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![]() 主に、教会の機関紙「三育はこぶね」に掲載されたメッセージや証しなどをご紹介したいと思います。
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| [12] ”人生いろいろ” | ||
小泉首相がある緊迫した国会のやりとりの中で「人生いろいろ」と答弁して、「不謹慎だ」と批判されたことがある。歌謡曲の題名を例に挙げたのだと思うが、本人は一向に気にせず怒号を受けても知らぬ顔でやり過ごした。
世の中には確かに奇妙な人がいる。香港のテレビで、ある牧師が動物園の檻の中に入り込んでほえるライオンに「悔い改めよ、天国は近づいた」と説教しているのを放映していた。混雑する横浜線の通勤電車の中でネクタイをしめた身なりのよい会社員が声を張り上げてオペラを歌っていた。周囲の人は何の反応もしていない。突然、座っていた私のところに近寄って来て「お宅はなぜそんな地味なネクタイをしているのか」と妙齢の奥様に詰問された。静かな電車内でみんなに聞こえるような大声で声を掛けられて返事に困ったことがある。隣にいた若者が向かいに座った奥さん風ふたりに「僕はマンガを読んでいる、オバサン、静かにしていてくれ、集中できない」と文句を言い、二人はいやな顔をして次の駅で降りた。日ごろ、大和町の山の中にいるので都会に出ると何もかも珍しく、驚くことばかり。刺激が多い。
以上は、自分にマイナスでないから気にしないが、エレン・ホワイトもミニストリー・オブ・ヒーリングの中で、私たちのまわりにいろいろな人がいることを述べて、「高尚な人、粗野な人、謙遜な人、宗教的な人、懐疑的な人、金持ち、貧しい人がいる。こうした人々を一様に取り扱うことはできない」と書いている。そして「感情をたやすく害してはならない」「人々への不満やいやなところをできるだけ見ないで、その人の品性や生活をほめるようにしなさい」と勧めている。もしもいろいろな人がいることで悩むことがあれば、ミニストリー・オブ・ヒーリングの終章に近い「他人との接触」を読むことをお勧めしたい。私はこれらの言葉に何度も助けられたから・・・・。
(「三育はこぶね」184号より 曽根田 健二 牧師 記)
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| [13] 「とりなしの祈り」 | ||
「先日妹に殻のついたドングリをもらいました。途中の山で拾ったとのこと。いつも家の中で過している私には最高のプレゼントです。お手紙ありがとうございます。生かされている喜びとありました。私にはよく神仏に、自分にこれ程の不自由と苦痛を与えて、何を教えようとしているのかとか、どんな悪事を働いてこのようなひどい罰を受けているのかなど、恨み心一杯で尋ねてみたい心境になります。その反面、嬉しい事や有り難い事があると、生かされていて良かったなどと勝手な事を思っている自分もいます。最終的にはこの現状が私に課せられた運命だと諦めて、自分との折り合いをつけています。今は今日一日を悔いのないものにするだけが精一杯の私です。またお便りをさせてくださいね。」
この方に出会ったのは、ご子息の結婚式の時でした。最前列に四肢マヒ用寝台型車椅子のこの方をみて感銘を受け、言葉をかけました。以来この方の救いと平安を祈り続け、文通も続いています。その便りを紹介します。
「今日はとても嬉しいお知らせをします。先日、夫婦で義父のお見舞いに山口の病院まで行きました。実は夫の両親とは折り合いが悪く、病気を理由に一度も会っていません。ただ言い訳に障害者用パソコンで月二回近況報告を送っていました。しかし心の中では、これではいけないと自問自答していました。今回見舞いの話が出た時、このチャンスを逃したら一生後悔すると強く思いました。病室で再会した義父母はかつての面影・勢いもなく、顔色はさえずやせていました。突然の見舞いに驚きながら、涙を流して喜んで下さいました。帰り際に握手をし、再会を約束しました。時間と病がお互いの凍りついた心を優しくいやしてくれました。当日は親孝行とドライブができて心地よい疲れと共に床につきました。」
とりなしの祈りを主はきいて下さいます。この証をきいて、とりなしの祈りはやめられなくなりました。
(「三育はこぶね」183号より、渡辺 恒義 名誉牧師 記)
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| [14] 「この最も小さい者の一人に」 | ||
今年の7月末に行われた毎年恒例のVBSで、残念なことに交通事故が起きてしまいました。主催者である私たちが安全確保を怠ったことから起きてしまった事故であり、今後の継続開催に向けて見直しを迫られているところです。その中で、今回、何故このようなことを神様がお許しになったのだろうかと考えさせられたのですが、一つ気づかされたことは、私自身の目が集まってくる子供たち一人一人に向いていなかったということです。
これは神学科で教わったことなのですが、私たちの教会で集会を開く目的というのは、ただ一つであって、それは、そこに集まってくる人々に出会うということです。一人一人に目が向かなければ、プログラムを行う意味はないということになります。ところが今回、そのことを忘れてしまい、ただ3日間を無事に終えることしか考えていなかったということを、事故に遭った子のお見舞いに足を運ぶたびに思わされました。
私たちが対外的な働きを計画する際、まず周りの人々がこの教会、或いは学校に対して良い印象を持ってくださるようにということを常に意識すると思います。もちろん、それは大切なことです。しかし、それよりも先に私たちが覚えておかなければならないことは、この教会という場所が、神様が召された羊たちが集い、その一人一人が神様と出会い養われる場であるということです。私たちの教会は「社会全体からこぼれ落ちて、もう受けとめてくれる者もいなくなったとき・・・そこからこぼれ落ちる者を・・・受けとめることができる」場である必要があるのです(工藤信夫『これからのキリスト教』36頁)。
私たちの教会は、すべての人にイエス・キリストの福音を伝えるという使命を達成しようと熱心になるあまり、最も大切なことを犠牲にするようなことがあってはなりません。最も大切なこと、それは、「この最も小さい者の一人」(マタイ25:40)に目を向けることです。一つ一つの魂に目を留め、その救いのために喜んで奉仕する者でありたいと思います。
(「はこぶね」182号より、高校チャプレン 浦島靖成 記)
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| [15] 「花」のある人生 | ||
「初心忘るべからず」という有名な言葉があります。この言葉は世阿弥という日本の古典芸術の一つである能を大成させた室町時代の人物が、独自の能芸論を書いた「花鏡」という著書の中に残した言葉だそうです。入学式や入社式などで「今の新鮮な気持ちを忘れることなく頑張ってください」という励ましの意味で使われることが多いそうですが、実はもっと深い意味があるそうです。
世阿弥は能には「花」がなければならないと考えていました。能においては上手いか下手かよりも、「花」があるかないかということが大切であり、この「花」のために「初心」は欠かすことができないと世阿弥は考えたのです。「初心」とは単なる新鮮な気持ちだけを意味するのではなく、「物事を始めたばかりの上手くいかない惨めさ」や「他に何も手につかないほど没頭してしまう情熱」をも含んでいるのです。
わたしは今年でクリスチャンになって10年という年を迎え、この節目の年に三育学院短期大学で宗教週間の奉仕をさせていただきました。この働きが決まってから、たくさん悩み、苦しみ、不安に出会いましたし、今日の自分があるのはこの学校に入学したからだと常々思っておりましたが、再びキャンパスで数日を過ごすことによって「初心」を思い出すことができたような気がします。心の奥深くに眠っていた様々な良い思い出や苦しい思い出がよみがえり、それと共にその一つ一つの出来事の背後に神様がおられたのだということを改めて確信することができました。
「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」〈ヨハネの黙示録 2:4,5)
クリスチャンにとっての初心を忘れることは、初めのころの愛から離れることであり、「神様を知ったときの感動」や「神様とであったときの喜びを忘れてしまうことです。「初めのころの愛」にとどまるとき、自分の醜さや汚さにも向き合わなければならないでしょうし、思い出したくない失敗談もあるかもしれません。しかし、そんな自分を丸ごと抱え込み、受け入れてくださった神様の愛を忘れずに生きるときに、「花」のある人生を送ることができるのではないでしょうか。
(「はこぶね」181号より 中学校チャプレン 青木泰樹 記)
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