我が人生80年間の思い出
(その2) 修行時代:一風変わった思い出 (昭和元年〜25年)
(1) 幼少時代 (昭和元年〜8年)
@ 生まれは荏原郡大井村
当時はまだ東京府下であり、荏原郡大井村というのは、現在の品川区大井町である。尤も大井町も昔は何丁目ではなく、地域毎に滝王子、庚塚、などいろいろな名前がついていた。その後いろいろと地域の名称は変化したが、荏原郡大井村という名称は懐かしい。
A 年齢2度の若返り
戦後、それまで数え年だったのが満年齢で呼称するようになり、皆1才若返ったのは当たり前であるが、私は2度若返った経験がある。というのは年末に大正天皇が亡くなられて、1週間ばかり昭和元年となったが、その12月28日に生まれたという。本人には分からないが父母が言うので間違いないであろう。小学校卒業まではそれで通したが、中学校の受験で戸籍抄本を取ったら、昭和2年1月1日生まれになっていた。理由は分からないが、当時電話はなく、本籍地の群馬県豊秋村役場まで手紙で連絡したため、到着が遅れて役場が勝手に変えてしまったのではないかと思っている。これで1才若返ったので、合わせて2才若返ったという妙な経験をした。
B 九死に一生
いつ頃か定かではないが、2〜3才の頃、疫痢にかかって死にかかったという。勿論本人には記憶はないが、親が言うので嘘ではないであろう。尤も死にかかったのはこの時だけでなく、戦時中の高校時代にチフスにかかり、当時有効な対策が無かったので死にかかったが、絶食して何とか凌いだことがある。現在の肺癌も見方によっては治る見込みが立たないらしい。
C 野原をかけめぐる
これも時期は定かでないが、3〜4才の頃、横浜市鶴見区平安町の新しい団地に引っ越した。父親の会社の工場が鶴見にあり、横浜ゴムの北の広大な野原の中にできた団地で、12軒の同じような家が3軒づつ4列に並んでいた。団地の中は皆仲良しの友達となり、野原を駆け巡って遊び廻った。このため何度か溝に落ち、膝の傷は絶えなかった。しかし自然の中で暮らせたのは幸いで、幼稚園にもいかずに幼少期を野原で暮らした。
(2) 小学校時代 (昭和8年〜14年)
@ 鶴見区潮田尋常高等小学校
後に平安町の自宅の北側に平安小学校が新設されたが、当時はなくて、かなり遠い所にあった潮田尋常高等小学校に昭和8年に入学した。丁度国語の読本が何年ぶりかで変わって「咲いた咲いた桜が咲いた」が最初にでてくる新しい読本になった。当時は1クラス80名いたが、この中で読本を読めるのは15人くらいしかいなかった。しかし尋常科の4年生でも硬式野球が強く、当時1塁を守らせてもらっていたが、鶴見区のいろいろな小学校の6年生と試合しても勝っていた。尤もこれは素晴らしいピッチャーがいたせいであろう。その他2・26事件の時は、休校になって、雪の降る中、野原を歩いて帰った記憶がある。
A 大井第一尋常高等小学校へ転校
4年生の夏休みには、母方の祖父のいた木更津の別荘へ行き、祖父が漕ぐ小舟にぶら下がって沖合にゆき、そこで小舟から手放されて、強引に泳ぐことを教わった。これがきっかけで水泳とは道楽時代まで長いつきあいとなった。
一方孟母三遷の教えだけでなく、父も会社の中で聞いて、将来を考えると進学率のよい所へ移った方がよいと判断されたのであろう、夏休みの終わりに品川区大井町庚塚に戻り、大井第一尋常高等小学校に転校することになった。
B 近所の有名人
庚塚の借家の向かいは河合栄次郎という東大教授だった有名な経済学者がいて、息子さん2人は少し年下であった。戦時中で自由主義的だと批判されていたようであるが、息子さんたちとは仲良くつきあっていた。
又その2軒先には、当時の県知事会長をしていた桑原幹根氏がおられ、こちらの息子さん達とも仲良くつきあっていた。これを見て桑原幹根氏は大礼服を着て、サーベルを抜いて子供達に見せてくれたのを思い出す。
C 麻雀満喫
たまたま父親が出張で支那(現在の中国)へ行き、麻雀のパイを買ってきた。そこで早速小学校の同級生たちと、早すぎたかも知れないが、麻雀に打ち込み、満喫してしまった。このため、後に戦後大学の学寮などで麻雀が大いにもてはやされていたが、そのときはもはや見向く気もしなかった。
D 受験地獄に翻弄される
もちろん勉強するために転校したので、5年生の頃から、受け持ちの先生の家に夜行って受験勉強をいろいろ教わった。又日曜日には青山会館だったか、模擬試験があり、これに参加して、大勢の生徒の参加の中で、成績を競い合った記憶がある。クラスの中では成績がトップになり、卒業の時は総代なった。
ところが実際の中学の受験は惨憺たるものであった。というのは、まず受けたのが当時7年制高校といわれた中学4年と高校3年の一貫校である官立東京高校の尋常科(中学校)であった。倍率20倍位の所、2倍に絞る一次筆記試験には合格したものの、2次面接試験の際、それまで乗ったことのなかったタクシーに乗ってでかけたら、車に酔ってしまい頭がぼーっとしてしまって見事不合格になってしまった。
たまたま真冬であることもあり、ショックも影響したのか風邪をひいてしまい、同じく7年制の府立高校は受験に出掛ける事もできず、続いて府立一中の試験には、クラスの仲間も合格したのに不合格となり、続く私立麻布中学の入学試験にようやく合格する事ができたが、何とも受験地獄に翻弄されてしまった。
(3) 中学校時代 (昭和14年〜18年)
@ 一学期で転校、麻布中学から府立四中へ
当初府立一中に入るつもりであったが、入試に不合格で麻布中学になってしまったが、もともと怠け癖のあるのが原因で、父親が会社の中でいろいろ聞いた所、怠け者を正すには府立四中がよい、ということで、早速猛勉強して府立四中の編入試験を夏休みに受けることになった。ということで麻布中学は一学期しか在籍せず、又その間府立四中の先生の所に勉強に行き、編入試験には無事合格した。これは当時1年の秋に陸軍幼年学校などに行くものがいて、欠員が出ると予想されて編入試験が行われていたものである。
A スパルタ式教育
府立四中(現在は都立戸山高校)はスパルタ式教育で有名であった。数学など予習が原則で、授業時間にはいきなり予習を指示した範囲でテストを行い、これができないと居残りを命ぜられ、放課後居残り教室に行かされた。国語、漢文、作文などは墨と筆で書き、漢文は教科書は伏せて白文帳を作る事が義務づけられ、英語は予習部分の暗記を要求された。又数学でも消しゴムは禁止された。更に毎日日記帳が義務付けられており、体操などでも蹴上がりなど、全員ができるまでやらされた。きつかったが落伍者を出さないのが原則で、スパルタ教育のおかげを蒙った影響がその後の生活に大いに役立ったと思われる。
B 那須修養道場
四中時代の一番の思い出は那須修養道場である。これは那須黒磯の那珂川を含む地域にあり、生徒は1クラス1週間づつでかける。そこでは一切勉強せず、食べ物は全部自分たちで作り、動物や鶏も飼育し、冬の間森で作った薪で風呂を沸かし、最も原始的な人間としての生活を経験した。先生は農業に詳しい方1人で、他に従業員はいなかった。朝太鼓の音で起きて、那珂川に行ってみそぎをしてから、山の上の神社に参拝するなど、思い出深い所であった。
C 大東亜戦争突入
小学校時代から支那事変は始まっていたが、中学3年の昭和16,年12月8日、遂に大東亜戦争が勃発した。このため教練が強化されたり、校長が代わって次第に軍事色が深まり、尊敬する先生達の異動のうわさがでたりしてきた。そこで中学は5年制であったが、高等学校へは4年から受けられるので、できるだけ早く、入りやすく、しかも東大の工学部への進学率の高い高校を狙う事にした。又近所に、後に国鉄総裁にもなった高木さんという先輩もおられて、浦和高校を受験することとし、今度は一度で合格した。尚当時の高校は全国で26校位で、大半が官立であった。
(4) 高等学校時代 (昭和18年〜22年)
@ 運動部別全寮制
旧制官立浦和高等学校理科に合格して入学したが、当時は全寮制で、武原寮と称したが、運動部別になっており、東西各三寮ずつ木造二階建ての汚い寮で、一・二階各五室であった。水泳部はラグビー部、山岳部などと共に東三寮であった。一室は引き戸の入口に一畳の下駄箱があり、その両脇に六畳の部屋と押し入れがあり、3人ずつ計6人が住んでいた。入寮第一夜は伝統的な上級生によるストームに襲われ、その後寮歌の練習をし、更に月見と称して草履で中庭に出て、円陣を作ってデカンショを踊った。
新入生は全国から集まっているので、顔を洗う習慣からして出身地域によって異なり、親元を離れて裸でつきあうのは得難い経験であった。戦後アメリカの教育使節団がきて、日本再起の恐れありと見て、旧制高校を廃止し、逆に自国に取り入れたという歴史があるが、教育制度として現在の六三制より遙かに優れていると今でも思っている。
A 水泳部から海洋班へ
昔の高等学校では、文科が甲(英語)、乙(独語)、丙(仏語)の3組、理科が甲、乙の2組であったが、戦争の激化で、文科は1クラスになり、理科は4組で徴兵延期となった。しかし終戦後かなりの人数が理科から文科に移り、文科は卒業時は2組となった。
又入学時どこかの運動部へ入らなくてならないので、夏だけで楽だろうと思って水泳部に入った。ところが4月からプール掃除をして泳ぎはじめ、予想に反する結果となった。しかし1年の秋には、文部省の指令だとか、敵性スポーツはいけないということで、インターハイを経験する間もなく、水泳部も廃止され、海洋班を作って、水泳部はまるごと、バレーボール部などと一緒になり、月島へ出掛けて、カッターを漕いだり、和船の艪を漕いだりした。帰り道には築地の歌舞伎座に立ち寄り、高見席から一幕覗いたりもした。現在でも水泳部の卒業生の浦泳会があり、又海洋班の会もあるが、同窓会は終了した。
B ジフテリアとチブス
水泳部の思い出もいろいろあるが、1年の2学期、9月に御殿場の滝ヶ原に軍事演習のため廠営に出掛けた。生憎と雨ばかりで演習は殆ど行われなかったが、廠舎は馬小屋みたいな不潔な所で、間もなく伝染病のジフテリアにかかってしまった。昭和医専の付属病院に入院したが、入院当日血清注射しただけで熱は直ぐ下がったのに丸一ヶ月隔離された。 退院してから海洋班に移ったのであるが、昭和19年3月の春休みには、寮に合宿して毎日月島に通って海洋訓練を行った。訓練の合間にクラゲや海草を拾って食べたが、なかなか美味しかった。所が合宿が終わってから皆一斉に下痢をした。四月一日いよいよ二年生になり、新入生のストームをしてから、はじめて浦和劇場の近くの下宿に入った途端に発熱してしまった。そして今度はパラチフスと診断され、伝染病研究所付属病院に丸二ヶ月入院する羽目に陥った。当時は気の利いた薬はなく、空腹にして自然に治るのを待つばかりで、二週間位四十度以上の高熱にうなされ、これを繰り返し、66日入院した最後には、18貫あった体重が14貫を切り、全く骨皮筋右衛門になってしまった。先輩が1人死亡し、その次に重病だったようで、幼児以来三度目の伝染病で又も九死に一生を得た。
C 休学と渋川の田園生活
戦局は次第に不利となり、既に高校は二年に短縮され、しかも二年目は勤労動員で工場で働くことになった。従って今更学校へ戻っても何ら得る所はないと判断し、思い切って一年間休学することにした。
東京にいても食糧難で空襲の危険もあるので、父の郷里の群馬県渋川郊外の農業をしていた叔父のもとへ疎開することにした。叔父の家に世話になりながら、祖父が晩年を過ごした庭先の隠居所に1人で住まわせてもらい、今までとは全く違う田園生活を経験した。自然環境が違うだけでなく、農業地帯であり、また住民の感覚も東京とはかなり違い、その意味では貴重な経験であった。渋川の図書館を利用して、世界文学全集も殆ど読み尽くしたが、ロシア文学を読んでいたら、警察の特高係が叔父の家に思想調査に尋ねてきたのも笑えぬ実話である。又土地の人は殆ど高等学校の存在を知らなかった。昭和20年3月10日の陸軍記念日には東京大空襲があったが、渋川から見ても、前橋方面の上空が夜空に赤々と映えていた。
D 勤労動員
昭和20年4月、上京して復学し、北浦和に下宿した。二度目の二年生となり、約一ヶ月の授業の後、新潟鉄工浦和工場に動員され、鋳物工場に配属された。そこでは戦車のエンジンのライナーを鋳物で吹いていたが、大半が水圧不良で良品率は2%位しかなかったらしい。たまたま病後ということで現場事務所詰となり、工場設備の改善というか、労働集約作業の近代化、自動化設備の製作など素人ながらやらせて貰った。
E 敗戦と投書
昭和20年8月6日は廣島に、続いて9日には長崎に新型爆弾(後に原子爆弾と判明)が投下され、敗戦は決定的となった。東大生の先輩がわざわざ寮にきて、もう戦争は終わりだと教えてくれた終戦前日には、又工場の塀を乗り越えてエスケープし、浅草に映画を見に行った。ドイツ映画「ハイマート(故郷)」を上映していた。
8月15日には終戦となり、天皇のラジオ放送が行われた。最初に心配したのは高等学校はつぶされないかという事であったが、幸いにして存続した。しかし本校舎が空襲で焼かれてしまったので、理科教室を主体に二部授業が行われた。下宿はしたが食事は寮の世話になったので寮外生と呼ばれていた。運動部は自由加入制になったので、時間の自由が欲しくて何部にも入らないことにした。最大の苦痛は食糧不足で、いろいろ工夫した。
当時高校は二年制に短縮されており、間もなく大学の入学試験という事になったが、いろいろと具合が悪いので、当時の総理大臣東久邇宮宛に葉書で投書し、戦争は終わったのだから高等学校の三年制を復活せよと提言した。毎日新聞にも紹介されたが、これをきっかけに各種運動が活発化し、翌年1月には高等学校三年制が復活する事になった。
F 哲学と学業
三年制が復活して余裕ができ、高校とは一体何をする所か考え直すことができた。その答えは案外簡単で二つに絞れた。
一つは高校時代は丁度人生の転換期で、子供から自分で物事を考える大人になりかける時期である。「人生とは何ぞや」をゆっくり考え、多くの友たちと語り合う時期である。真善美を白紙から考え直し、自分の頭で哲学を作り出す事であり、5月の日誌に「我が輩の人生哲学」という記録も残されている。
もう一つの学業は、大学の予科としての役割しかないが、やはり将来の学問の基礎となる過程であり、これを無視することはできない。将来社会的存在として活動するためには、しっかりとした実力をもたなければならず、哲学と共に学業も、高校生活として重要な一端を担うものと考えた。
G 停電と大学入試
高校の最後の頃は当時新宿の西大久保に移っていた自宅から通学した。東京の電力事情が特別に悪く、始終停電していた。そこで停電すると明かりを求めて国電(現JR)新大久保の駅へ行ったり、寒くなると山手線に乗って環状線をぐるぐる廻りながら勉強した。電気の有り難さを痛切に味わった。
大学は父と相談したわけではなかったが、父と同じく、工学部を受けることになり、第一志望電気工学科、第二志望機械工学科、第三志望物理工学科を選んだ。試験は工学部全体一緒に行い、成績順に志望先に振り向けると言うことで三学科選択することになっていた。果たして電気科の倍率は工学部内最高で三倍であった。しかし試験になってみると、物理も化学も図学も殆ど山があたり、数学で一問ミスしたものの、4年間という他人より長い旧制高等学校生活を終えて、無事東大第二工学部電気工学科に合格した。
(5) 大学時代 (昭和22年〜25年)
@ 本邦最大の工学部
入学したのは、東京帝国大学第二工学部電気工学科であった。但し翌年占領軍の指令で帝国の呼称が禁止され、東京大学になり、官立と言わず国立と呼称された。東大の工学部も元は本郷にのみあったが、戦時中の技術者養成の必要性から、昭和16年、本郷の工学部を第一工学部とし、西千葉に広大な敷地を持つ第二工学部を設立したものである。第一と第二で若干学科構成が異なるが、電気工学科など主要学科は両方にあり、入試の成績順に交互に振り分けて均等化を狙ったという。しかし地方からきた連中は本郷のつもりが外れて不満をもらしていた。しかし、私たちの次の昭和23年で入学試験が打ち切られ、昭和26年卒業と共に第二工学部は消滅し、学生のいない生産技術研究所になった。
A 学寮生活と芋作り
最初新宿から電車で通っていたが、家が鎌倉に引っ越したので、直ぐ大学の近くにある学寮に入り、高校に続いて学寮生活となった。しかしこちらは一部屋2人であり、学科の違う人とも一緒になり、交友を深めることができたのは幸いであった。食堂のピアノを利用して庄司君からベートーベンの月光の曲の弾き方を教わったのが印象的である。
大学の授業は最初から専門用語が多くて多少面食らったが、一クラス40人で、4人ずつ組んで実験を行ったり、専門が同じなので、生涯交友関係が継続した。当時は電気・電子・通信・情報の区別無く、そのすべてを包含した電気工学科であった。
昭和22年入学当時は食糧難で、学寮の食事で砂糖しかでない程の変則的なものであった。そこで広い校庭を利用して、1人100坪貸してくれ、苗も供給してもらって薩摩芋を作って食事を補った。人によっては出来過ぎた薩摩芋をあちこちで売るのに時間をとられて留年した。又千葉神社で闇米を買って警察に捕まったこともある。
B 学友会、学生大会
第二工学部には、学友会として弥生会という団体があり、そこの役員となった。杉村春子を呼んで1人芝居をやった事があるが、東大が千葉にあるとは知らなかったとこぼされた。そのせいでもないが、本郷の広い教室を借りて、当時一流のピアニスト、ヴァイオリニスト、声楽家など呼んで音楽会をたびたび開いた。そのお礼に、お金の代わりにリュックサック一杯の薩摩芋を差し上げて、却って大変喜ばれてしまった。
学寮の寮生大会の議長もやったが、学生大会の議長も経験した。こちらは当時授業料値上げの動きがあり、学生は勿論値上げ絶対反対の運動を展開し、当時の学部長であった同じ電気工学科の瀬藤教授と全面的に対決してしまった。実はこのことが職業時代の一つのエポックになるが、内容は職業時代で述べることとする。
C 技術者の戦争責任
たまたま極東軍事裁判が行われ、軍人だけでなく、政治家も戦争犯罪人として処刑された。これに対して学内でも若い先生方と技術者の戦争責任について話し合う機会があった。先生方のご意見は、力及ばず負けたのは残念であるが、技術者として、国民として協力するのはあたりまえで、別に犯罪でも何でもない、ということで成る程と思った。
又本郷にでかけて何度か社会主義研究会を覗いて見たが、徒に批判的で、建設的議論が全くないのに呆れて、以後全く関係を断絶した。
それより戦後の復興を果たすには、技術者の奮起が絶対必要だと確信し、以後授業や実験に全勢力を傾注した。
D 各方面での実習
当時の大学は3年制で、3年の夏休みには工場や発変電所などで実習することになっていた。しかし大学と違って現場とはどのような所か非常に興味があったので、1年の夏休みから実習にでかけた。1年の時は、家が鎌倉に移っていたので、芝浦製作所の大船工場で旋盤やフライス盤など機械加工の実習をさせてもらった。2年の時は、日立製作所の戸塚工場へ行き、電話用リレーの試験をやらせてもらった。3年になって、正式の卒業実習として、榎村君と東芝の鶴見工場へ行き、2人とも高電圧を卒業研究でやることになっていたので、避雷器の衝撃電圧試験をやらせて貰った。
どこの現場も大学とは雰囲気がまるで違い、現場の工員さん達と話し合う機会もあり、今までにない経験をすることができた。帰宅してから海水浴客のいなくなった鎌倉の海で、夕日を浴びながらのんびり泳ぐのは気持ちよく、大自然の中の孤独の楽しみにひたるのが日課のようになった。
E 卒業研究
卒業研究は高電圧の藤高研究室に入り、「捲線における衝撃電圧伝搬特性の研究」を行った。千葉の材木屋から細長い角材を仕入れ、表面を絶縁物で掩った上にエナメル線を巻き付け、これにインパルス電圧を加え、途中数点の電圧波形をブラウン管オシロで観測するものであった。なかなか満足なデータがとれず、三年の二学期から三学期にかけて、毎日、毎晩、研究室で実験したり理論検討したり、あっという間に時間が過ぎてしまった。後年親父の卒研を尋ねたら、「衝撃電圧の陰極線オシロによる観測」で、知らぬ間に親子二代似たようなことをやっており、当時の技術革新のスピードが遅かったのを痛感した。
F いよいよ就職
卒業研究も目処が付き、さて就職となったが、日本はまだ復興しておらず、就職難で電力会社だけでなく日立、日電、富士通なども新規採用はなかった。教室には採用希望通知のあった会社名の一覧表が張り出され、学生はそれぞれ希望する所に記名して待機し、主任教授の星合先生が、各社と相談して適任者を送り込み、私は東芝を希望し、友人の遠慮で無事推薦されることになった。以上で長い修行時代を終え、いよいよ実社会に入って滅私奉公の職業時代を迎えることになったが、最後まで旧制教育を受けられ幸せであった。
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