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![]() 主に、教会の機関紙「三育はこぶね」に掲載されたメッセージや証しなどをご紹介したいと思います。
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| [2] 「礼拝出席者を10%増やすために」 | ||
去る一月に開催された全日本牧師会のテーマは「礼拝出席者を10%増やそう」でした。現在のSDA教会礼拝出席者数は6000名で(什一:年間総額12.5億円)、日本のキリスト教会では5番目の教勢とのこと、小さいながらがんばっているようです。それにしてもクリスチャン人口2.8%ではあまりにも微小な団体です。教団伝道局は「誘える教会、誘う教会員」を表示して伝道作戦を展開し、西日本教区も「みんな笑顔の感動教会」をテーマにして教会の元気を願っています。日本伝道は決して容易ではありません。他教派も苦労しています。それでももう少し工夫し、みんなで働けば年間バプテスマ数を400名にできるのではないでしょうか〔2007年は300名にも達しないのではないかと心配していました〕。
牧師会の間にグループに分かれたデイスカッションの時間が3回ありました。各グループの報告で、牧師たちが現実に教会出席者が多かったケースとして挙げた二つの提案が印象的でした。その一つは「もてなし」、そしてもう一つは「礼拝特別プログラム」でした。もてなしとはお客様を歓迎する挨拶、受付の魅力、お昼のお食事会、特別プログラムとは音楽礼拝、信徒の証しなど変化に富んだ集会です。つまり、教理中心の説教以上に楽しい教会を印象づける企画が大衆を惹きつけるというのでした。
広島三育学院教会は地域の皆様にどんな雰囲気を与えるでしょうか。楽しい、歓迎されている、行ってよかった・・・・・そんな好感を与える教会づくりを今年は目指したいと祈ります。皆様のご協力をお願いします。
(「三育はこぶね」195号より、 曽根田健二牧師記)
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| [3] 主に信頼して | ||
フィリピン留学を終え、東京・天沼教会に配属されてからわずか十ヶ月で(広島三育学院への)異動の話しをいただいたときにはただ驚くのみでした。異動に伴う経済的・心理的・時間的犠牲を強いられる状況に、わたしたち夫婦は取り乱しました。子供たちも過敏にそれを感じたようで、環境の変化もあってか、落ち着かない日々を過ごしておりました。個人的には、東京で発症した気管支喘息のような胸苦しさを引越し後まもなくして自覚し、健康面で不安を抱えることにもなりました。(少しゆっくりしたいなあ・・・)と思っても時間は待ってくれません。
中学校チャプレンとしての働きは、年度内でももっとも長く行事の多い二学期からのスタート。授業を受け持たなければならないし、慣れない諸集会には困惑することしきりでした。もちろん、二学期開始早々、二週にわたってバプテスマ式がもたれる安息日を過ごさせていただいたのですから感謝です。しかし、一方では秋期祈祷週の準備や実施などでつぶれそうになっていたのが正直なところです。(執筆時点で)赴任してからたった一ヶ月余りですが、よくここまで切り抜けさせていただいたと感じております。その実感の中ではたと気づいたのです。取り乱すあまり、神様からの恵みがたっぷりと注がれていることを見落としていたと。こんなにたくさんのよき隣人、同僚に囲まれているのに、それに気づかないほど浮き足だっていたのですね。そして、マルタのように必要なただ一つのこと---
イエス様の足下にひざまずくことが欠落していたと感じました。
わたしたち以上にわたしたちのことをご存じのお方が、いつも共にいてくださるのですから、もっとイエス様に信頼していいんだなと、あたりまえのことですがなんだかホッと一息つけた感じです。自分に課せられたことばかりに埋没しがちだからこそ、わたしたちの真の必要に過不足なくおこたえくださるお方に信頼したいと思っております。そういえば、「信ぜよ、神はすべてなしたもう」が毎朝もたれる教師礼拝のテーマソングです。
(「三育はこぶね」194号より 藤森大輔中学校チャプレン記)
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| [4] 証し 「告知」 | ||
《前編》 昨年の9月末、私は癌を宣告されました。右胸に3ヵ所の癌が見つかり、すぐに手術。その後、2度の手術を受けて、半年間の闘病生活を送りました。3月6日に最後の抜糸が終わり、3月末からの職場への復帰の許可も出ました。半年の間に、10月、12月、2月と一ヶ月おきに手術を受け、入退院を繰り返しました。
今は、自分で運転して礼拝に出席することができるようになりましたが、摘出手術から3ヶ月間は運転が全くできず、岡山にいる次男が講義の合間を縫って帰って来て、礼拝に連れて行ってくれました。元気な時は、礼拝なんていつでも行けると思っていましたが、退院時も体調がよくないと礼拝に出席することができず、1回の礼拝がとても貴重に思えました。
私は、半年間無職で、3月末から職場復帰しましたが、30年近く仕事をしてきて、病気で現場を離れたことがなかったので、半年間は本当に辛い日々でした。手術の前は、神様に「命をお助けください」と祈りながら、手術が終わると、まずは「命がある」ということに感謝しなければいけないはずなのに、早く働きたいという「わがまま病」が出ていました。さすがにその時は、自分で自分の身勝手さにあきれましたが・・・。
昨年の9月、病院に検査結果をききに行き、医師から「癌です」と言われた時、映画やドラマのように、その瞬間、頭の中にバッハやベートーベンが流れると思ったのですが、とても冷静に「はい、分かりました」と答えていました。
その場で入院と手術の日取りが決まりましたが、自分が癌だということよりも、「2学期が始まったばかりなのに・・・研究公開が目前に迫っているというのに・・・」などと、仕事のことが頭の中をぐるぐる回るばかりで、手術ということが何か人ごとのようでした。
手術前の説明では、もし転移が見つかれば、最悪の場合、右手は全く動かせなくなるということでした。そうなれば仕事は諦めなければいけないと言われ、癌を宣告された時以上のショックでした。でも神様は私を救ってくださいました。転移は見られず、抗がん剤治療も受けなくてよいことになりました。
10月2日、第1回目の手術。目覚めた時は痛みも苦しみもなかったのですが、直後に過喚起症候群(過呼吸)を引き起こし、手術の痛み以上の苦しみを味わいました。体力をずいぶん消耗しましたし、おまけにまた引き起こすのではないかという恐怖感。体中に点滴やいろいろな管をつながれ、身動きできず苦しい2日間でした。
3日目から少し動けるようになり、まず聖書を読み始めました。強い痛みの中、今までにないほど、一生懸命読みました。とはいえ、右手が自由に動かせないので、聖書を開いたりめくったりも一苦労です。元気な時は、ページをめくるという何でもないことが、こんなにも大変だとは・・・。お祈りも欠かさずしました。
手術後、朦朧とした意識の中で、一生懸命お祈りしました。その祈りは、最初から最後まで感謝の言葉を繰り返しました。生かされていることに、ただただ感謝でした。神様に守られて今の自分があることに、心から感謝しました。朝目覚めた時から、眠る前のお祈りまで、心を込めて祈りました。
食事ができるようになると、食前のお祈りも三度三度欠かさず一生懸命しました。病棟では最年少の私。病院で「若いね」と言われるほど悲しいことはありませんが・・・。同室の人は、88歳と84歳のおばあちゃんでした。お二人とも身軽には動けませんから、歩けるようになった私は、代わりに売店に買い物に行ったり、チャンネルを替えたり、花の水替え、話し相手になったりと、介護ボランテイア(!?)に励む日々でした。
右手の不自由な私でも、元気な足と左手がありますから、小さなことでも人の役に立てることは喜びでした。反面、入院中にひどい不眠症になってしまい、夜も昼も眠れないのです。これは本当に辛いものでした。
そんな中、入院中の心の支えは、天野校長先生とプロ野球ソフトバンクの王監督(私が小学校3〜4年生頃からの大ファン)の闘病の姿でした。病気を跳ね返す強い精神力と精力的な仕事ぶりに何度も勇気づけられました。昨年1年間は、検査や入院が相次ぎ、礼拝への出席回数も今までで一番少なかったのですが、1月は天野校長先生のお話で1年がスタートし、11月はちょうど退院していて、思いがけず校長先生のお話を聴くことができ、そのお元気な姿にまた闘病の元気をもらいました。
《後編》 退院してからは、痛みに耐えながら身の回りのことを少しずつやっていきました。とはいえ、右手を動かすことができないので、家事はほとんどできませんでした。寝たきりの日々です。少し動かせるようになっても重い物を持つことができません。箸より重い物の持てない「箱入り主婦」状態なのです。全ての用事を右手に頼ってやってきたので、左手は簡単なこともおぼつかないのです。特にフライパンを左手で持つと、右手のどこかしこに当たり、右手の甲や手首はやけどで水ぶくれが絶えませんでした。
終末、岡山から次男が帰って来て、掃除機をかけたり、風呂掃除をしたり、ずいぶん助けてくれました。また、運転のできない私を礼拝に連れて行ってもくれました。(県内にいる長男は、卒論と国家試験の勉強で動きがとれないため)
そんな中、11月の礼拝で、天野校長先生のお話を聴いたことで、2度目の手術への勇気がわいてきました。
12月。2度目手術。今回は同室の人も自分で動けるため、援助は必要ないから静かな入院生活だと思っていましたが、看護実習生が配置され、練習台になったり、質問に答えたり話し相手になったり、気分の忙しい入院生活でした。6月には職場で教育実習生を担当しており、今年はよくよく実習生さんに縁があるなと思ったものです。
私がいた病棟は、70〜80代の患者さんがほとんどなので、2回目もまた私が最年少(?)だったようです。看護師さんが病室に来られると、「この部屋に来ると、やっと若い人(?)に会ったという気がするよ。まわりは全員おじいちゃんやおばあちゃんだからね」と笑っておられました。
どうりで、廊下を歩いていると、車椅子に乗ったおじいちゃんや松葉杖のおばあちゃんが話しかけてこられ、同じ話を何度もされるのですから、丸い顔をしてすいすい歩いている私は、格好の話し相手だったのでしょう。この時もちょっとは人の役にたてかかも・・・。
年が明けてからは、1月5日から通院再開。3度目の手術も決まり、お正月気分は吹き飛びました。しかし、3ヶ月間、通院以外で家を出たことがなかったので、礼拝に自力で出席できるようになったことは、大きな喜びでした。こうしてまた教会に行くことができるようになり、喜びもひとしおです。
この半年間、身体的には痛みとの闘いで、不自由な思いをしましたが、「生きること」や「命」については、何度も真剣に考えました。
2月3度目の手術を受け、3月6日に最後の抜糸が終わりました。半年間の闘病生活の間、1ヶ月おきに3度の手術を受け、その度に全身麻酔の恐怖との闘い、右手の不自由な生活と苦しい日々でしたが、復帰のめどがたった時は、本当にうれしかったです。
今も手術後の痛みがあり、右手でできないことがたくさんあります。冷蔵庫のドアを開ける、炊飯器のふたを閉める、お米を研ぐなど、何でもないことに痛みがはしります。
今まで何でも利き手の右手でやってきたので、左手の不器用さにいらいらしっぱなしでした。でも、自由に使えなくなって初めてそのありがたさに気づきました。ネイテイブアメリカンの人たちのお祈りは、「神様にありがとう。手をありがとう。目をありがとう。すべてをありがとう」という感謝の言葉だそうです。
ああ、本当にそうだ。両手が思い通りに使えて当たり前、生きていて当たり前。今まで当たり前のように酷使してきた自分の体の一つ一つや、たった一つしかない命がこれほど大切に思えたことはない半年間でした。
サインズ2月号に、村沢秀和牧師が「私たち人間の思いをはるかに超えて、一人ひとりの人生に神が深く関わってくださっている。しかも、まだ母の胎に造られる前から、それは始まっていた。そう思うと、この私の命って何なのだろうと不思議になります。そして、自分が思っている以上に、この命には意味があるのだと思えてきます。神はあなたが生まれてくるのを、本当に心待ちにしていました。このことをどうか、忘れないで下さい。あなたの命の始まりなのです」と書いておられます。
この言葉を読んで、私は生きているのではない、生かされているのだと強く感じました。病気を通して、神様の存在を更に身近に感じることができたこと、今、生かされていることに改めて感謝しています。
3月20日、私がバプテスマを受けた日からちょうど3年目を迎えました。その日を無事に迎えられることに心から感謝しています。
神様によって生かされている私は、感謝の心を忘れず、仕事に復帰しました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」。 (テサロニケ人への第一の手紙 5:16〜18〉
(「三育はこぶね」192号より、 的場恵子 記)
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| [5] 広島三育学院創立30周年 | ||
2007年10月5日より7日の三日間(金〜日)、私どもは創立30周年記念行事を計画しています。皆様のお出でをお待ちしています。
思えば、千葉県楢葉から大和町に移転したのが1977年。現地調査に訪れたころは新幹線が岡山までのため、東京からは寝台特急“あさかぜ”を利用して早朝の5時半に三原に到着、山陽本線に乗り換えて河内駅に着きました。開校時にはやっと新幹線三原駅がオープンしていて、以来生徒の帰省、帰校はすべて“国鉄”利用でした。しかし今では学校から30分のところに広島国際空港が開設され、北海道、関東、沖縄などからの生徒はもっぱら空港利用です。おかげでPTAにも保護者のご家族が多く参加されるようになり、東京方面への出張も便利になりました。
学校の広島移転は吉村千代子さんの文書伝道がきっかけです。大和町を訪問された同姉は、教育長を経て町長になられた加賀美正孝氏に「教育」をお渡しになりました。「教育」に感動された加賀美先生は、三育学院が折から学校移転の候補地を探していることを知り、横浜の教団、三育学院を訪ね、さらに宮沢県知事を動かしてシンガポール、ワシントンのSDA本部にも英文書簡を送って誘致に奔走されたのでした。学校関係者は候補地の紹介を受けた岩手の牧場、四日市の山岳部など見て回りましたが、理想の地には思えず、行き詰まっていたところでした。
“三育好き”の加賀美先生は引退後、安息日ごとにログチャペルに出席されてバプテスマを受けられました。
そして奥様も一昨年、教会員になられました。
すべては神のお導きでした。
(「三育はこぶね」190号より、 曽根田健二牧師 記)
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