神社質問箱

神社やお祭りに関する基本的なご質問に宮司がお答えします。
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神道の葬儀について教えて下さい。
 神道による葬儀は神葬祭と呼ばれ、我が国古来からの葬法として『古事記』や『日本書紀』などの神話にその内容を伺うことができます。
 神道の信仰を表すことに「敬神崇祖」という語があります。これは亡くなった方の御霊(みたま)を子孫が丁重にお祀りすること(祖霊祭)により、次第に子孫を守護する祖神(おやがみ)になられるという考えが示されたもので、仏教伝来以前からの日本人の精神生活の根本であるとともに、この祭祀の始めにあたる神葬祭がいかに重要な儀式であるかが分かります。
 地域などによっても異なりますが、神葬祭の主な次第の流れは、納棺の後、通夜祭(遷霊祭も含む)・葬場祭(告別式)・出棺祭・火葬祭・埋葬祭・帰家祭(10日祭も含む)・50日祭(若しくは100日祭)・1年祭(家庭の祖霊舎に合祀される)、以後は毎年の命日や、3・5・10年といった式年に祖霊祭を執行するのが一般的です。
 神葬祭の特徴としては、お参りの仕方として焼香ではなく玉串を供えること、参拝方法は神社と同じで二拝二手一拝ですが、拍手は忍手(しのびて)といって音をたてないようにします。
 また、告別式の際に神職が奏上する祭詞は、故人の生涯の歩みを述べ、その功績を讃えるとともに、御霊安らかにお鎮まり戴くようにお願いをするもので、一般の方でも理解ができる内容です。この他、仏教のような戒名はなく、霊号が付けられます。この霊号はその人の出自や身分にとらわれず、生前の名前の下に「命(みこと)」の号を付したり、年齢に応じて「彦(ひこ)・姫(ひめ)」「大人(うし)・刀自(とじ)」「翁(おきな)・媼(おうな)」などが付されます。
 当社でも神葬祭・祖霊祭(年祭)を奉仕しておりますので、ご依頼やご質問などございましたらお問い合わせ下さい。
更新日時:
2002.05.26 Sun.
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陰陽師(おんみょうじ)と神主とは同じと考えてよいのですか。
 陰陽師と神主とは基本的に別のものです。古代の律令制下において、陰陽師とは陰陽寮におかれた官職で、中国伝来の陰陽五行説に基づく特殊な占法(陰陽道)により国家や個人の禍福吉凶を占い、それに対処する方術を施す祈祷者のことを言いました。
 『令義解(りょうのぎげ)』には、陰陽寮の職員として陰陽頭(おんみょうのかみ)・同助(すけ)以下の事務官の他に、学生(がくしょう)に陰陽・暦術・天文等を教授する陰陽・暦・漏刻(ろうこく)の各博士、また技術者としての陰陽師6人がおかれたとあります。この役所の目的は、天体や天候の異常を報告すること、暦を作ること、漏刻(水時計)により時刻を知らせること、亀甲や筮竹(ぜいちく)等により占いを行うことで、中でも陰陽師が卜筮と相地(地相に現れた吉凶を見ること)を掌るとあります。
 これに対して、神祇祭祀を掌るのは専ら神祇官(神主)であり各地の神社(官社)の祭祀を総轄していました。
 このように陰陽寮と神祇官は別の官職であり、宮中の年中行事の中でも、大晦日の同日に陰陽寮が大儺(たいな・後世の節分行事)という疫鬼を払う行事を行う一方で、神祇官では百官の罪穢を祓う大祓式(おおはらい)が行われました。
 しかし、時代とともに神道と陰陽道の行事・内容に習合が見られ、中世には陰陽道があたかも神道の一流派として考えられるようになりました。その後、平安中期の陰陽道の大家である安倍晴明(あべのせいめい)を祖とする土御門家(つちみかどけ)が、江戸時代に各派の神道説を取り入れて、土御門神道として一派をなし、各地の陰陽師を支配しました。
 明治時代、同3年に出された太政官布告により土御門神道が禁止されると陰陽道は衰退しましたが、行事・内容の一部が神道の中に残され、現在に至っています。恵方や鬼門祓いなど陰陽道的な内容を神道の祈祷の中に見ることができるのは、こうした理由によるものです。
更新日時:
2002.05.26 Sun.
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大祓(おおはらえ)について教えて下さい。
 大祓は我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢(けが)れ、その他災厄の原因となる諸々の罪や、過ちを祓(はら)い清めることを目的としています。こうしたお祓いは、記紀神話に見られる黄泉(よみ)の国より戻った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が行った禊祓(みそぎはらえ)を起源とし、宮中においても古くより大祓が行われてきました。中世以降、各神社でも年中行事の1つとして普及し、現在では恒例式として全国の神社で行われています。
 大祓は年に2度、6月と12月の晦日に行われますが、特に6月の大祓を夏越(なごし)の大祓と呼び、人形(ひとがた・人の形に切った和紙)を用いて、身についた半年間の穢れを祓います。一条兼良(いちじょうかねよし・1402〜81)の『公事根源(くじこんげん)』には無病息災を祈るため、茅(かや)や藁(わら)を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを3回くぐりながら、「水無月(みなずき・6月)の夏越の祓いする人は千歳(ちとせ)の命のぶというなり」と唱えたことが記されています。このことは『備後国風土記(びんごのくにふどき)』逸文に見える蘇民将来(そみんしょうらい)の説話に、小さな茅の輪を腰につけることにより疫病を免れたと記されていることに由来とすると言われています。
 また、12月の大祓は年越しの大祓とも呼ばれ、同様に新しい年を迎えるための祓いを行い、心身を清めます。その年の節目に行われる大祓は、罪穢れを祓うとともに、自らを振り返るための機会としても必要なことと言えるのではないでしょうか。
 
 
更新日時:
2002.05.28 Tue.
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神社の社殿は丹塗りのものが多いですが、なぜですか。
 神社の社殿等の建造物で丹塗りのものを目にすることがあります。特に稲荷神社の場合、社殿はもとより鳥居までもが丹塗りで、崇敬者から奉納された丹塗りの鳥居が幾重にも建てられていることがあります。
 この丹塗りの建物は多分に中国・朝鮮などの文化の影響が色濃いようです。稲荷神社の御本社である京都・伏見稲荷大社は元々、古代、朝鮮からの渡来氏族である秦氏(はたうじ)の氏神であり、このことが直接的に社殿の色にも表れたのではないかと思われます。
 日本の場合、伊勢神宮の御正殿に見られるよう、本来、素木をそのままに使った建物が一般的であるのは、茶室などの数寄屋造の建築物からも理解できることです。これに対して大陸の場合、ほとんどの寺院や御廟が丹塗りの建物です。朱色とはまさに血液の色であり、大陸ではこの色が最も生命的な躍動を現すとともに、災厄を防ぐ色としても重視されました。大陸文化との交流により稲荷神社をはじめ、その他の神社仏閣にもその影響が見られるようになったのです。
 さて、ご質問にありました平安神宮の場合ですが、平安神宮は平安京開都1100年を記念して、明治28年に鎮座した神社です。このためその社殿も平安京の正庁であった大極殿を模した拝殿の他、応天門を模した華麗な神門など、確かに丹塗りの社殿で、屋根の色も青緑色といった大陸文化の影響による平安京の建築物を復元したものですが、御祭神を祀る御本殿は素木造りの銅板葺によるものです。
 大陸の場合、韓国の大統領府である青瓦台の建物や、中国・南京にある孫文を祀る中山陵など青色の屋根の建造物を見ますが、日本の場合、神社の社殿として元より青色や青緑色といった屋根を持った建物は多くありません。多く目にするのは屋根を銅板で葺いたため、当初は銅の茶色が年数とともに錆びて、青緑色に変化したものです。
更新日時:
2002.06.08 Sat.
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例大祭などに神輿の渡御が行われますが、この意味について教えて下さい。
 各地の神社では毎年か、何年かに一度のお祭りに伴い、神輿(みこし)や山車(だし)の渡御(とぎょ)が行われています。
 普段は鎮守の杜(もり)深くお鎮まりになられている神様が、この時には神輿や山車にお遷りになり、氏子崇敬者の手により地域を巡幸してゆくのです。この祭りにより神様と人々が一体となり、人々は祭りを通じて活気を取り戻し、神様もこうした人々の姿を見てお喜びになられ、地域の家々に御神徳を与えて下さると信じられています。
 渡御のお祭りについては、それぞれの神社によって性格も異なってきますが、幾つかに区分してみると、一つには神様が初めてその神社に迎えられ、祭られるようになった事跡や歴史的な事実を繰り返すために行われるもの、氏子区域や神様に縁故のある地域を巡るもの、御霊会(ごりょうえ)など疫病退散の行事が恒例化したもの、神慮を慰めるためにおこなうもの等に分けることができます。
 また、特色あるものとしては、具体的な事例として、祇園祭などに見られる神輿に山車や屋台が伴って巡幸するもの、海浜や川辺などに渡御する「浜降祭」や「神輿洗い」、神輿を船にのせて海上や川を渡御する「御船祭」など数々の雄壮なお祭りがあります。
 よく日本人は祭り好きであると言われますが、各地で行われているこうした祭りが次第に盛んとなってゆく様子を見ると、祭りが地域の活性化に果たす役割は、今も変わらず受け継がれていると感じます。
更新日時:
2002.07.14 Sun.
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