藤倉睦男

北灘の昔話(1)
 
私のふるさと粟田は、国道11号線に沿って瀬戸町との境から香川県の県境まで16キロの細長い地形で、海と山に挟まれた集落が点在する。昭和31年9月、鳴門市に合併して板野郡北灘村から鳴門市北灘町となった。その在所の一つである粟田村に生まれ26歳まで住んだ故郷である。
 
最近「北灘の昔ばなし」という小冊誌と、古い北灘のアルバムを発見した。この中に古くから村に伝わる「昔ばなし、伝説、行事」などを記している。これらの資料を基に徳島県の最北端、過疎の故郷を語りたい。
 
 
 
 北灘町粟田に鎮座する葛城神社は目の神様で昔から有名である。かつては、北灘村の存在を知らない人でも、目の守護神「葛城さん」は知る人が多かったようだ。11月5日の秋祭りともなると、近郷から大勢の参詣人が押し寄せ、バスの臨時便まで出ていた。
 
 この神社のご祭神は「一言主神」である。その昔、天智天皇が九州にご巡幸された時に随行され、その途中粟田村の沖にご逗留し、この浜に上陸され渓谷の釣りを楽しまれた際、お乗りになっていた馬が、藤かずらに足を取られ、神は落馬、呉竹の切り株にて目を傷つけ、眼病となりこの地にて養生された後、この地の守護神として、眼病の者を哀れみ、お救いされたのである。
 
したがって爾来この神社の氏子となる「粟田」、「大浦」、「宿毛谷」、「鳥が丸」の4か村には馬を飼わず、呉竹と藤かずらは生える事が無い。今もそのご縁起は守られている。
 
 
 葛城神社の祭礼は春と秋に行われる。春季大祭は4月5日で「だいだい祭り」と言っていた。神前に大きな榊を立て二人の神子が厳かに神楽を舞っていたのを覚えている。
 
 秋の大祭は11月4日と5日である。祭りが近づくと漁師は祭り用の魚を獲りに舟を出す。既に稲の収穫も終り、主婦達は甘酒造りや祭り料理に精を出すのだ。 祭りには村を出て各地で働く人も帰郷し、他町村の親戚や友人を招待する慣わしがあった。沢山のご馳走を準備しての無礼講の一時を楽しんだものである。
 
祭りの采配は神社総代が行い、村の青年団が実行役となる。祭礼当日は学校が休みとなるのだ。教職員や生徒全員で葛城神社を参拝のあと、その場で解散となる。
 
子供達の最も楽しい一日が神前で始まる。境内には多くの露店が並び、筵などで囲ったテント張りの「うどん屋」も店を出す。夜ともなれば露店のアセチレンガスの匂いが鼻を衝く、ほんの僅かの小遣いを握り締め露店を回り、楽しかった思い出は今も鮮やかに残っている。
 
 
 
宵宮の4日から2日間、神社の境内で野芝居が行われる、青年団の主催であるが、旅役者の一座を選ぶのが一苦労である。村人の一年中で一番楽しみにしている芝居であり、良い出し物で無ければならない。何か月も前から興業主と交渉して一座を決める。
 
境内に芝居小屋という建物がある。平素は物置小屋であるが、その時は舞台に変わる。広場に筵を敷き詰め、左右に桟敷席を設ける、この席に上がるのは多額の寄付者となる。これら寄付者を芝居の幕合いに名前を読み上げて披露するのが慣わしである。マイクなど無い時代、大声で何十人もの名前を披露するのは大変であった。
 
役者衆は、それぞれ青年団の役員の家に分宿する慣わしであった。私の家にも泊る事があったが、祖父は刀剣等に趣味が無かったのか、泊った役者に剣劇用にと昔から伝わった刀を進呈したと言う。鈍刀とはいえ惜しい事をしたものである。
 
 
祭りの出し物として、各在所から伝統的な出し物を奉納する。粟田村からは「おねり」といって奴行列が出る。現在鳴門市の無形文化財に指定されている。21名が演じる「やっこ行列」は、なかなか見応えがあるが、昔からの伝統を守るには大変な努力が要る。祭りの2か月前から練習に入るが、仕事を終え夜間神社に集まって練習をする。
 
天狗の面を付け「太刀と団扇」、高下駄の天狗を先頭に「はさみ箱、毛槍」などで構成する。二人が交互に毛槍を投げ合って進むが、特にしんねりと言う大きな毛槍の投げ合いは、見応えがある。鳥の羽で作った大きな冠状の物を付けた竿を立てたまま投げて受け渡しするのだ。
 
これは可成り重い。倒さないか、落とさないかと、見物人をハラハラさせる。体力と熟練を要する。しんねり役の二人は、一家の長男でなければならないと言う決まりがあった。後年その制約は無くなり私も指名をされたものの、到底役に立たず、拍子木を打つ役にまわった。
 
 なお他の村からの出し物は、大浦村から、これも、おねりだが、この、おねりは子供で構成していた。見るからに可愛い行列であり、勿論毛やりの受け渡しは、そのまま手渡しで行った。「宿毛谷」と「鳥が丸」は「獅子舞であった。あの勇ましい太鼓の音は如何にも村の祭りの響きであった。
 
 
 
 祭りのクライマックスは5日の午後に行われる神輿の渡御である。白装束の男達によって担がれた神輿は、本殿を出て、近くのお旅山にある別宮まで渡御する。獅子舞を先頭に、おねりが続き、神輿が威勢良く練り歩くのである。
 
昔から暴れ神輿の異名が高く、すんなりとは進まない。露天商などは慌てて店をしまい、通過するのを待つ。商売どころではない。神様のご機嫌次第で大暴れする。なかなか前に進まないが、山道に掛かると、さすがに登れない。
 
大勢の人が綱で引き揚げる。山頂では餅投げを行う。下山して本殿に入ると、祭りの幕を閉める事になるが、おねりはその後も村の一軒一軒を回るのである。その各戸の訪問はさらに翌日まで延々と続く。そして6日の夜、青年団では打ち上げ会を行い、すべての行事が終わるのである。
    
結局、祭りとしては、3日間を要する事になり、村のイベントとしては最大のものである。老いも若きも心から楽しむ時間となる。「家内安全」と「豊作、豊漁」を祈り明日からの活力とする。
 
 
 葛城神社の境内には二つの塚がある。それは「包丁塚」と「眼鏡塚」である。いずれも平成に入って建立されたものだ。
 
包丁塚は鳴門市内の調理師の方々が中心となって建立された。長年使った刃物を納め供養するためであるが、誰でも自由に納める事が出来る。
 
 
「眼鏡塚」も同じく県内の眼鏡業界の方々によって建立された。古くなった眼鏡や目に合わなくなった眼鏡などを供養するための塚である。庖丁も同様、誰でも自由に納める事が出来る慣わしになっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
2007/11/04

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Last updated: 2008/3/7