坂田健一

旅行記

宮古諸島、八重山諸島10島を巡る
 
 3月17日から20日まで沖縄周辺10島を見る旅に出かけた。訪ねた島は次の島々である。宮古島、来間(くりま)島、伊良部島、下地(しもじ)島、池間(いけま)島、石垣島、西表(いりおもて)島、由布島、竹富島、小浜島。
 このうち従前から名前を知っていたのは宮古島、石垣島、西表島の3島にしか過ぎない。沖縄本島は太平洋戦争末期、悲惨窮まる地上戦闘が行われたことでつとに知られている。他の島についての知識は乏しい。
 
3月17日 1日目
 早起きして一番の高速バスに乗り神戸空港に向かう。実を言えば神戸空港への直通バスがあるのを知らなかった。バス券売り場で直通便があるのを教えられた。それまでは三宮からポートライナーで空港へ行くつもりだった。便利になったものだ。神戸空港建設は難産だった。神戸市民で反対する勢力があった。関西空港、伊丹空港に加えて神戸に空港が必要なのかという疑問だった。膨大な建設費をかけて空港を作る必要があるのか。
 
費用対効果から考えて壮大な無駄遣いでなかろうかとの声はもっともである。そんなカネがあるなら震災後の復興に回すべきではないかというのが反対論者の主張であった。空港建設反対の署名運動も行われたが、いつしか反対の勢いは弱まり新神戸空港が誕生した。本年2月で開港3周年を迎えた。総工費3,140億円。空港利用者は当初の想定数字を大きく下回っている。ともあれ徳島の住民には便利になった。鳴門からだと2時間弱で空港出発ロビーに到着する。
 
 出発は9:55 JTA(日本トランスオーシャン航空)で那覇に向かう。海外旅行と違ってパスポートが不要なのはありがたい。
 快晴。2時間あまりの快適なフライトで那覇に到着。通過客なので沖縄本島の土を踏まず、空路宮古島へ向かう。
 到着後バスで観光に出かける。まず来間島(くりまじま、くれまじま)を訪ねる。この島は宮古島の南西1.5kmに横たわる面積2.9ku、海岸延長6.9km、最高標高46.9mの小さな島である。人口わずか200人。主たる産業は葉タバコ、サトウキビの栽培である。平坦な島であり、全島緑に覆われている。島民は農業以外に観光事業で生活しているのだろう。
 
 宮古島下地から全長1,690mに及ぶ来間大橋が架かっている。日本一の農道橋である。一部区間は船舶が航行できるように盛り上がっている。農道橋とは何かよく知らないが農業振興を目的とした橋のことであろう。建設主体が建設省でなく農林水産省であるようだ。とはいえ観光バスも一般の車も無料で通行できる。
 龍宮城展望台から眺める橋と海の景観は圧巻である。かねてから沖縄の海は美しいと聞いていたが、むべなるかな。海面は深さによって色を異にする。深いところはエメラルドグリーン、浅い箇所では淡い水色を呈している。風はなく海面に漣も立たず静謐を保っている。前浜ビーチは7kmにわたってやや黄色がかった白い砂の汀が続いている。
 今夜の宿泊は宮古島東急リゾートとなっている。室の窓から先ほど眺めた来間大橋を眺められる。ホテル到着は午後4時半と早かったのだが、早起きのため眠い。夕食後早寝をするつもりであったが、妻に誘われてサンセットクルーズを楽しむことにした。クルーズ船は大型のカタマラン(双胴)ヨットである。乗客は4組8人。キャプテンは若い日本人だがクルーはキューバ人の青年であった。彼は滞日5年になる。日本語を不自由なくこなしている。無料の酒、つまみのサービスを受けながらクルーズを楽しむ。どうも雲行きが怪しい。スコールが来そうだ。少しパラパラと降ってきたが大雨にはならずにすんだ。真っ赤な夕陽が水平線に沈む瞬間を堪能した。
 
3月18日 2日目
 8時ホテル出発。池間島へ向かう。1992年、99億の巨費を投じて架けられた池間大橋を渡る。全長1,425mの橋は、1995年、来間大橋が開通するまでは沖縄で最長の橋だった。島の人口はわずか800人。明治時代には2,200人もあり遠洋漁業が盛んであり、カツオ漁、鰹節の生産で活況を呈していた。昭和50年代に入り排他的経済水域が設けられ遠洋漁業は廃れてしまった。人口1,000人に満たない小島に100億近い投資をするのは費用対効果の上からいかがなものか、との声もあろうが僻地に住む住民にとって橋の恩恵は経済的価値以上のものがあろう。
 
 池間大橋を渡って宮古島へ帰る。橋の西方に大神島という小さな島が浮かんでいる。立ち寄ることはなかったがガイドの話では、この島には海賊キッドが秘宝を隠しているという言い伝えがある。宝探しに精出した人もいるようだが今に至るも宝は発見されていない。
 
 宮古島平良で雪塩工場を見学する。雪塩(ゆきしお)というのは商品名で天然にがり(ミネラル)を多く含んだ自然塩ということである。製塩地である鳴門の人間にとって格別珍しくはない。海水を琉球石灰岩の間を通すうちにミネラルを含み、それを濃縮槽を経て加熱して作る工程となっている。イオン交換樹脂は使わないようだ。こんな所に製塩工場があったとは初めて知ったことである。
 
 平良港から高速フェリーで伊良部島へ向かう。所要時間は25分。船内には椅子席のほかに寝転べるコーナーが設けられている。昨日からの睡眠不足が尾を引きたまらない。睡魔に勝てず横になったとたん眠り込んでしまった。目を覚ましたところ船室には誰もいない。大急ぎでデッキへ出るとすでに車は上陸を始めている。家内は私が先に下りたものと思いこんでいたそうだ。何とかバスは待っていてくれた。
 
 伊良部島にはかつて盛んだったカツオ漁の名残でカツオ御殿が並んでいる。最盛期には一航海で船長の賞与は1千万円にも達したそうだ。遠洋カツオ漁ではソロモン群島、ラバウル、フィジー、パラオにまで足を延ばしていた。
 佐和田の浜を見る。海中に巨岩がごろごろ転がり、遠浅のため海面から首を出している。1771年の大地震の津波によりどこからか運ばれてきた岩なのである。この浜辺は日本の渚百選の一つだが遠浅のため海水浴には適さない。海岸沿いに北へ歩いてゆくと島の先端白鳥崎にたどり着く。四阿が建っている。ここから渺茫と広がる東シナ海を臨むことができる。
 
 反対側の海岸にはフナウサギバナタ(この地方の方言で船を見送る岬の意)という意味の船の往来を見下ろすことができる展望台があり、その近くに大きく羽を広げたサシバ(鷹の一種)を模った像が腰を据えている。昔は宮古島の人はサシバを食べていたそうだが現在は捕獲が禁止されている。
 
伊良部島と隣り合って下地島がある。両島の間はわずか40〜100mにしか過ぎない。6本の橋でつながっているがその間の海峡は川にしか見えない。別の島との自覚は起こらない。下地島には珍しい観光スポットがある。下地島空港である。空港とはいえ一般旅客が利用することはできない。ジェット旅客機の離着陸訓練飛行場なのである。JALやANAのパイロットがここで離着陸の訓練に勤しんでいる。ベテランパイロットでも機種が変わればここで訓練を受けなければならない。
 
私たちが着いたときも飛行機が繰り返しタッチアンドゴー(離着陸)訓練を繰り返していた。轟音とともに海上から着陸態勢に入った機は滑走路に車輪を触れると停止することなく再び大空に舞い上がる。頭上に爆音を叩きつけると滑走路に進入、すぐ上昇して海上を旋回して着陸コースに入る。海上に鉄骨の構造物が伸びているのを見て橋のように思えたが、これは誘導灯の設備であった。ここは飛行機の教習所であった。こんな施設があるのは知らなかった。市街地近くなら騒音公害で許されないであろう。ここは周辺が海面なので心置きなく訓練できる。滑走路は長さ3,000mと幅60mもあり大型機の離着陸に十分である。従前は米国で訓練を受けていた。飛行機ファン、航空マニアにとって絶好のスポットであり、全国から見学者が押しかけている。
 
 次に「通り池」の見学に向かう。深い緑の中に木製の遊歩道が設けられている。中途で台風のため歩道が壊れて行き止まりになっている。その手前に「通り池」がある。歩道を隔てて二つの池になっている。幻想的な雰囲気を漂わせている池である。二つに分かれているように見えるが水中の洞窟でつながっており、ダイバーは双方を行き来できる。また洞窟は海へとつながっており、海からダイバーは池へ達することもできる。ガイドの女性が言うには、海から池へ辿り着き、池の水面へ浮かび上がると観光客は河童か海坊主が出たのかとびっくりするそうである。
 
 続いてホワイトロングビーチと呼ばれる「渡口の浜」を見る。長さ500m、幅50mにわたる伊良部島の代表的な海水浴場である。細かい白砂と青い空、緑色の海が鮮やかである。
 食事処アギヤーで昼食を摂る。アギヤーの意味はわからない。宮古島に帰り、東平安名崎(ひがしへんなさき)を訪ねる。変な読み方である。宮古島の東南端に突き出した長さ2kmの岬である。遊歩道は整備され両側にテッポウユリが生い茂っている。切り立った断崖絶壁に白波が砕け荒ら荒しい光景を呈している。昨年1月に訪ねたサイパン島のバンザイクリフを彷彿させる景観であった。岬の先端に灯台が建っている。高さ43m。平安名崎灯台であり、なぜか頭に東がついていない。料金を払えばトップまで上れるのだが97段の螺旋階段を上るのが大儀なのでパスすることにした。上った人の話では太平洋と東シナ海が一望できたとのことであった。
 
 海宝館を訪ねる。この博物館には国内外を問わず6,000点の貝が展示されている。館長の幸地和夫さんは昭和26年生まれ。子供のときから貝の魅力に取りつかれ浜辺を歩いては貝を集めた。中身を食べずに貝殻だけ収集するので周囲から変人扱いされた。長じては潜水士の資格も取り、職業潜水士として貝を集めた。私蔵するのはもったいないではないか、と町に勧められ予算もついたので貝の綜合博物館を建設することになった。館内には「潜りの歴史」を物語る数々の潜水器具も展示されている。館長の言うように貝殻には妖しげなる魔力がある。人間では到底あの魅力を生み出せない。自然、つまりは神の造化の賜物といえよう。
 
 なお宮古島から伊良部島まで3,540mにわたる伊良部大橋の架橋工事が進んでいる。工費は320億。完成は2013年の始めと目されている。開通すれば無料大橋として全国最長となる。
 このあと宮古空港から空路石垣島へ飛ぶ。フライト時間35分。今宵の宿は「軽井沢倶楽部ホテル石垣島」となっている。夕食に地元のビール「オリオンビール」を賞味する。
 
3月19日 3日目
 8時出発。石垣港から高速船で西表島・大原港へ向かう。航海時間は40分。高速船と銘打っているだけに速い。30ノット近く出ているように見えた。
 西表島(いりおもてじま)はイリオモテヤマネコであまりにも有名である。ヤマネコ以外の知識はなかった。沖縄周辺の小さな島と思っていたが認識不足であった。沖縄本島に次いで広く日本では12番目の面積を持つ大きな島である。その割りに人口は少なく約2,000人にしかすぎない。島の面積の90%は亜熱帯の自然林で覆われ、平地はほとんどない。川の下流の汽水域、海岸線の河口、内湾には広大なマングローブ林を形成する。イリオモテヤマネコ、カンムリワシなど珍しい動植物の宝庫である。
 
西表島をイリオモテジマと読むのは、この地方では「西」をイリと読むからである。
 
イリオモテヤマネコ
 この島を有名にしているのはなんといってもイリオモテヤマネコの存在である。この野生動物は世界中で西表島にしか生息していない。体重4kg前後で、暗褐色の体毛が特徴。尻尾の先が丸く膨らんでいる。夜行性動物である。木登り、泳ぎが巧みである。鳥類、クマネズミ、トカゲ、ヘビ、カエル、エビ、サワガニ、昆虫などを捕食している。水中にもぐるヤマネコはきわめて珍しい。
 
 現在の生息数は100匹前後と推測されている。1972年、特別天然記念物に指定された。絶滅危惧種として手厚い保護を受けているが、絶滅の不安は消えない。野生化したイエネコとの餌の競合、交配による雑種化、伝染病の罹患などが懸念されている。
 さらに開発による道路延伸による交通事故死がある。年間1,2件の事故死が報告されている。道路には「ヤマネコ注意」の標識が並んでいる。夜行性のため昼間の事故は心配しなくていいが、夜間道路を横断しようとするヤマネコを避けるのは至難であろう。万一事故を起こした場合、ひき逃げは許されない。必ず報告しなければならない。
 
 西表島を訪ねる観光客は一日平均800人といわれている。誰もがイリオモテヤマネコを一目みたいであろう。絶滅危惧種となればなおさらだ。だがその願いがかなえられるのは皆無といっていい。この島で80年間生きている古老でさえまず見たことはないという。
 
 幻の動物ともいえるイリオモテヤマネコはしばしば文学作品の題材に取上げられている。手塚治虫「ブラック・ジャック」に登場する天才的外科医ブラック・ジャックがイリオモテヤマネコを手術して助ける場面があったのが記憶にある。
 鬱蒼と茂る亜熱帯植物の中をドライブするがヤマネコの片鱗も見出せない。
 
 日本最大のマングローブが生い茂る仲間川ジャングルクルーズに出かける。
 
マングローブ
 マングローブは熱帯、亜熱帯地方の海岸に繁茂しているタコの足のように曲がりくねった樹木である。とはいえマングローブという樹種はない。高山植物という植物がないのと同じである。マングローブは川から流れ込む淡水と海水の入り混じった汽水区域で生える熱帯樹の総称である。
 
 マングローブの繁茂範囲はかなり広い。日本では奄美大島、屋久島、種子島、また薩摩半島の喜入(きいれ)にも茂っている。通常の植物は海水に浸ると枯れるものだがマングローブは淡水だけでは育たないのが特徴である。マングローブ林は海岸線に独特の景観を呈している。くねくねと曲がっているからやわらかそうだがずいぶん堅く木炭や建築材料にもなる。根の周辺はカニ、魚、エビが育つ。また海水の浄化にも役立っている。
 
 いまマングローブ林の危機が唱えられている。燃料、建築材、エビ養殖場のため過大な伐採が行われマングローブ林は急速に失われつつあるのだ。
 新型インフルエンザが日本に蔓延する衝撃的なパニック映画「感染列島」でもウィルスの発生源がフィリピンのある島であることになっている。島のマングローブ林を伐採しエビ養殖場を作ったため新型ウィルスが発生するストーリーだ。マングローブを守れ、というのはたやすいが、貧しいアジアの民の現金収入をどう確保するか難しい問題である。さらにマングローブ林の危機は、最近急激に増えた海洋漂着ゴミも原因になっている。大陸からのゴミが季節風に吹かれて漂着する。プラスチック製品、漁具などのゴミは分解することなくマングローブの根にからまり樹木を枯死させるのである。
 
 観光客を乗せた遊覧船は静々と川を遡る。両岸は鬱蒼としたマングローブ林に覆われている。青々とした林だけでなく枯れ木、倒木、浮木も目立つ。段々川幅は狭くなってくる。濃密な緑のトンネルをくぐる心地である。話に聞くアマゾン流域の秘境を想像する。
 
 折り返し点に小さな桟橋があり一時停船する。上陸し木道を少し歩くと巨大な木にお目にかかる。なんとも奇怪な形をした大木だ。樹齢400年という。根が持ち上がっている。この根は板根(ばんこん)と呼ばれとても堅いので船の舵に使われるそうだ。
現地の言葉でサキシマスオウと呼ぶ。漂流植物というから400年前にどこかの島から流れ着いた種がこの場所に根を下ろしたのであろう。
 マングローブのジャングルを眺めているとここが日本であるのを忘れさせてくれる。ほかで見ることのできない異様な景観であった。
 
 美原(みはら)集落に帰る。これから対岸にある由布島(ゆぶしま)観光である。この島へ渡るのは船ではない。水牛の牽く車に乗って海中を進むのである。海峡は遠浅なので干潮時なら人間の膝下くらいの深さしかない。長靴を履けば歩いても渡れるくらいである。水牛の牽く車には12人から16人くらい乗れる。それに御者を加えてそろそろ歩む。水牛は2tの重量を牽くことができる。軽トラより力がありそうだ。水牛にはそれぞれ名前がついている。ゴン太、夏子など。私の乗ったのはサブローと呼ばれていた。30頭いる水牛一家の総帥は大五郎である。
 
 水牛車の乗車時間は10分くらい。御者のおじさんは三線(さんしん)を弾きながら安里屋(あさどや)ユンタを歌ってくれる。三線とは三味線に似た沖縄古来の楽器である。胴はニシキヘビの皮で作られる。歌詞は車内に張り出されている。
 
 サア 君は野中の茨の花か サアユイユイ
 暮れて帰れば ヤレホンニ 引き止める
 マタ ハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ
 
 サア 嬉し恥ずかし 浮名を立てて サアユイユイ
 主は白百合 ヤレホンニ ままならぬ
 マタ ハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ
 
上記の歌詞は新安里屋ユンタであり、一般に普及しているのがこれである。伝統的な歌は方言が多く、本土の人にはわかりにくい。
 
御者はまた水牛車の由来を説明し、ガイド役をも努めてくれる。
水牛は昭和7年、農耕用として台湾から移入された。今は観光に携わるものが多い。水牛の寿命は約30年。生後2,3年で調教の上、車を引くことになる。
 
 サブローは黙々と歩く。その速度は人間の歩む速さくらいか。ときどきつむじを曲げて動かなくなる水牛もあるらしいが、御者は鞭を使うことはなかった。サブローは一日何往復かするのを自分の義務と感じているかのように従順であった。水牛の大きく湾曲した角(つの)は見事であった。先端は鋭くとがっている。危険防止のためか先を切り落としているものもある。水牛はおとなしいが頭の付近に近寄らないようにと注意を受けた。あの鋭い角でプッスリやられると人間などひとたまりもあるまい。
 
 由布島は小さな島である。周囲2km、海抜1.5m、全島が砂地である。この島に4万本の椰子が生えている。ここにある亜熱帯植物園は一見の価値がある。植物の名称はわからないが本土では決して見られない珍しい植物が育っている。
 この島を開発した恩人が西表正治(いりおもて せいじ)さんである。明治41年生まれの彼は、台風で荒廃し住民の大多数が西表島へ移住したあと、この島に椰子、花を植えてパラダイスガーデンにすることを決意した。夫婦の努力が認められ支援も得ていま見事な楽園に結実している。パラダイスガーデン初代館長に就任した西表さんは2005年、96歳で亡くなったがその功績は見事に花開き観光客に憩いの場を提供してくれている。
 
 水牛は水浴が好きなようだ。園内に大きな池があり、水牛たちはゆったりと水浴びを楽しんでいる。その姿は温泉の大浴場に浸かっている人間のようでもある。島の人々
が水牛に細やかな愛情を注いでいるのが感じ取れる。水牛は住民にとって生活の柱なのであろう。園内には水牛の碑があった。
 島の人口はわずか15人。西表一家のみと聞いているが、レストランの従業員は島外から通勤しているのだろうか。朝夕水牛車に乗ってのんびり海を渡るのだろうか。
 
 また水牛車に乗って美原へ帰り、大原港から竹富港へ渡る。
竹富島は面積5.42ku、海岸線長9.12km、人口345人とここも小さな島である。まず「星砂の浜」と呼ばれるカイジ(皆治)ビーチに寄り、星砂を探す。白い砂浜に星型の珊瑚がある。☆型の砂は「幸福を呼ぶ」といわれるので一生懸命探すがなかなか見つからない。砂が乱掘されたので少なくなっているそうだ。
 
売店で売っているのを見ると5ミリくらいの小さな珊瑚の破片だった。
 次に水牛車に乗り市街地観光となる。街の特徴は赤瓦で葺かれた民家の屋根と道路に敷き詰められた白い砂である。赤瓦といっても朱色といった方が適切かもしれない。
台風銀座なので瓦は白い漆喰でしっかり止められている。今まで見てきた島々の家は台風対策か瓦葺は少なく、鉄筋コンクリート造りで屋根はフラットなのが多かった。
 
 竹富島では昔ながらの街並みや文化を保存しようとする意識が非常に高くいろんなルールが定められている。その例として次のようなのが挙げられる。
屋根は赤瓦で葺かなければならない。その場合補助金が支給される。赤瓦は以前内で生産していたが、現在は沖縄で焼くか台湾からの輸入である。屋外看板は原則禁止。大規模開発を目的とした土地買収には応じない。珊瑚を砕いた白砂の道は、住民の掃除によって美しく維持されている。砂が雨や台風で流されると砂浜から集めて定期的に道を補修している。
 
 これら住民の努力によって沖縄の原風景が残り、観光資源ともなっている。
赤瓦のほかに目につくのは珊瑚石灰岩を積み上げた石垣である。どの家もこの垣を張り巡らせている。モルタルを使わずただ積み上げているだけだが、石垣を築くには相当の技能を必要とする。これができる職人は少なくなっている。石垣は防風のためであろうが、風速60mの台風に耐えられるのかどうか。珊瑚石灰岩には隙間が多いため風圧を緩和できるのであった。
 
 私たちの車を引く水牛は「愛ちゃん」と呼ばれる。名前の通りメスである。「愛ちゃん」ブームに乗ったのかいいネーミングである。よく調教されている。ところが街中へ入ったとたん立ち止まってしまった。はてどうしたことか。愛ちゃんはジャーっと排泄を始めた。乗客は一瞬びっくり。「愛ちゃんは女の子だからあまりじろじろ見ないでください」と御者の声。由布島へ渡るときも海中でオシッコをした水牛があったそうだ。歩きながらはしない。必ず立ち止まってするのはお行儀がいいのかもしれない。
 
 狭い街路の交差点で曲がるときには外輪差、内輪差を考えてかゆっくり大回りをする。石垣でこすることはない。「大型二種免許を持っていますから大丈夫です」と御者は自慢していた。毎日歩く道なのでしっかり憶えているらしく御者の指示は必要ない。愛ちゃんに任せきりである。「私は何もすることはありません」と御者の青年は安心し切っている。道路の8割は舗装されていない。真っ白い珊瑚の粉を敷いているだけである。アスファルト舗装に比べて夏の暑熱の反射は少ないそうだ。
 
 人口345人の島にも学校はある。小中学校一緒の学校の生徒数は35人、先生は19人。先生の目はよく行き届くであろう。珊瑚礁が隆起した島なので農業には向かない。島民の8割は観光事業に従事している。
 
 次いで竹富港、石垣港を経由して最期の観光地小浜島に赴く。
宿泊ホテルはヴィラ ハピラパナとなっている。このホテルは一つの建物に客室があるのではなくそれぞれコテージとなっている。2階建ての客室棟が広い敷地に何棟も建っている。広い敷地だ。ゴルフ場の中にホテルがあるというか、ホテル内にゴルフ場があるという感じだ。小さな島に巨大資本が投下され、これだけのリゾートホテルが建設されたといえる。私のコテージは本館からかなり離れている。フロントやレストランは本館にあるので食事は本館まで歩かなければならない。結構遠い。忘れ物をしても自室に引き返すのは面倒なくらいだ。
 
 3月20日 4日目
 8時15分ホテル出発。
シュガーロードは名の通り、サトウキビ畑の広がる中を一直線に貫いている道路だ。
ザワワの歌が聞えてきそうだ。
次にNHK連続テレビドラマ「ちゅらさん」で有名になった「こはぐら荘」「ちゅらさん展望台」を訪ねる。残念ながら「ちゅらさん」を知らない。朝ドラは見ない。題名だけは知っていたが、物語はまったく知らない。こはぐら荘は赤い瓦屋根の普通の民家だ。住人がいるので外から眺めるだけである。いまでも見学に来る観光客は多いそうだ。ちゅらさん展望台には「ちゅらさんの碑」があり、簡単な物語の説明が記されている。その後ろに「牛魂碑」があるのはこの地で育った牛の霊を慰める碑であろう。
 
近くに牧場があり牛が放牧されている。こんな島に放牧場があるとは予想していなかった。意外に平坦地が広いのかもしれない。ちゅらさんについては何の思い入れもないから格別興味を引くものはなかった。
 さて次は川平(かびら)湾に赴きグラスボートに乗り水中観光を楽しむ。船底をガラス張りにして海底の様子を見えるようにした仕掛けである。船頭は珊瑚や魚の集まるポイントへ船を運ぶ。海底で息づく珊瑚やそれに集まる魚の群れが見られた。
 
 次は石垣焼窯元を訪ねる。ガラスを基調にした美しい瑠璃色の海を表現した焼き物を見学する。体験焼きができる工房もあるが時間がない。展示されていた製品には結構いい値がついている。この方面の知識に乏しく特に興味を引かなかった。石垣焼という名を聞いたことがなかったが、興味のある人には面白かったかも。
 
 観光スポットの最期に石垣やいま村(旧・八重山民園)を訪ねる。八重山諸島の古い文化を保存するテーマパークである。園内には沖縄の県花であるデイゴが咲き誇っている。「沖縄の県花は何でしょうか?」とガイドに問われてハイビスカスとかブーゲンビレアと答える人が多かった。正解はデイゴである。デイゴはインドか東南アジアが原産地である。幹は沖縄の漆器に使われる。琉球大学では入試合格者に打つ電文はサクラサクではなく「デイゴ咲く」になっている。
 
 暑い。24〜25℃もある。家を出るときセーターを着ていたが、ここでは半そでシャツで十分だ。石垣島ではきょう3月20日が海開きだ。なるほど海水浴でできそうだ。ただ毎年3月20日は雨か曇りになるそうだ。今日も曇り空である。
 石垣やいま村の“やいま”は八重山(やいま)からとったネーミングであろう。
園内には100年くらい前に建てられた旧士族の邸宅が復元、移築されている。広い大きな木造家屋である。間取りがよくわかり一世紀前の生活が彷彿とする。しかし特に八重山の特色があるとは思えなかった。日本各地にある武家屋敷のように感じた。
 
 公園は自然動物園ともなっており、リスザルが放し飼いになっている。クリッとした丸い目を持つ小さなサルは愛嬌があり観光客の人気を呼んでいる。だが少々手癖が悪く人間に飛びつくとポケットやバッグに手を突っ込む。美味しいものがあると知っているのだろうか。
 
 最期の観光地やいま村に別れを告げ、後は帰るのみ。バスは石垣のメインストリートを走る。金融機関、役所が立ち並ぶ石垣銀座といってもよい賑やかな街であった。小さな島と思っていたが人口5万近くを擁する地方都市といってよい。石垣空港→那覇空港→神戸空港へ。快晴。高度11,900m 時速895km。快適なフライトの旅であった。
 
戦争マラリアについて
 太平洋戦争では沖縄は戦火にさらされた。特に本島では住民15万人が戦禍の犠牲となった。「ひめゆりの塔」の悲劇は映画や記録文学で伝えられ、内地の人も知らない人はない。しかし石垣島や宮古島の住民が蒙ったマラリアの惨禍をどれだけの人が知っていようか。昭和19年、米軍の沖縄侵攻が必至と見られ、宮古島には陸海合わせて3万、八重山諸島には1万300の兵力が送り込まれた。島の人口は一挙に増え、たちまち食糧危機に陥った。さらに軍の命令により住民は強制疎開を強いられマラリアの猖獗する地に追いやられた。
 
最悪の生活環境、栄養不良、医薬品の欠乏によりマラリアが蔓延、死者は続出した。石垣、宮古両島に米軍は上陸しなかったため地上戦闘はなかったが空襲と艦砲射撃にさらされ膨大な人命を失った。八重山諸島での空襲、艦砲射撃による死者は174人に留まったがマラリアによる死者は3,647人となっている。戦後軍の責任を追及する運動や訴訟が行われ、新聞で時々報道されている。しかし扱いは小さく原爆や沖縄本島に関する報道と比べるべくもない。
 
 マラリアがどうなったか。気になっていたので現地ガイドに尋ねた。
「1963年に最期の患者が出て以降マラリアは撲滅できました」との答えだった。
マラリアは過去のものとなったが、戦中沖縄周辺の島々の住民が蒙ったマラリアによる悲劇を忘れるべきではない。
 
旅の所感
 沖縄本島は十数年前一度訪ねているが、宮古諸島、八重山諸島については初めての旅であった。青い空、紺碧の海、白いビーチはどの島にも共通する景観であり予想通りともいえた。さらに現地の土を踏んで感じたのは圧倒的な緑のボリュームであった。どの島も山間部には亜熱帯樹が繁茂し、平地の畑にはサトウキビ畑、葉タバコ畑が連なっている。宮古島には製糖工場があり、年産30万トンと聞いている。戦前、日本の委任統治領であったサイパン、テニアン両島で砂糖の生産が盛んであった。昨年両島を訪ねてところサトウキビ畑はまったくなくなっており、砂糖の生産はやっていないと知り驚いた。沖縄では今も砂糖生産が盛んである。
 
 4日間で10島を巡るのだから、ずいぶんあわただしい旅であった。最初来間島の土を踏んだ際、不思議な既視感に捉われた。どこかで見たような感じがあるのである。空、海、珊瑚礁、ビーチ、ホテルの造り、緑の畑から受ける感じがサイパン、テニアンに共通するからであろう。亜熱帯の自然環境がもたらす景観であろう。ホテルについては大資本が共通の設計で建てたからと思われる。
 
 10島に格別息を呑むようなすばらしい景色があるわけではない。しかし本土では少なくなった自然環境、安らぎの雰囲気が残っている。喧騒の大都市から来た観光客はつかの間の“癒し”に浸れたであろう。とはいえこの地に永住するかと問われればイエスとは言いがたい。宮古島、石垣島を除けば僻地である。医療、教育の面では不安は残る。第二次産業に見るべきものはない。隆起珊瑚礁でできた島は農業にも向いていない。島民が観光事業に依存するのも当然である。北海道と並んで失業率の高い沖縄県である。昨秋来の不況がさらに県民の生活に打撃を与えたのではないかと懸念する。
 
 沖縄は琉球王朝時代から有形無形の差別を受けてきた。そのあげくあの苛烈極まりなかった太平洋戦争。戦後も沖縄人の苦難は終っていない。美わしの島で暮す人々の幸せを願わずにはいられない。
 
 21年4月1日 記
 
更新日時:
2009/04/10

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Last updated: 2009/4/10