メッセージ&証し
主に、教会の機関紙「三育はこぶね」に掲載されたメッセージや証しなどをご紹介したいと思います。


| Back | Index | Next |

 [36]   私らしく生きる道
 
          神様の大きな御手の中で
         
          かたつむりはかたつむりらしく歩み
         
          蛍草は蛍草らしく咲き
          
          雨蛙は雨蛙らしく鳴き
          
          神様の大きな御手の中で
          
          私は私らしく生きる
 
 
 これは、水野源三さんの「生きる」という詩です。水野さんは、多くの障害を持った方で、自分の意志を表現できるのは、まばたき一つだけです。体に大きな障害を持っていても、神様の大きな御手の中にあっては、「私は私らしく生きる」ことができると、生きる喜びを歌っています。
 
 人生には答えが一つしかないと考えている人には安らぎがないと言っているようです。挫折や失敗をしたり、自らが望まない環境に置かれた時も、これで私の人生はおしまいだ、と思い込むのではなく、そこから自分だけの新しい道が始まるのだと教えています。
 
 人生を何一つ失敗もせず、大きな挫折も味わわないで生きている人もあります。それとは反対に、失敗や挫折、望まない環境は、かえって全く新しい自分や喜びを発見する時にもなります。そしてその時、「私らしく生きる道」のスタート地点に立っているのだと、水野さんは教えているような気がします。
 
             (「三育はこぶね」118号 大城 豊先生記)
update:
2008/06/05

 [37]   自分の皺(しわ)を見ながら考えた事
 このところ鏡で、すっかりおじさんになってきた自分の顔をぼんやり見ていると、ああ、段々本当に確実に老けてきているな。新しく白髪や皺を発見するたびに、先輩たちが溜め息混じりに言っていた事が、こういう淋しさなんだと思い、自分の皺を優しく指で撫でながら伸ばしてみるのです。そんな私をいたわるように次の言葉が慰めてくれます。「いい歳だよ、40代というのは。40になったら顔にいい皺ができるように頑張りなさいよ。楽しいだけの人生では、顔にはいい皺はできないから。悲しいことがあっても、それをやり過ごして頑張って、楽しいことがあったとき、やっと一本の皺ができるんだから」と・・・。
 
 確かに、確実に私たちは一つずつ歳を重ねていきます。そしてシワがジワジワ増えていきます。しかしこの言葉のごとく誠に、いい皺といい汗で幸福は手に入るのです。人生とは、皺と汗の人生なのです。だからシワアセなのです。(失礼しました)
 
 父や母の顔を見ていると、自分が少しずつ親に似ながら老いていってることがわかります。そして、親の顔に刻まれた皺を見ていると、ああ、あの何本かは、いやあの何十本かは、かつて遠い日に、私が親に無理と無茶を言って泣かせ、心配させ、苦しめ、辛い思いをさせたためにできたものだったと今やっと思うのです。
 
 そんなことを思うと、私たちの苦労で生徒や誰かが救われ、幸福になり、喜ぶなら、自分の顔に皺の一つや二つぐらいできてもいいと思うのです。きれいな紙を少し指で押しつけると小さな皺ができます。顔に刻みこまれた皺も、私たちに力がなくとも、健気にも懸命に生き抜いた立派な証しだと思うのです。
 
 「二十歳の顔は自然の贈り物、五十歳の顔はあなたの功績」という言葉があります。人間の魅力は、積極的で人に対する思いやりの態度、気配り、礼儀正しさから生まれます。温かく笑うと誰でも魅力的です。たとえその時皺が生まれても、誰もあなたの皺を見ていません。その時、あなたの温かさを見ているのです。だから、いい汗かいて、いい皺作って、笑って誰かを幸せにするため頑張りましょう。
                          
            ( 「三育はこぶね」123号 河原 久先生記)
update:
2008/06/05

 [38]   祈りの打率
 この度、予想もしなかった学校からの研修のチャンスをいただき本当に感謝しております。海外での研修はわたしにとって若い頃からの夢でしたが、なかなか叶いませんでした。
 
 わたしの手帳には祈りのリストがあります。このリストは今から7年前につけ始めたのですが、神様は次々とわたしの貧しい祈りに応えてくださいました。神様が応えてくださる度にチェックをつけるのが、わたしにとって神様の驚くべきみ業を確認する楽しいひと時になりました。もちろんまだチェックのついていない祈りもあります。不信仰なわたしは祈り続けることができず、途中で忘れてしまったり、あきらめてしまったものも多いのです。また過去の生徒で今どうしているのかわからず,祈りが応えられたのかどうかわからないものもあります。しかしページを振り返ってみますと、実にその実現率は、はっきり応えられたとわかるものだけでも83%になります。これを野球の打率にしてみますと、8割以上の確率でヒットを打つというわけですから信じがたい数字です。しかし本当はこの数字は不信仰なわたしの勝手な解釈なのです。神様の目からご覧になれば、わたしのすべての祈りに応えてくださっているのだと思います。神様はわたしに祈り続けよと命じておられますが、励ましのためにこれだけわかりやすく応えてくださっているのだと思います。
 
 わたしは自分から道を開いてゆく人間ではありません。必要にできるだけ応えていくことを信条としてきました。わたしが自分の意志で仕事を決めてきたことはありません。しかし神様はいつでもわたしにできる仕事を与えてくださいました。しかしそのどれもが当座はわたしにとって難しく見える仕事でした。しかし振り返ってみますと、その仕事によって自分自身が学ばされ、鍛えられたと思えるのです。本当に感謝です。いつからかわたしは神様が与えてくださる仕事はとにかくやってみようと思うようになりました。そして途中でくじけそうになるときに、この仕事は神様が与えてくださったのだから、かならず導いてくださるはずだと自分に言い聞かせてきました。そんな苦しい時々に祈ったことを手帳にメモしてきたのです。
 
 さて、まだチェックをつけないでいた祈りのひとつに自分自身のための祈りがありました。「わたしの計画」という祈りでした。そんな神様が、やはりこの祈りにも応えてくださいました。祈りの打率はまた上がることになりました。この年になっての留学は難しいことです。しかし神様の導きを今回も楽しみに信じてみようと思います。せっかくの神様の期待に応えられるかどうか自信はないのですが、とにかくやってみようと思います。
 
 わたしのために祈っていただければ幸いです。わたしも広島三育学院を祈りのリストに加えて祈り続けたいと思います。今までのこのキャンパスでの皆さんとのお交わりと、わたしたち家族へのお支えに心から感謝しつつご挨拶とさせていただきます。また戻って来たいと思っておりますので、その時はどうぞよろしくお願いします。 
 (「三育はこぶね」170号 鈴木聖二先生記。現在、鈴木先生はフィリピンで一生懸命学びを続けておられます。) 
update:
2008/06/05

 [39]   歌えない歌
 私には1節から6節まであるのにどうしても最後まで歌い切ることのできない歌があります。その理由はあまりにも長いからでもなく、音が高過ぎて声が続かないからでもありません。歌の途中でたくさんのことを思い出し涙が出てきてしまうのです。その歌は賛美歌404番、私が広島三育学院に就職する直前にガンで亡くなった母の愛唱歌です。葬儀の時、父が静かに「お母さんといえばこの歌だな」と言って一瞬の迷いもなく、特別演奏として選び、ある教会員の方に歌って頂いたのを昨日のことのように思い出します。
 
 思い起こせば母の一生はこの歌の歌詞そのもの、いやそれ以上に辛く険しく、神様に嘆くこともあった日々だったのではないかと思います。私はその姿を知りませんが、母は私を産む前まではピアノや洋裁、とにかく何でも器用にこなす人だったそうです。しかし私を産んですぐ、脳の病気に侵され右半身の麻痺を負って生きていくことを余儀なくされました。父と母と当時8歳だった姉の、誰にでも与えられそうな平凡は、その時から否応なく奪い去られてしまったのです。まだ幼い姉と仕事を抱えた父の苦悩は想像を絶し、涙が出てしまうほどですが、その思いの全てを子供の私も計り知ることはできません。
 本当に神様の許すことは、時として「悲しい」などという言葉では足りず、血のにじむほどの思いを人間に課せることがあります。
 
 今でこそ私は母についてこのように語ることができますが、小学生の頃などは、「どうして私のお母さんだけ手足が不自由で、言いたい言葉がなかなか出てこないのだろう」と、もどかしい思いがあり、一緒にいるのが恥ずかしいことが度々ありました。それでも母は、体が痛くても私に何かを手伝うことを強いたりせず、今思うと自分でやればよかったのですが、毎週金曜日、私が一週間履いて汚れた上履きを一生懸命洗ってくれました。そして私が弾くピアノや書道でもらった賞状を額に入れ、「M子は何でも上手にやる」と私が恥ずかしくなるほど人に自慢していました。とにかく母はその命が余り長くないことをまるで知っていたかのように、少しでも多く私を誉め、心配し、愛してくれました。それは言葉からだけではなく、母を見ているとわかるのです。今思えば痛いほどに・・・。今なら母のできないことは何でもしてあげようと心底思いますが、いくらそう思っても、もうどうすることもできないのが、悔いても悔やみきれない一生の後悔となってしまいました。
 
 今私が母のためにできるのは、便利な機械が氾濫する中でも、母から与えられた何でもできるこの手で目の前の仕事をこなすことです。たとえそれが遠回りでも人より時間がかかってもいいのです。それが私の喜びなのですから。
 
   「山路こえてひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし。
       ・・・されども主よ、 われいのらじ、 旅路のおわりの ちかかれとは。」(賛美歌404番)
                                                     
             (「三育はこぶね」173号 S姉記)
update:
2008/06/05

 [40]   女性のあかし
 バグダッドにあったアドベンチスト病院は、1959年に国営化され、強制的に政府に没収されて、外国からのSDA医師や職員はすべて国外退去を迫られ、イラク人働き人は看護師のソヒラさんだけになってしまいました。
 
 あるとき、アブドル・カッセム首相は反政府グループによる暗殺未遂事件に巻き込まれ、護衛兵数名とともに重症を負ってこの病院に担ぎ込まれました。首相の側で24時間付き特別看護を命じられたのはソヒラさんで、彼女は全力をつくして介護にあたりました。ある日曜日に病院に戻ると、カッセム首相はソヒラさんに、「昨夜、あなたは教会に行ったでしょう。わたしのためにお祈りしてくれた?」と尋ねました。そこで教会のみんなで首相の回復を祈ったことや青年会のみんながお見舞いに訪ねたいと言っていることを話しました。数日後、アラシャト牧師とSDA教会の信徒たちが首相を訪問し、ファーゴ医師が詩篇91篇を朗読、病床の首相の周りで賛美歌を歌い、一同でお祈りをしてひとときを過ごしました。首相は、「他の病室も回って怪我をしている人たちを励ましてください」と言われました。
 
 数日後、イラク政府はSDA教会をキリスト教として認可する布告を公表しました。ひとりのアドベンチスト看護師の信仰と愛の働きが教会を救ったのです。
 
 イラクには3つのSDA教会があり、300人ほどの信徒たちが礼拝に参加しています。湾岸戦争の恐ろしい爆撃のさなかでも礼拝は休まず続けられました。
 
 (「三育はこぶね」173号 SDAインターネット・ニュースより、曽根田健二牧師記)
update:
2008/06/05



HOME

メールはこちらまで。