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![]() 主に、教会の機関紙「三育はこぶね」に掲載されたメッセージや証しなどをご紹介したいと思います。
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| [32] おつきあい | ||
イエス様は、積極的心構えによって生きられたお方です。この生き方は、肉体的、精神的健康、使命、奉仕への熱意を生むうえで重要な役割を果たします。
「全ての面において、私は日々成長しつつある」。 このような言葉を日々朝に夕に繰り返すことは、決して無意味なことにはならない、この人生観は、人生の良きものを、自分の方へ引きつける恵みを与えてくれます。
「新しいぶどう酒は新しい皮袋へ入れるべきである」。イエス様の教えは、イエス様と同じ積極的心構えの人生の歩みの中にこそ成就するのです。
持って生まれた不幸について、どんなに不平を述べてもおかしくない人がいるとすれば、それはヘレン・ケラーであろう。彼女は、生まれつき耳が遠く、口もきけず、目も見えなかった。しかし、彼女は積極的心構えの人生を生きることにより、触れるというたった一つの手段によって、彼女は他人と心を通じ合い、愛し愛される幸福を味わったのです。彼女は、良いものと、望ましいものだけを分かち合ったため、良いものと、望ましいものだけを引き寄せることができたのです。
ステキなおつきあい、それは積極的心構えの中から生まれてくるものなのです。
(「三育はこぶね」114号 向井勝治牧師記)
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| [33] ありがとう | ||
とても感動した話を二つ。闘病の末、応答しなくなった夫の苦しそうな姿を見て、姿勢を変えようとした時、夫の手に触れました。その時、意識のないはずの夫が、はっきりと「ありがとう」と言ったそうです。大正生まれの日本男子がめったに妻に言わない言葉でした。しかし妻にとって、今までの苦労が喜びに変わり、生きる力を与えた一言でした。
「ありがとう」は、「愛している」を百回繰り返す以上の力があります。日本の男として妻に「愛している」はどうも言いにくいのですが、「ありがとう」は言えます。ごはんの支度をしてくれたら「ありがとう」。一日の仕事が終ったら、「ご苦労様」と共に「ありがとう」。元気で丈夫なわが子に「ありがとう」。「ありがとう」は、夫婦・家庭の潤滑油です。
もう一つ、少年Aに愛娘を奪われた神戸の母の本、『彩花へ、生きる力をありがとう』。死にたいと思う程苦しむ母には、憎悪、絶望が普通です。それなのに、この母は「ありがとう」と言うのです。その理由をこう書いています。「苦しみの中から、どうやって人間の信頼を回復できるのかと努力することこそ、亡くなった者の人生に意味をもたらす」と悟った時、娘の死が母の生きる力になりました。死んだ娘が幸せかどうかは、残された自分が決めるというのです。娘の遺影に「ありがとう」と語りかける母の姿に最高の愛を見ます。
一番身近な人に、「ありがとう」。何もしてくれなくても、「ありがとう」。ひどい仕打ちをされた時にも、「ありがとう」。「ありがとう」は愛の言葉です。
「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。そのうちで最も大いなるものは、愛である」(新約聖書「コリント人への第一の手紙」13:13)。
(「三育はこぶね」128号 渡辺恒義名誉牧師記)
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| [34] 主の光の中に | ||
僕は、一昨年の11月まで、約1年7ヶ月ほど、トラックのドライバーをしていました。ある日突然、自律神経的な発作が起き、病に苦しみ半年以上仕事ができませんでした。そこで弟に「1ヶ月ほど神戸に行かんか?」と誘われ、去年の6月神戸のある宅急便でアルバイトを始めました。つらいのをガマンしながら、1日4時間ほど荷物の振り分け作業をやっていました。そして、1週間が過ぎた頃突然、「有野台教会へ一度行ってみんか?」と言われ、バイクの後ろへ乗せられ教会へ行きました。そこでは、みんなの目と笑顔、流れる賛美歌にものすごくひかれるものがありました。1週間が過ぎた頃、弟に聖書とボールペンとノートをもらい、「山本勝司先生に聖書研究をしてもらうよう頼んどる」と弟に言われ、今度はワーゲンでいざ教会へ。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」その意味を教えてもらいました。これがSDAに入るきっかけでした。
1994年6月も終わりに近づき、「福山に帰っても毎週土曜日教会へ行くんよ。広島三育学院教会があるんじゃけい」と弟に言われ、神戸を去り、福山に帰って体調もよくなった頃、仕事を探し、カイハラ(株)へ入社しました。
広島三育学院教会へ行き、森田牧師との出会いがありました。やはり、みなさんの目と笑顔には、すごくひかれるものがありました。そして、聖書を勉強していくうちに、1年4ヶ月過ぎ、11月4日の秋のすばらしい暖かい日、太陽と雲と空、中学生のプラスバンドに囲まれ、気合が入り、言葉では言い表せない感動でした。
本当にみなさんのおかげでここまで来ることができ、ありがとうございました。
そして11月5日、次の日は快晴の青空でした。その太陽の光とライトブルーの青空は、主の光のように感じました。
(「三育はこぶね」101号 I 兄の証し)
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| [35] ラクイ・ジス・オールド・マン | ||
ヒルズバーグ大学の学長であったウイリアム・C・グレンジャーと教え子の大河平輝彦がSDAの使命を携えて横浜に足を降ろした1896年から溯ること19年。1877年4月16日、もう一人のウイリアムが札幌を去った。ウイリアム・S・クラークである。彼はマサチューセッツ州立農科大学の学長であったが、彼もまたグレンジャーと同じくその職を捨てて来日、札幌農学校教頭として、北海道開拓に深く関わった。その働きはわずか8ヶ月間に過ぎなかったが、彼の残した影響力は著しく、内村鑑三や新渡戸稲造の生涯を決めたと言っても過言ではない。
このクラークの名句「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ大志を抱け)」に続く次の言葉については諸説あるようだが、「ライク・ジス・オールド・マン(この老人のごとく)」が正しいようだ。10代の少年達に向かって、50歳の自分のようになってほしいと語るとは、クラークは何と自信に満ちあふれていたのだろうか。自分を手本として提示できるなんて、失敗ばかりの私にはうらやましい限りである。
しかし、この「自分のようになってほしい」という言葉こそ、今、SDAに必要とされる精神ではないだろうか。キリストは「私が行ったようにあなたがたも行いなさい」と勧め、パウロもまた「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話しを聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」(使徒言行録26:29)と言った。
救われた喜びに満ちたSDAでなければ、伝道に自信をもてない。正しいだけではなく、愛に満ちたSDAでありたい。SDAであることに自信をもち、クラークのように胸を張って、キリストに倣う「私のように」なってくださいと周囲の人に語ることができたら、伝道はもっと進むに違いない。その時グレンジャーの志は果たされる。
(「三育はこぶね」106号 斉藤愛輝先生記)
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