『わたしの福音書』
わたしがキリストに出会った経験の証しです


1   神の家族の中で (「はこぶね」190号より 石橋幹子記)
更新日時:
2007.05.08 Tue.
《前編》 昨年の11月8日長男からメールが来ました。「バプテスマの誕生日おめでとう。何歳になりましたか?」「え?なんで?」息子が私のバプテスマを受けた日を知っているのかとビックリしました。私は子供達がバプテスマを受けた日にはカードを書いていますが、私のバプテスマを受けた日におめでとうと言われた事はありませんでした。息子が言うには「お爺ちゃんが亡くなった後、書庫にあったバークレーの本を貰ってきた。その本の間にアドベンチスト・ライフが挟んでありバプテスマを受けた人の名前の中にお母さんの名前が載っていた」という訳でした。父にとって私は最初の子供であり、バプテスマを受けた時本当に喜んでいました。私の名前が載っているこのアドベンチスト・ライフを大事に持っていたのだと思います。
 
 私は3代目のアドベンチストで父方の祖母は熱心なクリスチャンで、よく伝道し祈る人でした。元々メソジストの信者で、九州の久留米に居りましたが、伯母を東京の大学に進学させるため上京し、1ヶ月の滞在の間に友達の家庭集会に出席し、そこで国谷先生によってセブンスデー・アドベンチスト教会へと導かれました。久留米に帰った時、駅に出迎えた方々に真理を知った喜びに満たされ、「土曜日が本当の安息日です」と話したとの事です。昭和7年にメソジストからアドベンチストになりました。メソジストの他の教会員にも是非この喜びを伝えたいと熱心に伝道し、半数の方々を導いたそうです。若い頃からお花を教えながら伝道し、家庭集会や聖書学校を開いて、年に1度のクリスマス会には家を開放して大人と子供を合わせて200名位の方々が集まって来たそうです。私が中学、高校時代、祖母から「聖書研究に一緒に来て讃美歌を歌ってください」と頼まれよくお供しましたが、あの頃もう80歳位だったと思います。祖母が家に来ますと、一緒の部屋で寝起きをし、朝布団の中で祖母の祈っている声をよく聞いたものです。「天の御神様、おはようございます」から始まって、子供達の名前をあげ、「俊夫、謙吉、雅子、園子をどうぞ救われる器としてお育て下さい。」その後、子供達の連れ合いや孫達の名前をあげ、あるいは病気の方、問題を抱えておられる方のためにも祈っていました。101歳で亡くなりましたが、99歳の時に祖母によって導かれた方々が集まって白寿のお祝いをして下さいました。その席で十戒をスラスラ暗唱したそうです。そして必ず一人一人に「どのような伝道をしていますか」と尋ねていたようです。
 
 私の父もよく祈る人でした。毎朝聖書を読み、20分から30分祈っていたと思います。朝目が覚めると、母は台所に立っていましたが、父は布団の上に正座して額にしわを寄せ、膝の間に両手を入れてさすりながら祈っている姿でした。まだ幼かった弟がよく父のお祈りが終わるまで膝にじっと座っていました。「おとうちゃまは、しゅんまっしぇん、しゅんまっしぇんて・・・」とよく言っていましたが、恐らく神様に「すみません、すみません」と懺悔しているように見えたのでしょう。
 
 父は福岡県の久留米で牧師として働いていましたが、千葉の三育学院に教師として来て欲しいと言われ、牧会をしていたかった父を母が説得して千葉の日本三育学院へ行く事になりました。私がちょうど小学校に入る年でした。1年の時は全校8名に1人の先生で、教室は女子寮の1室でした。その時の6年生が以前神戸アドベンチスト病院院長として働いておられた八浪先生です。神戸の病院にいらした頃、看護師をしていた私の娘が回診に一緒について行くと、昔からよく知っている方に、「『この子のお母さんが1年の時、ピーピピピとよく泣いてね』と言われて恥ずかしかったよ」と娘に言われ、私は覚えていないのですが、きっと優しいお兄さんでお世話になったのだと思います。
 
 当時、日本三育学院の校内に宣教師住宅が3軒あり、常時3家族の方々が居られました。子供達も小学校に来ていて外人小学校、日本人小学校と分かれて勉強し、遊ぶ時は一緒だった時代もありました。彼らはいつも腰に水のボトルを下げていて、1日に飲む水の量(決められていた)を飲んでいました。また、冬はよく子供達がストーブで暖をとるために松ぼっくりを拾っていました。クリスマスになると宣教師の方がサンタクロースになって、私達子供のいる家々を回ってプレゼントを下さいました。あの頃は自転車の時代で、車は外人の方が持っている位でした。お産となると、夜中に車で千葉から東京の杉並の東京衛生病院まで連れて行って下さいました。高速道路も無い時代でしたし、悪路と言われる舗装されていない道もあったので時間もかかった事と思います。宣教師の方の家に招待されたり、菜食料理を教えていただいたり、子育て等お母さん達は、クリスチャンとしての生き方をいろいろな面で教えていただきました。娘が生まれてから、やはり父もそのような気持ちで育ててくれたのだと思います。
 
 家庭においては、毎日朝食前に家族が集まって礼拝し、神様のみ言葉をいただいて一日がスタートし、夜は父が毎晩枕元で聖書の話しを聞かせてくれました。安息日はイエス様と交わる特別な日だと教えられました。金曜日の午後は安息日を迎えるための備え日です。家の中を片づけ掃除をし、教会に着ていく服にアイロンがけをし、家族全員の靴をピカピカに磨いて玄関に揃えて並べ、入浴もすませて皆でサンセット礼拝をしました。サンセットを知らせる学校のチャイムが鳴り終わる頃には回りの家々から讃美歌が聞こえてきました。空気までが清められているように感じたものでした。特に楽しかったのは金曜日の夜でした。ゆったりとした気持ちで夜遅くまで家族の交わりを楽しみました。土曜日のお昼は食後にお菓子のようなものが用意されていました。その頃は今のようにお菓子が豊富に食べられる時代ではありませんでしたので、子供達に安息日の楽しみの一つとして父が素朴なお菓子を作って用意してくれました。読む本も厳選され、私が小学校に入って取っていた小学生の月刊雑誌は子供達が見る前に点検されて、漫画や擬人法の物語等全部糊付けされ読めないようになっていました。
 
 また、SDAのライフスタイルを実践し卵乳菜食で育ちました。母が畑を耕して殆ど自分のうちで採れた新鮮な野菜を食べました。ご飯も七分米。三育の食堂でもその頃は七分米でした。たまに白米が出ると「エジプトのご飯だ!」とカレッジのお兄さん達が喜んでいたのを思い出します。旧約聖書に、昔イスラエルの民がエジプトから出てカナンを目指して旅していた時、神様が下さるマナに飽き足りずエジプトの肉を恋しがったとありますが、それになぞらえて言ったものです。また、間食も厳しく戒められていました。お陰さまで病気知らずでこの年まで来ることが出来ました。
 
《後編》 中学1年の秋、クラーク先生によってもたれた祈祷週で私はバプテスマを受けました。クラスの祈りの組、土曜日の午後の伝道活動等にも積極的に参加しましたが、特別に生まれ変わったクリスチャンでもありませんでした。父が教師をしていたため、はみ出したくてもはみ出せない、また教師の子供だからと言ってよい子ぶっていると思われたくない、かと言って何か出来る訳でもない、そのような心が揺れながらの中・高時代を過ごしました。あの頃よく読んでいたのがホワイト夫人の書かれた「青年への使命」でした。この本が好きで小さなノートに書き写して持ち歩きました。これによって励まされクリスチャンとして歩むべき道を教えられたような気がします。忙しい生活の中で唯一家族がゆっくりできるのはやはり金曜日の夜でした。その頃の教師の子供達は寮生活ではなく、自宅から通っていました。金曜日のベスパー後、それぞれのクラスの祈りの組が終わってから家に帰り夜中まで信仰について、人生について、また学校のこと等疑問に思っている事を出して話し合いましたが、その度に父は聖書や証しの書を持ってきては「聖書にはこう書いてある、証しの書にはこう書いてある」と何をきいてもすぐ聖書と証しの書の言葉とその箇所が返ってきました。文字通り生き字引でした。私達にとっては、週に一度のこの時間は一番楽しい時間であり、私達の信仰の軌道修正をしてくれていたように思います。
 
 弟が三育以外の大学へ進学したいと言った時、父は信仰がなくなっては何にもならないと心配して二つの事を約束させていました。安息日を守って教会に行く事。毎日1時間は聖書の勉強をする事。大学では試験が土曜日にかかって受けられず追試をお願いしたり、留年しなければならなかったり色々大変な事もありましたが、神様のお恵みで卒業する事が出来ました。大学院に進み勉強していましたが、研究者としての道より、医者になりたいとの思いが強くなり、アメリカへ行く道を探っていました。そんな折、小さな小包が送られてきました。差出人の名前が無く、開けてみると日本式の大きな風呂敷包みがあり、さらに開いていくとその中にお金が入っていました。それは「アメリカに行くそうですが、その旅費に使ってください」と書かれてある70万円もの大金でした。
 
 またちょうどその頃、メリーKというアメリカから来ていた学生宣教師と友達になりました。彼女が働いている英語学校のバイブルクラスに行ったり、一緒に旅行して歩いたりと親しく交わらせていただきました。暫くしてご両親が来られる事になりました。彼女はすき焼きが好きで「両親に是非グルテンのすき焼きを食べさせて欲しい」と言う事で、家に来ていただきすき焼きをご馳走しました。1週間位いらしたでしょうか。メリーKのお母さんが弟に「アメリカで勉強したいと聞いているが、私がスポンサーになって神戸アドベンチスト病院に送金するので是非医者になって神戸に帰ってきて働いて欲しい」と言われ、思いもよらない申し出に本当にビックリしました。それから弟は留学し、今神戸アドベンチスト病院で働かせて頂いています。「金も銀も我が物なり」(ハガイ2:8)と言われる神様は、人の心を動かして必要なものを与えてくださり、私達の人生を導いておられる事を体験しました。
 
 私が20歳になった時、母を亡くしました。胃の具合が悪いとの事で検査に行ったら、胃に腫瘍ができていて後2年の命という事でした。こんなに元気な母が後2年で居なくなるという事は大きなショックでした。それから毎朝6;00に母のために祈ろうと、すぐ近くの伯父の家にいた祖母が来て家族で讃美歌を歌い祈り合いました。
 
 母は真面目な信仰を持っていましたが、父のように祈ったり聖書を読んだり教課を勉強する姿をあまり見た事がありませんでした。いつも忙しく家族のために働いている母でした。夜明けと共に起きて畑を耕し草取りをし、花壇を作り花を楽しんでいました。父はと言いますと、いつも机に向かっている姿でした。そんな父に母は「毎年毎年同じ事を教えているのに、何でそんなに勉強しなくちゃいけないんですか?」と文句を言っていました。父が家の手伝いをする姿はあまり見た事が無いので母も不満だったのでしょう。母は安息日の朝によく父の教課を借りて、
見ながら答えの聖句を自分の教課に書き写していたそのような母でしたが、それからは聖書を読んだり祈ったりする姿が度々見られるようになり、イエス様にお会いする準備へと導かれていきました。
 前日まで働いていた母の具合が急に悪くなり、2年もしないで亡くなりました。辛い事でしたが、父の「お母さんは、罪との戦いから解放され、再臨まで眠っているんだから悩みも苦しみもない」という言葉に、本人にとっては幸せなのかもしれないと思うようになりました。
 
 それからは私にとって再臨は、いつかあるであろう遠い将来の事ではなく、現実的で身近なものとなり、心からその日を待ち望むようになりました。色々な経験をする度に、この事もあの事も母に会って話したいと思うようになりました。また神様は、一人一人を救うためにその人その人にふさわしい準備の時を与えてくださる事を感謝する事が出来ました。
 
 私は幼い時からカレッジまで、教会の中で育ち、キリスト信仰を空気のように吸いながら育てられて、今ここにいる事を感謝しています。「救われる器としてお育てください」との祖母の祈り、これはまた私が子供達のために祈っている祈りでもあります。父も2年前に亡くなりました。「親族一同一人残らず御国に入らせてください」と祈っていました。御国で会い見える時に、子供達、孫達と共に、救われた事を神様に感謝し、両親に感謝したいと思います。 
 
             (2006年11月11日 信徒礼拝説教より)
2   神様に守られ、導かれて(2006年 「はこぶね」186、187号より、松浦道広 記)
更新日時:
2006.10.13 Fri.
《前編》 私は、宝塚の地元の公立高校に通っていました。高校時代は、当時の風潮である無気力・無感動・無責任の三無主義に無関心が加わって四無主義が学内に蔓延していて、私もそんな空気に染まり、髪を肩まで伸ばしてダラダラとした日々を過ごしていました。
 卒業真近の頃、親友が自殺をしました。人間ってあっけなく死んじゃうんだな。こんなに大きな事が起こったのに、心のよどみで事実がちゃんと受け入れられない自分を見て、とても怖くなったのを覚えています。こんな生活に流されちゃいけない、しっかり自分で考えられるようにならなくては、と。
 
 ちょうど受験シーズンで、先々の就職のことなど頭に無く、四年間という時間の猶予が欲しくて和歌山県の中央奥、高野山という山の上にある大学を選びました。真言宗の総本山、仏教・密教の大学です。山の上とはいえ、幼稚園から小学校、中学校、高校、大学、そして大学院、専修学校まで全部そろっているというからすごいところかも知れません。
 
 私がどうしてこの大学を選んだのか?
まず、自然の景色が最高なこと、家からそう遠くないけど、一人暮らしが出来ること。同じ高校から行った人間が一人もいないこと。希望通り文学部、それも国文学科があったこと。そして、両親が一番喜んだのは、学費、授業料が大変安かった事でしょう。授業料だけで年間30万円いかなかったと思います。弟の高校の授業料より安かったのを覚えています。この大学は特殊で、私立なのですが、真言宗の大きなバック・ボーンに支えられていて授業料が安かったのです。
 
 大学1年目、お菓子に目がくらんで、茶道部と華道部に入部しました。1年生の時に誘われたものがもう一つあります。民主青年連合、みんなから『民青』と呼ばれていたものです。共産党員の養成組織のようなものだと思いますが、そういう集会や勉強会に引っ張られて行きました。憲法9条を守りたいという気持ちが何故か子どもの頃から強かった私は、その面で強く興味を持ったと思います。しばらくは、そういう人たちと交わっていましたが、彼らの主義にはなじめず、平和的な活動だけは参加していたように思います。
 そんな折りに私は神様と巡り会うことになるのです。
 
 高校時代からずっと、私は深夜ラジオのファンでした。当時、アグネスチャンの大ファンだった私は、アグネスチャンの曲を毎日リクエストしていました。そのため、いつも手元にハガキを置いてラジオを聴いていました。
 
 夜11時から『ヤングリクエスト』(ABC朝日放送)、深夜3時から『走れ歌謡曲』、明け方になって宗教番組(ラジオ大阪OBC)が始まり、新興宗教や仏教の放送がありました。6時にカトリック、6時15分に『ルーテル・アワー』、そして6時30分になって、今までになかった染みとおるような音楽が流れてきました。そしてその音楽と共に、「お元気ですか。山形俊夫です」という声が流れてきました。その日はずっと徹夜でラジオを聴いていて、そろそろ寝ようかなと思っていた時でした。放送の中で、宇宙の話とその中には大きな神様の愛があるとのメッセージがあり、その話にどんどん引き込まれていきました。その後に『鴨田のおじさんのおはなし』が続き、またまた引き込まれていきました。とても話が上手で、あたたかいですね。放送の最後に『預言の声・聖書通信講座』のお知らせがありました。『ルーテル・アワー』でも無料の聖書通信講座のお知らせはあったらしいのですが、全然心に届かなかったのに、『ファミリー・アワー』の通信講座には惹かれるものがあって、ちょうど手元にいつものリクエスト用のハガキがあったので出しました。
 
 『ルーテル・アワー』と『ファミリー・アワー』、一つ掛け違えれば私は今頃ルーテルの教会に行っていたかもしれません。でも、放送を聴いて説明はできないのですが、この二つがどこか根本的に違っているように感じました。『ルーテル・アワー』では感じられなかった何かが『ファミリー・アワー』からは確かに伝わってきました。それが何だったのか。今でも言葉では上手く説明できません。ただ、当時の私がずっと求めていたものが、この放送から伝わってきたような気がします。それから、放送のある日はいつも、『ファミリー・アワー』を聴くようになりました。
 
 《後編》 通信講座を通して大阪センター教会を知りました。初めて大阪センター教会を訪ねたのが、なぜか金曜日でした。紹介された教会の場所を前もって確認したかったからです。最初に出迎えてくれたのが真境名さんでした。通信講座で紹介された由を告げると、ニッコリ笑われて、「今日は金曜日で牧師さんは不在です。どうか明日来てください。あなたを心から歓迎しますよ」と言われました。
 
 私は翌日改めて大阪センター教会を訪ねました。少し緊張してドアを開こうとしたとき、その前に扉が開いて、ニューと長身の外人のような男の人が満面の笑顔で「ようこそお越しくださいました」と出迎えてくれました。私は目をパチクリさせておそるおそる握手をしました。
 この声どこかで聞いたな・・・。「あっ!鴨田のおじさんだ!ここは鴨田のおじさんの教会なんだ」と初めてわかりました。
 
 鴨田先生に最初に言った言葉が「バプテスマを受けさせてください」でした。初めて教会を訪ねた人間の口から出たそんな言葉に鴨田先生はビックリされたのではないでしょうか。それでも、先生はニッコリ笑われて、「今日はお昼を一緒に食べましょう。その後ゆっくりお話をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」とおっしゃいました。大阪センター教会で、その日経験したことで私を一番感動させたものは、昼のパトラックでした。パトラックにはデザートがいっぱいあったのです。毎週、こんな風にパトラックだと言われて、それだけでも来て良かったなと感激でした。
 
 午後、「松浦さんも聖書研究をやりませんか」と部屋に招待されました。そこには、石谷さんという女性がいて、しばらくはずっと一緒に聖書研究を受けることになりました。後に密田さんとご結婚され、数年前に娘さんが三育高校に来られていました。残念ながら娘さんが在学中にガンで亡くなられました。後から石谷さんの妹さんも教会に来られるようになり、後にバプテスマを受けられました。この春、高校三年生になられた田中奈央さんのお母さんです。
 
 私は、出来る限り毎週土曜日、大阪センター教会へ行くようになりました。高野山から朝6時のバスに乗り、ケーブル、電車、地下鉄と乗り継いで、約3時間あまりかけて教会へたどり着きました。本当に今では信じられないのですが、いつも定刻出席を果たしていました。往復6時間はそれほど苦にはならなかったのですが、月4回教会へ通う交通費が2万円かかったのが大きかったです。当時4万円の仕送りが家からあったのですが、交通費で2万円がなくなると、毎月残りの2万円だけで食べていかなければなりません。高野山ではほとんどアルバイトがなく、また、山の上は物価が高かったので、月末など全くお金が無く、食べることが出来なくなると、友人がいるお寺に転がり込んでお寺の仕事を手伝って、ごはんだけ食べさせてもらっていました。それでも教会に行くことをやめようとは思いませんでした。
 
 高野山まで来てキリスト教の教会に行くなんて、お前は不思議なやつだなと言う友達もいました。聖書に関して疑問を感じている箇所があるから、今度君の牧師に質問してくれないかという友達もいました。せっかくだから一緒に行かないかと誘うと、「いや、俺は寺を離れるわけにはいかないから、それはできない」と断られました。大阪まで行くのなら、ついでにコーヒーを買ってきてくれとお遣いを頼んでくる先輩もいました。
 
 そんなある日、いつかの民主青年連合の人が、今度は正式に共産党へ入党しないかと、偉そうな人を引き連れて私の所へやってきました。私は神様に祈りながら、「私は、私の信じる神様に従って行きます。申し訳ありませんが、民主青年連合会との関わりは今日で終わらせていただきます」とその場を去りました。神様はいつも私を守り、導いてくれます。神様の存在を心から信じるようになりました。
 
 当時は、まだ少しお酒を飲んでいましt。ヘアースタイルや服装なんかもよく教会のおばさまに注意されていました。あんまりいい求道者ではなかったのですが、口うるさい方も、外人も、子どもも、優しい先生も、聖書研究のメンバーも、みんな神様の中にいることを知り、教会生活はとても幸せでした。19歳で教会に行き始め、大学を卒業する3月にキャンプミーテングで、畠中先生からバプテスマを受けました。畠中先生が私のバプテスマで足を滑らせて、私は危うく溺れそうになりましたが、それもまた笑い話で、バプテスマのいい思い出になっています。
 
 未だに自分は不良クリスチャンだと思うのですが、そんな私でも神様はいつも守り、導き、愛してくれています。
              
               (3月25日 信徒礼拝説教より)        
3   僕が僕であるために (1997年 「はこぶね」119号より 木戸 康人 記)
更新日時:
2006.02.19 Sun.
(1) 細山田先生との別れ
 
 「私はもう駄目です。もう会うことは出来ないでしょう。しかし最後にあなたに言っておきたいことがあります。私の人生はとても幸せでした。私はキリストと共に歩んでとても幸せでした。」そして祈りましょうと言って、苦しそうに声を振り絞って僕のために、僕だけのために5分以上も祈ってくれました。僕はその間、人の目を気にすることなくただ大粒の涙を流していました。
 そして、次の日先生は面会謝絶となり、その10日後に亡くなりました。「私の人生はとても幸せでした。キリストと共に歩んでとても幸せでした」という言葉を僕に残して先生は亡くなりました。
 
(2) 僕の人生の目標
 
 しかし、この時が僕の人生の目標が出来た瞬間でした。僕も死ぬ前に、僕の死を看取ってくれる人に向かって、「僕の人生は最高だった。幸せだった」と言い切って死ねたらそれでいい、人から何と言われようともかまわない。偽善者だと言われようが、駄目クリスチャンと言われようがかまわない。感情でバプテスマを受けたと言われようが、勢いでと言われようがかまわない。ただ人生の幕が閉じる時、「幸せだった」と言って死ねるなら、それでいい。僕はそのために生きる。キリストを信じる。そう決心しました。
 でも、幸せになれる保証はどこにもありません。でも幸せになれると信じています。幸せになりたいという思いだけはどんな事があっても捨てません。キリストを信じたら幸せになれる。この思いが、この希望が、僕が僕であり続けることのできる唯一の支えだからです。
 
(3) あなたがあなたであるために
 
 それから7年、今僕はここに立っています。死ぬ時に幸せだったというために、今、僕はここに立っています。
 ここで考えてほしいことがあります。あなたがあなたであるために必要なものは何でしょうか。それはあなたが幸せになることではないでしょうか。どんなことがあっても幸せになりたいという思いです。あなたが幸せになるために必要なものを見つけてください。自分の手で見つけてください。大変だと思います。でも見つけることが出来たらあなたは、進みたくても進めない時でも、進みたくないのに進まなければならない時でも、自分らしく力強く生きていくことが出来ます。幸せになれるのです。
 人生は思うようになかなか進みません。でも、苦しい思いがあるからこそ、悲しい思いがあるからこそ、虚しい思いがあるからこそ、僕たちは幸せになりたいと思うのです。神を求めるのです。そしてこの思いがキリストを崇めるのです。
 
(4) 皆さんへの感謝と祈り
 
 今、僕はここに立っています。僕が僕であるために、今、僕はこの場所に立っています。交わりの時は少なかったかもしれませんが、皆さんはいつも僕に元気を与えてくれました。一年間本当にありがとうございました。感謝しています。またいつか、皆さんと会える日を楽しみにしています。皆さんとこの広島三育学院の生徒の一人一人は僕が幸せになるために欠かすことの出来ない大切な宝物です。
 
     「あなたは神と和らいで平安を得るがよい。
   そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(ヨブ記22:21)
 
 イエス様はあなたの幸せのために十字架にかかりました。あなたの幸せのために。
そのイエス様のことばです。
 
 皆さんの幸せを心より祈っています。イエス様のみ名によって祈っています。
 
              (2月22日 ログチャペルでの礼拝説教より)
 
4   不思議なみ手に導かれて (「はこぶね」157号より 渡辺恒義 名誉牧師 記)
更新日時:
2006.02.16 Thu.
 70をとうに過ぎたこの頃、時々一緒に牧師になった数名のことを思うのです。あの頃多数の求道者が教会にあふれているのに、戦中の迫害のため牧師が極端に少なかったので、未熟な私みたいな者も召されたのでした。あれから50年、結局停年を迎えたのは自分一人になってしまったなとしみじみ思うのです。
 
 さて、三育に入る前は、仙台教会に通っていました。熱い伝道精神の柴田栄治先生と戦中の迫害をくぐり抜けた信徒方が印象的でした。その教会に行くきっかけは『預言の声』でしたが、そこに戦時中からの神の不思議なみ手を思わずにはおられません。昭和18年(後でわかったのですが、SDA大迫害の年でした)旧制中学の卒業を目前にして、どうせ軍隊にとられるのだからと、陸軍士官学校を受験し、19年に入校しました。その時長兄がその保証人として、偉い人がいいいだろうと黒須退役中将にお願いしたのです(後年、SDAとなられたこの方の告別式を行うとは夢にも思っていませんでした)。
 そんなわけで、休日外出には時々荻窪のお宅に伺い、二人姉妹とも知り合いました。その妹さんが、戦後教団で働き、天沼教会に出席していることは全然知りませんでした(この方が黒須真也引退牧師夫人です)。
 
 終戦後、私は陸士から復員して、旧制仙台工専に入りました(その頃、後にSDAになった先輩がおられたのです。今学院にいる高田姉のお父様で、昨年末お目にかかり感激しました)。ある日、黒須姉が『預言の声聖書通信講座』を送って下さったのです。初めて読む聖書、預言の声はどれも新鮮でした。また、『各時代の大争闘』のざん新な歴史の見方に魅了されました。後年同期の森鴻治牧師が、「我々の時代の入信の動機は、病や事故など感動的なことはないからね」と言った通りです。ただあると言えば、昨日まで軍国主義を語った大人が、今日からは民主主義を語る姿、神だと信じた天皇が人間宣言をした事などで、人間不信に陥っていた事でしょうか。
 その一方、学内で他教派の学友と聖書研究会を開き、その教派の牧師から、集る人が少ないと叱られたり、柴田先生の熱弁に感動する友を見たりしました。
 
 そんな時に、エルドリッジ先生の講演会があり、先生自ら街頭に立ち、「私はエルドリッジです。来て下さい」とチラシを配る姿を見て、私も自転車でポスターを市内中にはりまくりました。教会の青年たちもそれぞれの働きをしていました。
 エルドリッジ先生から私はバプテスマを受けましたが、数年前、この時一緒に受浸した方が東北の集会所を今も支えておられるのを知り、感激しました。しばらくして、仙台から及川吉四郎先生たちが三育に入学することになって、初めて三育学院を知りました。それから三育の事が気になり、三育へ転校したくなりました。ちょうどその頃、総会があって柴田先生は私を伴って下さり、そこで原友安先生夫人に会い、「学校を終えたほうが」と言われても、学歴など気にしなかったようです。一方父は国立の学校を捨て、無資格の学院に行くことには大反対でした。それをとりなしてくれたのが、すぐ上の兄で、憲兵として危い運命を助かった経験から助け舟を出してくれたようです(この兄は、今聖書に興味を持っています)。
 
 そんなわけで、費用は自分で用意するしかありませんでしたので、街頭で文書伝道をしました。『時兆』(現サインズ)を道行く人に勧めるのです。ある時共産党の青年と大激論になり、「20年後に会おう。時が証明するから」と別れたままになっています。戦後の混乱期で、本が少なく、終末への関心も深く、私みたいな者でもよく売れ、学費を手にすることができました。
 
 さて、出発する時になって、父に内緒で母が手縫いの寝巻を用意してくれました。これは一生の宝物でしたが、東北特有の綿入り寝巻は都会の友人には珍しく、大笑いされて荷物の底にしまう情けない者でした。
 その後、三育在学中のある時ふと父が期待していた学校を卒業しなかったことが、父を悲しませていたことは間違いないと思い、そのことについてのおわびの手紙を出しました。そのせいでしょうか、老父が教会に出席するようになりました。
 
 こう振り返ってみますと、青年時代は自分で選ばねばならないと力み、そう実行するのですが、その背後に、親兄弟はじめ多くの人の涙と祈りがあり、それらの愛を見守って下さる神の愛があるのだと、いまさらながら感動させられるのです。
 
   
5   三育学院に行くまで  (「はこぶね」169号より、平尾慧美 記)
更新日時:
2006.01.24 Tue.
 「人間死んだらどうなるの?」十一歳のとき母と死別したときに、わたしが最初にもった疑問でした。
 父は、母を失ったわたしを大切に育てることを条件にして、父の友人からの紹介で、ある名家でお子さま付きの働きをしていた女性と再婚することにしました。わたしにとって、二番目の母親というのは、童話や少女小説からのイメージで、非常に悪かったのです。大人たちが決めてしまったことですから、わたしは本当のお母さんと思って親しんでいこうと決心しました。
 
 しかし、新しい母との生活は、わたしにとって、とまどうことばかりでした。義母は,一にも二にも、お金が大切な人でした。ものの考え方は、すべてお金が中心でした。そして、義母が言ったことが、わたしの心を釘刺しました。「わたしは本当は子供が嫌いなのだ。」そしてさらに、義母の計画は、「慧美に金儲けのうまい婿を迎えて、わたしの老後は左うちわ」と言うのでした。
 
 これに対して、わたしの疑問はつぎつぎと広がりました。「血のつながりのない親子は、どうして、本当の親子のように、自然に湧き出る愛情がないのか。」「どのようにすべきか。」これらの疑問は、いつもわたしの頭のすみにありました。
 高校生になって、五人の友人たちとともに「読書会」をつくりました。国語の先生に、会の顧問になっていただきました。童話、世界文学、日本文学などを読んで、先生の解説を聞いて、みんなで話し合う楽しい会でした。けれども、わたしの疑問には答えはなかったのでした。
 
 わたしにとって、中学・高校は、それは暗い学生時代でした。しかし、そのなかで、すばらしい友を、神様がお与えになりました。それは、倉沢喜美子さん(現 渡辺秀一氏夫人)です。倉沢さんは、あるとき「預言の声通信講座」を始めました。そして、わたしにもご紹介をいただきました。そのうち、倉沢さんと二人で、天沼教会の日曜講演会に出席するようになりました。そんななかで、わたしの子供のときからの多くの疑問に、正しい解答が与えられていったのです。そして、安息日を守って、教会に出席したいと思って、そのことを会社の上司に手紙を書いてお願いしました。しかし、これについて直接に返事はありませんでした。ところが、その週の金曜日の帰り支度のときです。わたしの目の前に、一通の休暇届けが差し出されました。それにはすでに課長と係長の名前と印が押されていて、わたしの署名と押印だけになっていたのです。わたしの祈りと願いが聞かれたのを知りました。こうして、わたしは喜び勇んで、四月の第一安息日に天沼教会に出席することができました。
 
  次の週の金曜日、休暇届けを書いて課長のところに行きました。課長は、労働組合長と激論の最中でした。それは、石原慎太郎氏(現 東京都知事)のことでした。石原氏はすでに前年の秋に入社が決まっていました。その後、彼が芥川賞を受賞したために、会社は彼を会社側に移すと言うものでした。わたしの勤め先は、東宝撮影所の人事課でした。わたしは、その激論の最中に、おそるおそる休暇届を差し出しますと、課長はポンと押印してくださいました。つぎの金曜日にも、またつぎの金曜日にも、なぜか、わたしの退社時刻にきまって、課長と組合長は激論していました。わたしはその都度印をいただいて、土曜日の休暇をいただきました。しかし、安息日を守って、この会社に残る道は開かれませんでした。そんななかで、神様は、わたしが三育学院に行く道を開いてくださいました。
 
 学費の準備のないわたしは、初め聴講生として二つの聖書のクラスに出席して、そのほかの時間は、宣教師の外間先生の家で働いていました。バプテスマを受けたとは言え、クリスチャン生活について何もわからない私を、外間先生ご夫妻は暖かく迎え入れて導いてくださいました。わたしは先生のクリスチャン・ホームで、たくさんのことを学ばせていただきました。わたしは心から感謝しています。
 
 信仰をもつことに対して、絶対反対であった義母も、のちほど「おまえは(兄弟のなかで)一番いい結婚をしたね」と言ってくれました。これは、お金儲けに縁のない牧師との結婚も、わたしの信仰も、「よかった」に含まれていたと思います。「わたしが死んだら、いっさいを弘介にまかせるから、キリスト教でやっておくれ」と言って、八十三歳で眠りにつきました。

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