幻の伝統工芸

COLUMN

稀代の名工 正阿弥伝兵衛(しょうあみでんべえ) とは
地方金工師の筆頭格
 1      鈴木 重吉
鈴木重吉(のちに伝兵衛)は明暦3年(1657)、羽州庄内(山形県鶴岡市)に源兵衛の次男として生まれた。長男清成、三男久国と一緒に幼少から正阿弥又八郎に師事して鍛工の教示を受けた。この正阿弥又八郎を三代遡ると、正阿弥次郎八に突き当たる。この次郎八は加藤嘉明に仕えながら伊予国(愛媛県)に赴き、後京都の古正阿弥に師事、鍛工として大成した人間である。伊予正阿弥、会津正阿弥、武州正阿弥の基礎を築いた名工だった。次郎八は後年江戸に在住してここに住み、曽孫の又八郎の時代になった寛文4年(1664)、酒井侯に召抱えられ、庄内正阿弥を確立した。
  この庄内正阿弥の又八郎の元に鈴木三兄弟が師事したのである。はじめ重吉は又八郎や兄の清成の教えを受けていたが、才覚をメキメキ発揮し始めたので、18歳になった時に江戸に出て、武州正阿弥の弟子になった。4年間修行をして鍛作法を習ったが、遂に若くして正阿弥の名号を許され、正阿弥伝兵衛を名乗った。
  延宝元年(1673)、佐竹家臣舟尾氏の世話で秋田に下った。伝兵衛の鍛工の技術はここでも大いに評価され、その3年後、延宝3年(1676)、佐竹藩三代藩主 佐竹義処(1637〜1703)に10人扶持20両、手代3人扶持、銀50枚で召し抱えられ、数々の名作を残した。友成太刀拵をはじめ、鍛金張合地(金杢目金)による小柄など、多数の作品を藩主やその家臣に提供した。特に前述の小柄は他に比類のない珍品で、華麗な中にも落ち着いた品位を備えており、伝兵衛ならではの技術と言われている。地方金工師の最高峰と評価される所以である。この地で秋田正阿弥の初代となった重吉伝兵衛はその後、重高伝内、重常伝七、嘉吉重央、六弥重恒、重照、子六伝七と七代に亙りその技法が伝授されたが、何れも伝兵衛ほどの傑出した人物は出ず、その作品は凡庸の評価を禁じ得なかった。
外に刀装が一本存在するが、特に伝兵衛の杢目鍛金工作(金杢目金)は前述の小柄の他にはこれといった作品は現在残されていない。伝兵衛以前は京都の古正阿弥に始まって、伊予、会津、武州、庄内、秋田と6箇所でこの流派が栄えた。さらに伝兵衛以下7代に亙る技法の伝授がなされたにも拘わらず、その文献は一切存在せず、すべて口伝にて伝えられたと思われる。しかし、数多い鍛工家の中で、伝兵衛ほどの傑出した作家が他に存在しなかったのは、その数少ない作品を目にする事が出来れば、一目瞭然である。
更新日時:
2003/05/10
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更新日2003/5/10

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