロフィール | コラム | 歴史道楽 | 異文化探訪記 | フォトギャラリー | リンク集 | 掲示板 |
| フォト・タイ | フォト・台湾一周 | フォト・山陰旅行 | フォト・アイルランド | 更新情報 | フォトギャラリー |


メールはこちらまで。