坂田健一の旅行記

パナマ運河横断と中米7ヶ国を見る その1
アイランド・プリンセス号によるクルーズ旅
 
 1月7日(前泊)から22日(後泊)までパナマ運河を見るクルーズ旅に出かけた。運河周辺の6ヶ国(7ヶ国の予定だったが悪天候のためニカラグアには寄港できなかった)をも訪ねたが、主たる目的はパナマ運河にあった。
 
 小学校6年生のとき友だちに借りた本でパナマ運河建設の物語を読んだ。以来パナマ運河には興味を持ち、いつの日か自分の目で見たい思いを抱いてきた。
 
パナマ運河の歴史
 1534年、スペイン国王は地峡の幅が80kmある所に運河を建設するように地形測量を命じた。しかし運河建設は当時の能力を超えたものだった。
 
 それから3世紀を経てフランス人、フェルディナンド・デ・レセップスは「パナマ両洋運河世界会社」を設立した。レセップスは1869年(明治2年)、スエズ運河を開通させた実績があり、パナマ運河も掘削可能と思ったのであろう。スエズ運河の全長は163km、パナマはその半分に満たない。パナマ運河の完成に自信を持って臨んだのであったが・・・
 
 しかしスエズとパナマでは地理的条件が違いすぎた。スエズは砂と粘土の地質であり掘削は容易であった。一方パナマ地峡は岩山が聳え立っており難工事が続いた。何より現地で猖獗を極める黄熱病(yellow fever)とマラリアが大敵であった。パナマは熱帯雨林に覆われた瘴癘の地であった。劣悪な居住条件と労働条件に加えて悪疫のため労務者はバタバタ倒れた。最終的に死者の数は2万〜3万に上った。1880年から始まった工事は1889年に、経営の乱脈も加わり運河掘削を断念せざるを得なくなった。
 
 1894年、フランスは再び運河掘削に挑戦した。レセップスが考えていた海面レベルの建設を諦め閘門を利用する方法を提案したが、資金切れとなりこの試みも失敗に終った。 
 
 この後、運河建設の特権をアメリカに譲渡。次の段階としてアメリカの工事が始まった。アメリカはまず黄熱病の根絶とマラリアを媒介する蚊の駆除から始め、功を奏した。この結果、運河掘削に成功し1914年8月15日に第一船がパナマ運河を通過した。その後、さまざまな経緯を経て、1999年12月31日、米国はパナマへの運河譲渡を決定した。
 
現在はパナマ運河庁(ACP=スペイン語の略称)が運河の維持管理を掌っている。
最近の統計によれば、年間13,000隻の船が通行しており、その貨物の総量は2億5千万トンに上っている。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人として青山士(あきら)氏(1878−1963)がある。氏は東大土木工学科卒。パナマ運河地形の測量や閘門設計に携わった。
 
 パナマ運河の構造
 パナマ運河はスエズ運河のように海面レベルの運河と異なり、閘門式運河となっている。水位の異なる太平洋側と大西洋側の水位を調整するため、この方式が採用された。閘門は太平洋側からいうとミラフローレス閘門、ペドロ・ミゲル閘門、ガトゥン閘門の3箇所に設置されている。太平洋側から入る船はまずミラフローレス閘門のチェンバー(室)に入り、扉を閉ざす。注水して水位が上がると前方の扉を開け次のチェンバーに入る。
 
これを繰り返しガトゥン湖に至ると自力航走ができる。ガトゥン閘門に至れば逆の方法で下り、カリブ海(大西洋)に出る。かなりの手間と時間がかかるが、レセップスの考えた水面レベルまでの掘削は技術的、経費的に不可能である。閘門式とはうまい方法を考えたものだ。ちなみに運河通過に必要な時間は平均9時間となっている。
 
パナマ運河の戦略的価値
 パナマ運河の価値は経済的価値のみではない。米国にとって大きな戦略的価値を有する。米海軍の仮想敵はもちろん日本海軍であった。太平洋を挟んで両海軍は互いに相手を仮想敵とみなしていた。米海軍は太平洋艦隊と大西洋艦隊を有する。日本海軍と対決するのは太平洋艦隊であり、大西洋艦隊はドイツ艦隊を相手にすることになる。しかしドイツには見るべき艦隊はない。第一次、第二次大戦を通じてドイツ海軍の活躍はUボートに任されていた。
 
 太平洋で日本海軍と事を構えるとなれば、大西洋艦隊を太平洋に回航しなければならない。パナマ運河開通以前なら南米の先端を回るしかなかった。これは日数がかかる。おそらく1ヶ月を要したであろう。無補給で長途の航海はできないから、南米の各港で補給しなければならない。しかし南米諸国は反米感情が強い。長年にわたる米国の圧迫から反米感情が醸成されてきたのは当然である。寄港と燃料補給を要請しても体よく断られる可能性が高い。バルティック艦隊が嫌がらせを受けたのと同じような憂き目を見る恐れがある。
 
 さらに艦艇を建造する造船所は東海岸に多い。竣工した軍艦を太平洋に回航するのも大変な苦労がある。パナマ運河の開通はこれらの悩みを一挙に解消した。米国がなりふりかまわずパナマ政府に圧力をかけ、パナマ運河地帯を永久租借したり、周辺に軍事基地を設けたのはパナマ運河が米国の動脈であり、生命線であったからだ。日本がかつて満州を「満蒙は日本の生命線」といったのと同じようなものだ。
 
 なお米海軍の艦艇にはパナマ運河通過可能という絶対的条件がある。パナマ運河通過可能な船は全長294m、全幅32.3m、喫水12m以下となっている。これをパナマックスサイズという。このため米海軍は主砲口径が40センチ以上の戦艦を建造できなかった。主砲が大きくなれば、艦の幅も大きくせざるを得ない。日本は米海軍の泣き所を知っていたから、46センチ砲搭載の大和、武蔵を建造した。そのためどっしりと重厚感のある大和と比べて、アメリカの戦艦は艦体が長くスマートな感じを受ける。
 
 米国の武力とカネの力で弱小国を支配できる時代は過ぎた。ようやく10年前、パナマ運河がパナマへ返還されたのは喜ばしいことだ。
 
パナマ運河閉塞を考えた日本海軍
 米海軍がパナマ運河の戦略的価値を認めたとなると、日本海軍としても無関心ではいられない。米海軍の太平洋艦隊と大西洋艦隊を同時に相手にするのは日本海軍にとって荷が重過ぎる。日本としては両洋艦隊が合流するまでに短期決戦により各個撃破を図らねばならない。
 
 太平洋戦争中、帝國海軍はパナマ運河の閉塞作戦を考案した。山本五十六の発想という説もある。 この作戦のために「伊400」というばかでかい潜水艦を建造した。この潜水艦に小型飛行機を3機積みパナマ近海にひそかに忍び寄り、飛行機を発進させ運河閘門を破壊しようという壮大な作戦であった。しかし壮大ではあるが、成功率は限りなくゼロに近い。
 
まず閘門は小型爆弾で破壊できない。魚雷ならできようが小型機に重い魚雷は積めない。なにより伊号400が竣工したのが昭和20年に入ってからだ。このとき硫黄島は陥落し、米軍は沖縄に迫っていた。制空・制海権を失っていた当時、太平洋を横断して潜水艦がパナマに近寄れるはずはない。仮に僥倖に恵まれ、パナマ運河破壊に成功していても、戦局が覆ることはありえない。米艦隊は太平洋に進出していたからパナマ運河が封鎖されてもなんら痛痒を感じなかったであろう。結局巨費を投じて建造された伊号400はなんら戦果を挙げることなく、敗戦を迎え太平洋上で米軍の拿捕するところとなった。哀れ、数隻の潜水艦は米海軍の実弾射撃目標となり短い生涯を閉じた。
 
 もし緒戦、日本が優勢であったときパナマ運河閉塞に成功していれば戦局はどう変わったか。閘門破壊より、運河閉塞のほうがやりやすかろう。理想的には巨大戦艦ニュージャージーとか空母エセックスが閘門を通過中、撃沈着底させていれば運河は完全に封鎖できる。さらに都合よく運べば、米機動部隊が通過中、太平洋側と大西洋側の両方で閉塞できれば米艦隊は袋のネズミとなる。閘門内部ではUターンできない。
 
 これは夢物語である。仮にこうなっても米国の持つ工業力、技術力を持ってすれば復旧は早かろう。閘門を塞いだ艦は容赦なく爆破され、せいぜい戦争を数ヶ月引き延ばすだけで終ったはずだ。
 
 なお海軍はパナマ運河攻撃のため、運河建設に携わった前述の青山氏に「運河を破壊するにはどこを狙ったらよいか」と助言を求めた。青山氏答えて曰く。「私は運河の造り方は知っているが、壊し方は知らない」と。自分が心血注いで造った運河を破壊するのは耐えられなかったのであろう。また戦争の愚かさを言いたかったのだと解する。
 
1月8日 出発
 8:25伊丹発 9:50成田着
集合時間は11:00なので十分余裕がある。ダラス行きアメリカン航空の出発は
13:00となっている。米国でクリスマステロ未遂事件があった直後なので検査が厳しいのを覚悟していたが、特に従来と変わったことはなかった。ただ搭乗口で手業による荷物検査と、ボディチェックがあった。ダラスまでのフライト時間は10時間50分と聞かされた。ダラス・フォートワース国際空港で3時間待ってメキシコシティ行きに乗り換える。この空港はテキサス州ダラス市とフォートワース市の中間にある。巨大空港であり、米国ではデンバー国際空港に次ぐ2番目、世界では3番目の大きさを誇っている。ちなみに米国一はシカゴ・オヘア空港である。ダラスの地名はジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された地として世界に汚名を知られることになった。
 
 2時間35分のフライトの後、メキシコシティに到着。バスでアカプルコに向かう。メキシコシティは素通りである。雨模様であり、公園の松林が墨絵のように煙っている。アカプルコまで380kmの行程であり6時間のドライブ旅行となる。途中標高3,100mの山を越す。メキシコにこんな高い山があるとは知らなかった。このころから車内が冷え切ってきた。真冬の日本を出てきたので毛糸のセーター、ジャンパーを着込んでいたがそれでも寒い。特に下半身が冷える。同行の女性たちは用意がよく裾の長いダウンジャケットを着込んでいた。メキシコといえば南国のイメージがあり、寒さ対策は考えていなかった。
 
それにしても車内に暖房が効けば万事解決する。暖房設備がないとは考えられないが、外気が低いので効きが遅いのか。中途、トイレ休憩で立ち寄ったスーパーマーケットは鉄格子を閉めたまま取引を始める。客は格子の間からカネを出し、店はそれを確認してから商品を渡す。防犯上のためだろう。すでに周囲は真っ暗であり、近くに人家も見当たらない。日本でも深夜営業中のコンビニがよく強盗に襲われている。格子を下ろしたままの商売は強盗対策には有効であろう。
 
 ここでバスを降りたとき、足がふらつき、頭が痛くなった。高山病にやられたようだ。3,100mを走行中にやられたのであろう。バスで走っている時間でも高山病にかかるのだった。幸い、下山するにつれすっかり治った。
 
 アカプルコのホテル到着は10時を過ぎていた。夕食はない。食欲がないからちょうどよかった。グランドホテル・アカプルコは大きなホテルだ。部屋は広く窓からは海が見える。ビーチは延々と広がっており、世界有数のリゾート地であるのを示している。
 
 アカプルコは保養地であり、歓楽地でもある。ホテルの周辺にナイトクラブ、キャバレーなどが軒を連ねているが、この時間まだ活況を呈するには至っていない。深夜から翌朝にかけてアカプルコは不夜城と化すのだ。アカプルコの人口は60万だが、年間数百万人の観光客が押し寄せる世界有数の観光都市である。
 
1月9日 2日目
 朝食後、アカプルコ市内観光に出かける。まずラピエスタ展望台からアカプルコの街並みと海岸線の眺望を楽しむ。リゾートホテルが林立しているのが見える。次にサンディエゴ要塞跡を訪ねる。スペインが海賊対策として築いた要塞である。五稜郭と似た形をしており、大砲が何門か海を睨んでいる。大航海時代、新大陸やアジアからの収奪はヨーロッパに大きな富をもたらしたが、海賊もまた跳梁跋扈していたに違いない。 要塞内部は歴史博物館となっている。ここではアカプルコの歴史が見られる。ここももともとはスペイン軍の兵営であった。頑丈な石垣が築かれ、堀で囲まれている。堀には跳ね橋が架かっている。
 
 内部には、中国、明時代のものと思われる陶磁器、台湾の刀、着物などが展示されている。ここからフィリピン、中国にかけて交易があったことを示している。
 博物館が建っている丘から見下ろすとアカプルコ港に、アイランド・プリンセス号が停泊しているのが見える。今夕私たちが乗る船だ。白亜の巨体を写したが、大きすぎて全容はカメラに収まらない。
 
 この後、ターザンで鳴らしたワイズミューラーの寓居というか別荘を見学する。
ターザンといっても今の若い世代にはなじみがなかろう。ワイズミューラー演ずるターザン映画は戦前から戦後にかけて世界の少年の胸を高鳴らせた。戦後すぐ見た映画の題名は確かではないが「ターザンの逆襲」であったではなかったか。ジャングルで孤児となったターザンは野生動物に育てられ、たくましく生き抜いた。
 
独特の叫び声で動物を寄せ集めたり、猛獣と死闘を繰り返すターザンの姿は子供たちの心を捉えた。ワイズミューラーはオリンピック水泳選手であり、2度の五輪大会で5個の金メダルを獲得した。海面を見下ろす絶壁の上に建つ屋敷は、緑に囲まれ最高の環境に包まれている。決して目を引くような豪邸ではないが風雅を愛する人なら、うらやましくなるのは間違いない。ワイズミューラーはアカプルコがことのほか気に入り終生ここで暮らしたという。
 
このほか著名な俳優の別荘がいたるところにある。お金持ちならこの地で生涯を送りたいと思うのもむべなるかな。
 
昼食をレストランで摂りながら、アカプルコ名物のダイビングショー“ラ・ケプラダ”を見物する。10m、20m、30mと高低差をつけた断崖から海面に向けてのダイビングを見せるショーである。予定時間がやってきてもショーはなかなか始まらない。ダイバーは岩頭に立ち、息を整えているようだった。下手に飛び込めば崖面の激突し命を失う。ダイバーには少年も混じっていた。
 
ショーはあっけなく終ってしまった。無事に飛び込みに成功すれば観客から拍手喝采、口笛が沸き起こる。これも観光資源の一つだろうが、失敗例はなかったのか、といらぬ心配をする。このレストランのビールはまずい。「サイダーに毛の生えた程度」と評する人もいた。ビールは掛け値なく日本のものがうまい。ミュンヘンで飲んだビールが最高だった、という人もいたが。
 
 アカプルコの街中に珍しい人物像を見つけた。車道の分離帯にある狭い場所に日本のサムライの像が建っている。1614年、伊達政宗がローマ法王に向かって送った遣欧使節団の一員であった支倉常長(はせくらつねなが)の像であった。保養地、観光地として有名なこの地に場違いな感じがあるが、日本の武士は凛然として立っている。彼はヨーロッパに向かう途中、アカプルコに立ち寄ったのであった。この像はいつ建立されたのか知らないが、メキシコ人の日本に対する親愛の情と解釈して間違いなかろう。
 
 15時乗船開始。初めてクルーズ船コーラル・プリンセス号に乗ったとき、乗船手続きにずいぶん手間取った。不穏分子が紛れ込まないよう本人確認に時間がかかるのだ。まずクルーズカードが渡される。氏名は記されているが、部屋番号は記入されていない。このカードは乗船中非常に重要である。船内での代金支払いはすべてこのカードで決済される。現金取引は行われない。また部屋のキーをも兼ねている。下船乗船の際にはこのカードが身分証明になる。このシステムはコーラル・プリンセス号で経験しているので問題なく理解できた。
 
今回も待たされるのを覚悟していたが、すんなりと乗船できた。乗船と同時に船内マップが渡された。16層まである各デッキのレイアウト、部屋の配置が示されている。だが小さなルームナンバーの数字は老眼には読みづらい。私の部屋は12FのA319と決まった。一般の建物と同じように
12F(12階)といったが船ではフロアーでなくデッキと呼ぶ。また各デッキには数字以外にニックネームがついている。14Fにはリド・デッキ、12Fはアロハ・デッキ、8Fはエメラルド・デッキと呼ばれる。7Fのプロムナード・デッキ(遊歩甲板)は万国共通の名称であろう。
 
 ちなみに13Fはない。クルスチャンの多いアメリカの船だけに”13“という数字は忌み嫌われるからだ。日本の病院では「4」のつく病室がないのと同じだ。
 さて自分の部屋は決まったものの、気がかりなのはすんなり自室へ行き来できるかどうかだった。以前乗ったコーラル・プリンセス号でもずいぶん迷子になった。巨大船になると通路はかなり迷路じみている。まして窓際でない部屋では船の進行方向さえわからない。
うろうろしているとクルーが親切に教えてくれた。偶数番号の部屋の通路に敷かれている絨毯は赤色で縁取りがあり、奇数番号のそれは青色であると。このとき偶数はイーブン(EVEN)ナンバー、奇数はオッド(ODD)ナンバーと憶えた。
 
部屋の掃除、ベッドメーキング、乗客の世話を担当するルームスチュワード(男女両方ある)のゼムさんと顔を合わす。彼女は色の浅黒い小柄な女性だ。ゼムとはどんな字を書くのだろう。名札を見るとGEMMとなっていた。多分フィリッピン人だろうと思って尋ねるとやはりそうだった。どこの国の船にも下級船員にはフィリッピン人が多い。甲板掃除やレストランでのウェイター、厨房員などには圧倒的にフィリピン人が多い。フィリッピンには島が多い。
 
どの島の出身なのか尋ねてみた。「ルソン?レイテ?ミンダナオ?サマール?パラワン?」いずれも太平洋戦中の激戦地だった。全部外れた。「ビサヤ島です」という。ビサヤとは聞きなれない。ルソン島とミンダナオ島の間にある島という。後日調べてみるとビサヤはビサヤ諸島であり、レイテ、セブ、ネグロス、サマールなどの島が含まれているのを知った。彼女にはこれから11日間の航海中お世話になることになる。
 
 乗船後、避難訓練が義務付けられている。船内アナウンスがあれば、救命胴衣を抱えて指定された場所に集合しなければならない。今までの乗船経験から、逃れるわけにはゆかないと思っていたが、疲労のため動く気がしなかった。とにかく眠かった。私だけでなく日本人グループ全員がサボった。出欠を取られると思っていたが、それほど厳重ではなかった。
 
 船内初の夕食はバイキングではなく、ボルドーと呼ばれるレストランでセットメニューを注文した。英語のメニューを読んでもどんな料理か見当もつかない。何とか食材がわかるくらいだ。ロブスターが海老、ビーフが牛肉、ラムが仔羊、ポークが豚肉くらいはわかる。だがボリューム、味は見当もつかない。わかりやすいローストポークを注文したが、ドスンと置かれた肉の塊を見て仰天した。皿いっぱいの大きさに加えて厚さが4センチはあろう。
 
これだけの量を食べられるはずがない。4分の1の量で十分だ。何とか努力して半分だけを胃袋に収めた。シェフにしてみれば、アメリカ人の食事量を基準にしているのだろう。日本人が料理を残すのを見て「日本人は少食だ」といわれることがある。
 その後、食べられる自信がなければ注文の際、ハーフサイズといえばよいのがわかった。
 
 20:00出航。巨体がどのようにして港を出るのかその瞬間を見たかったがあっけなかった。出航光景を見るため甲板へ出た。タグボートなし。スラスターを使って横ばいをしたのだろう。華やかな出港光景はなし。銅鑼の音もテープの交歓もなし。汽笛が鳴ったのかどうか気づかなかった。甲板に3人姉妹と思しき可愛い白人の少女がいた。写真を撮ってもいいかと聞くとOK。妹二人をカメラに収めた。なぜか一番上の少女の姿が見えなかった。二人の少女から「サンキュー」といってくれた。よくしつけられた子供であった。
 
 ここでアイランド・プリンセス号の要目を掲げてみたい。
運航  プリンセス・クルーズ社 (ロサンゼルス)
引渡日 2003年6月18日
船籍  ハミルトン バミューダ
総トン数 91,627トン
全長  294m
垂直部分の長さ 266.44m
幅員  32.2m
全幅(ブリッジの張り出し部分を含む)38.4m
高さ 62m
最大乗客数 2,368人
通常乗組員数 810人
スラスター 船首部分3基
      船尾部分3基
スタビライザー 2基
燃料搭載量 重油1,899トン
清水搭載量 2,199トン
航海速力    22ノット
 
1月10日 3日目
 船内初の夜は熟睡できた。7時起床。かなり揺れている。朝食を摂るためリド・デッキへ上がる。ここにバイキング形式のレストラン・ホライズン・コートがある。船首にあるため進行方向がよくわかる。眺めがよいため窓際のテーブルは早く行かなければたいてい占拠されている。朝夕2度の食事はここで摂っている。ところが早速道を間違えた。船首に行くつもりが船尾に行ってしまった。船尾には健康器具を備えたジムがある。コーラル・プリンセス号に乗ったときもよく船首と船尾を間違えた。200mを引き返すことになる。我ながらおかしくなった。コーラル・プリンセス号で再々迷ったから、今回はよく気をつけているつもりだったが同じ過ちを繰り返した。
 
 海はかなり荒れている。風が強く白波が一面に立っている。目測では風速7,8mはあろうか。
 今日は初の上陸予定日。上陸地はメキシコ・ワタルコとなっている。ワタルコとは初めて聞く地名であり、どんな街かまったく予備知識はない。
 集合時間に集合場所7Fのホイールハウスバーに出向いた。ホイールハウスとは操舵室の意味であり、部屋には舵輪が掲げられている。この部屋は大勢が集合する場合、よく使われる。
 
 すでに一行は集まっている。「折角なのに残念だわ」と女性の声。「え、何のことですか」と問うた。「あらご存知なかったの。今日の入港は取りやめになりました」
 部屋を留守にしていたため添乗員からの連絡が届かなかったのであった。強風のためワタルコ港はクローズされたと聞かされた。ワタルコ港の設備は知らないが、巨船になれば横風にあおられると接岸は難しかろう。
 
海面を見ればかなりの強風であるのがわかる。「楽しみにしていたのに残念」という声もあったが、正直なところうれしい気持ちも否めなかった。日本を出て以来、休息をとることもできず、疲労は溜まっている。この辺で一日ゆっくり休みたかった。子供のとき、学校が臨時休校になったような喜びがあった。
 ワタルコに思い入れがあり、どうしても見たかった人にとっては残念だろう。
 
いったいワタルコとはどんな街なのか。案内書を見ると開発途上の観光地であり、コロニアル風の家並みの続く伝統的な街、黄金色の砂浜の眺望が楽しめるとなっている。
 格別未練を感じるような街でもなさそうだ。ただ今後もう一度来ることはありえないとすると、縁がなかったと思わざるをえない。
 急遽予定変更となり、今日は終日航海となる。空いた時間を利用して添乗員による船内案内となる。大体がコーラル・プリンセス号と同じである。コーラル・プリンセス号は2002年竣工、アイランド・プリンセス号は2003年竣工の姉妹船である。したがってコーラル・プリンセス号が1歳年上の姉さんになる。
 
 海面は一面に白波が牙を剥いている。段々風が強くなっているようだ。この船には横揺れ防止のためスタビライザーがついている。そのため船そのものは大きく揺れず船酔いに苦しめられることもない。これが1万トンクラスの船でスタビライザーがなければ相当の船酔い患者が出たことであろう。
 プールの水がバシャバシャとあふれている。船がさほど揺れていないのにどうしてプールの水が氾濫するのか不思議である。プール利用は危険である。水面にネットを張って使用禁止となる。甲板へ出るドアはロックされデッキへ出るのは禁止される。
 
 きょうは船長主催の歓迎パーティの日である。大体が日程の半ばにあるものだが、今回はなぜか出航2日目となっている。乗船客はフォーマルな服装を着なければならない。英国の航海時代からの伝統だろうが結構面倒だ。さすがにタキシードやモーニングまでは必要ない。タイタニックの時代ではないのだ。略礼服でよい。女性はおめかしに大童だ。船内ヘアサロンは朝から忙しい。このパーティは一航海中2回ある。
 
 パーティの前に私たち日本人グループ23人(添乗員を含む)は私的な会を開き、席上自己紹介をした。ただ一度だけお名前を聞いただけでは21人の名前を覚えきれない。従前のように氏名、住所、電話番号が記載された一覧表があれば便利なのだが、「個人情報保護」のため、いっさいの資料がなくなった。
 
少し前までは氏名と都道府県だけ記されたプリントをくれたが、今はそれすらなくなった。名前がわからないのは何かと不便だ。本人にいちいち名前を確認できない。結局添乗員以外、21人の方の名前はすべて忘れた。旅行中、お世話になった方もおりお礼状を出したいがそれもかなえられない。不自由な世の中になったものだ。
 
 さてこの会に臨もうとしたところ、とんでもない“ハプニング”が起った。私の歩いた後に黒い物体がポロポロ落ちているのだ。「あれ、何」とまず添乗員が気づいた。なんとわたしの靴の踵が脱落しているのである。
 
「しまった。またやった」と思ったのは、これが2度目であったからだ。数年前、親戚の婚礼に出席して披露宴が終ったあと、靴の踵が脱落したことがあった。そのとき、靴はしまいこんでおくとよくない、と忠告を受けていた。それなのにまた同じ失敗を繰り返した。今回、持ってきた靴は一度も履いたことがない。下駄箱の奥に長年眠っていたものだった。真新しいのでセレモニーに履くのにちょうどよい、と思って点検もせずに持ってきたのであった。
 
 愛知県愛西市から来た男性がうれしそうに「これで仲間ができた」と喜んでいる。なんとその方もまた私と同じ目に遭ったのであった。彼はセロテープで貼り付けていたが、そんなことで長持ちするはずはない。なお自己紹介の席で彼は愛西(あいさい)市を「愛妻」ではないと強調していた。靴を大切にしまいこむのはよくない、というのがみんなの結論であった。大切にしまったのではなく、忘れていたのが実情であったのだが。
 
 19:30船長の歓迎パーティが始まった。船長のお礼の挨拶のあと高級船員の紹介があった。女性は2人あったと記憶している。船内新聞によれば船長のニコロ・ボンマルコ氏はイタリア・ベニス生まれ。タンカー乗り組みからスタートし、1984年からプリンセス・クルーズ社の船で七つの海を旅し、数え切れない港を訪ねている。住まいは今もベニスにあり、休暇のときは愛犬の世話、料理と最近始めたサクスフォーンを楽しんでいる、となっている。
 
 この後、アトラクションとしてシャンペンウォーターフォールが始まる。750個のシャンペングラスをピラミッド状に積み上げ、その上からシャンペンを注ぐというものである。文字どおりシャンペンが滝のように流れる。シャンペンを注ぐには乗客の希望者も参加できる。
 
 実はこの“遊び”はコーラル・プリンセスで経験済みであった。カメラマンが勝手に写した写真も購入した。アメリカ人の好みそうな余興だが、無駄に流れるシャンペンにもったいないという思いをぬぐいきれなかった。プロ野球の優勝チーム恒例のビールかけを思い出す。
 
 5階の吹き抜けが会場だが、コーラル・プリンセスのときに比べて観衆の集まりが悪かった。コーラル・プリンセスでは階段も鈴なりの人で写真撮影もままならなかった。今回も早く行っていい場所を選んだ積もりだったが杞憂だった。乗客もリピーターが増え興味を失ったのか。 専属カメラマンは大忙しである。このパーティに限らず、乗客のスナップ写真を撮り、翌日廊下に展示する。乗客は気に入ったのを見つけると購入する。いい値段である。1枚20ドルくらいにもなる。買い手のなかった写真は処分されるが原価はしれている。写真屋はいい儲けだろう。
 
 勝手に写されるのにクレームがついたのか、カメラマンは了解を求めるようになった。ほしくもないので断った。アメリカ人は写真好きだ。それも夫婦や家族連れの写真を好む。夫婦連れを写すコーナーは順番待ちの行列ができている。出来上がった写真を応接間や客間に飾り、友人に見せびらかすらしい。日本人ならいい年をした夫婦がほっぺたをくっつけて写すのは照れくさいものだが、これも文化の違いといえようか。
 
1月11日 4日目
 5時30分に目覚める。早く起きたので朝食前にシャワーを浴び、洗濯をする。船室のシャワーは極端に狭い。スイートルームには湯船があるが、あとはみんな同じサイズである。限られたスペースの船内であるのでやむをえないと思うが、巨体の持ち主のアメリカ人は身体がはみ出るのではなかろうか。とにかく背中を洗うのが大変だ。
 スイートルームを取った方の奥さんの話では浴槽が大きすぎて湯を溜めるのに時間がかかりすぎる。また満水にすれば小さな日本人は溺れそうになる。仕方なくシャワーで済ませたといっていた。なんとも贅沢な話である。
 
 昨日とは打って変わって海面の白波はゼロとなっている。早くもプールで泳いでいる白人女性がいた。今日の予定はグアテマラのプエルト・ケッツアルへの寄港上陸である。国名のグアテマラは知っていたが、プエルト・ケッツアルの地名は初めて知ることだった。この日は8時間かけて古都アンティグアを観光する。港に降り立ったとたん、強烈な陽光を浴びた。気温が格別高かったのではない。30度以内であったはずだ。
 
しかし空気が澄んでいるのか太陽光線は邪魔ものなく肌に突き刺さる感じがする。船内のエアコンに慣れていたので格別暑く感じた。バスに乗って間もなく車窓から噴煙を上げる火山が目に入ってきた。山容は富士山に似ている。グアテマラは日本と同じく火山大国であり32の火山がある。噴煙を上げているのがアグア火山であり、3つの火山が並んでいる。1時間ほどかけて標高1,500mにある高原の街アンティグアに到着。郊外にあるコーヒー農園のコーヒー畑や収穫の工程を見学する。ここまで来るとかなり涼しい。薄ら寒いといってもいいくらいだ。コーヒー園は熱帯樹が生い茂り、植物園といっていいくらいだ。
 
 コーヒー豆は天日で乾燥させる。広い土地に薄く広げた豆を、グラウンド整備に使うトンボのような道具でかき混ぜている。毎日夕刻までに屋内にしまうそうだ。雨に濡らすと台無しになるからである。その作業光景は、ふるさと鳴門の塩田作業を彷彿させるものがあった。ここの工場でできたばかりのコーヒーを試飲。やや苦かった。
 このあと、伝統音楽博物館へ。ここには昔ながらの珍しい楽器が展示されており、その音色を聞かせてもらった。なぜか弦楽器はない。 グアテマラの主要農産物サトウキビの年産1,500万トン、サトウ17万トンとなっている。
 
 その後中心地の旧市街へ。この街はユネスコ世界遺産に指定されている。街の雰囲気は今までに見た諸外国の都市とは異なっている。石畳の道を歩くと聞かされていたが、ヨーロッパの都市に見られる石を敷き詰めた道路ではなく、土に凹凸のある石を埋め込んだような感じだ。歩きにくいことはなはだしい。街に信号機はない。しかしでこぼこ路が幸いして車はスピードが出せない。せいぜい30kmまでだ。四輪はともかくバイクは走りにくそうだ。
 
両側の家は1階か2階どまり。赤か朱色の壁である。見事な技術が施された正面入り口を持つメルセー教会を見学し、昼食レストランへ。元米大統領クリントン氏が立ち寄ったのがこのレストランの自慢である。そのときの写真が掲示されている。かなりの年代物の建物で、すすけているのが由緒あるらしい。しかしクリントンがわざわざ立ち寄るほどのこともないと思うのだが。ここで名物料理ピアン(鶏肉の煮込みシチュー)を摂る。
 
 次にレコレクシオン修道院の廃墟を見る。1773年首都アンティグアは未曾有の大地震に遭い壊滅した。そのためグアテマラ・シティに遷都した。この修道院は崩壊したままの姿を残している。すさまじい破壊の跡である。小さな家くらいある煉瓦と石の塊が転がっている。ドーム型天井も壁も崩落したままだ。この廃墟を片付けもせず、復旧もしないで放置している意図は何だろうか。廣島の原爆ドームのように後世に人類の愚行を伝えるためなのか。しかしここの廃墟は人災ではなく自然災害なのだ。
 
阪神大震災にも焼け残った煉瓦の壁が保存されている。この修道院跡も災害への対策の教訓として残されたものなのか。なおアンティグアにはここ以外にも教会、修道院の廃墟が何箇所もある。
 いずれにせよ個人的にはこういう廃墟には興味を惹かれる。美しい風景はもちろんすばらしいが、強烈な破壊の跡も独特の感動を催す。靴が壊れた仲間になったAさんもあの廃墟はよかったと感心していた。
 
 グアテマラは地震大国であり、これ以降にも何度も地震に見舞われている。先住民族は経験から地震対策を講じていたが、侵略者スペイン人は先住者の知恵に学ばず、スペインの建築法をそのままこの地に適用した。したがって先住民族の建てた建築物は壊れず、スペイン人の建てたものは破壊された。これと同じことをペルーでも聞いた。先住民族の建てた家は壊れず、新しいはずのスペイン人の建造物は見事に破壊された。暴虐の限りを尽くした侵略者への天罰といえるかも。
 
 このあとちょっとしたハプニングに見舞われた。私を含めて女性4人、計5人が迷子になったのである。廃墟に見とれているうちに添乗員を含む先頭集団とはぐれてしまった。次に行くところがマーケットと聞いていたからさほど不安になることはない。
 
 露地マーケットに入ったが、先のグループの姿は見えない。マーケットは何百軒の店が軒を連ねている。通りは一本ではない。
 女性の中には「添乗員は一番後からついてくるべきだった」と不満をもらす声もあった。確かにその通りだが、当方もぼんやりしていた責任もある。露天マーケットの中をぐるぐる歩いたが、先のグループは見つからない。先ほど不満を口にしていた女性が「この露地はまだ入っていないから通ってみよう」と言い出す。「買い物何もしていないのだから」と。
 
 女性のたくましさに感心する。迷子になって一刻も早く添乗員のグループを見つけたいのにまだ買い物を優先する。さすがにほかの方がたしなめた。 広い駐車場があり私たちのバスが停まっていた。添乗員は私たちが先に行ったものと思い込んだそうだ。とりあえず一安心。
 
 みんなが揃ったところで翡翠の加工場を見学する。翡翠の世界的産地がグアテマラ、メキシコ、ミヤンマーであることを初めて知った。翡翠は紫色と思っていたが同行の女性から「いや、緑ですよ」と教えられた。
 
 昭和46年、初めての海外旅行で訪ねた台北・故宮博物館で見た翡翠の屏風は「紫色」であったような記憶があるが、思い込み違いかもしれない。もっともくだんの女性は「すみません。紫もありました」と訂正してきた。
 
 調べて見るとグリーンが一番多いが白、灰色、黒、黄、青などもあると知った。職人が原石を削っている。破片をお土産にもらったが、加工のしようがない。翡翠はダイヤより硬いから、鉄の鑿では削れない。高価な商品なのでグループで買う人はなかった。今日は一日観光に費やした。
 
1月12日 5日目
 7:30起床。昨日とは海面の状況は打って変わって荒れている。一面に白波が立っている。船内放送があった。今日はニカラグアサンファン デル スールへ寄港上陸の予定だったが、またしても強風と高波のため入港不能。終日航海に切り替わった。睡眠中、海面がかなり荒れているのを感じた。時折、ドスーンと船体が何かと衝突したような衝撃を感じた。大波とぶっつかった時の衝撃だ。それに加えてミシミシとどこかが異音を発する。夢うつつの中で「地震だ」と錯覚することもあった。ウォーターハンマーといわれるように水の衝撃は強い。9万トンの巨体でも弄ばれるのである。自然条件はいかんともしがたい。こうなれば船内で楽しむしかない。
 
プールとプールサイドは超満員であった。上陸観光を予定していた船客がプールの殺到しのだ。アメリカ人(アメリカ人とは限らないが、アメリカ人が圧倒的に多いので白人はみんなアメリカ人に見える)はあまりプールに入らないで、デッキチェアに寝そべって日光浴を楽しんだり、読書に耽っている。
 
中にはプールに入ったまま本を読んでいる女性がいた。読書といってもクロスワードパズルに挑んでいる人が多い。プール周辺を占領した白人の水着姿は壮観である。だいたい中高年者が多いので、目の保養にはならない。男性はともかく女性の巨大なヒップには圧倒される。まるで魚河岸に揚げられたマグロかトドの大群に見える。
 
 アカプルコ出航のとき、甲板で写真を写してあげた幼い姉妹に会った。3人姉妹のはずだが一番上の少女の姿は見えない。まだ6,7歳と思える少女たちは泳ぎが達者であった。このプールは浅い場所で5フィート7インチ、深いところは7フィートを超えている。もちろん大人だって背は立たない。ところが2人の少女は恐れることなくプールに飛び込み、潜っている。泳いでいる私の腹の下を通り抜けるのだから驚いた。
 
身体を温めるためジャグジー(泡風呂)に入る。今まで乗った船のジャグジーの湯温は低く、ぬるま湯に浸かる感じであった。アメリカ人の若者は女性連れで入り、コーラやコーヒーを飲みながらいつまでも浸かっている。ところが今回、ジャグジーが空いている。理由は湯の温度が高いからだろう。10分も入っておられない。白人は日本人と違って熱い風呂を嫌う。それでジャグジー独占させないよう湯温を高くしたのでなかろうか、と推測した。強風がビュービュー吹いている。
 
 折角のフリーの時間だから図書室を利用することにした。ライブラリーはかなり充実している。革のソファーに足置き台まで備えられている。ただ椅子を利用できるのは10人程度。ソファーに座り込んで居眠りしている人もある。
 
 本の種類は小説、それも推理小説が多い。しかし有名な英米作家の作品もある。長い小説を読む力もないから、もっぱら船や海に関する書物を探した。クルーズ船だけあってこの種の本は多い。「船の歴史」「幽霊船」「深海よりの叫び(この本は事故で沈没したロシヤ原潜クルスクの乗組員が死を目前にして書いた遺書を元にしている)」
 
「戦士となった女王(第二次大戦中、兵員輸送船として動員されたクイーンメリー号、クイーンエリザベス号の物語である)」また戦前の豪華客船から集めた什器備品、ポスター、メダルなど現在も骨董品として売買されている品物を網羅した写真集もあった。
 航空機が未発達だった戦前、大西洋を横断するのはもっぱら豪華客船であった。英、仏、伊などの船会社が競って豪華客船を建造し、ブルーリボンを争った。ブルーリボンとは大西洋横断の最高速レコードの保持船に与えられた栄誉賞である。
 
 タイタニックの遭難も、船会社の面子が一因となったのではないかといわれている。
残念ながら太平洋横断では熾烈な競争はなかった。競争相手がないこと、日米間を移動する乗客が少ないこと、欧州各国のものに比べて客船の規模が小さかったことがその理由である。戦前の日本の保有する客船、浅間丸、鎌倉丸、氷川丸、新田丸、龍田丸などそれなりの豪華船ではあったが、いずれも2万トンに足りない。
 
 他に海難史の本も面白い。日本でこの種の出版物は見かけない。日本は四面海に囲まれた海国といわれてきたが、目だった海洋文学も現れていない。日本人自体、海洋への関心が薄かったといわざるを得ない。
 
 船内では乗客を退屈させないため、いろいろなイベントが催されている。これらの催しは毎日配られる船内新聞で案内される。しかしアメリカの船であり、すべてが英語で語られるので日本人にはなじめないところがある。特にコメディはその面白さがまったくわからない。コーラル・プリンセスで経験しているので、はじめから見ないことにしている。観客がどっと笑っても何がおかしいのかわからないのは惨めだ。その代わり「歌と踊りのショー」は見て楽しければよいから気楽だ。今宵も8時30分から”Piano Man“を楽しむ。男女のダンサーはいずれもよく鍛えられている。その軽快な動きには感心するほかはない。
 
1月13日 6日目
 モーニングコールで6時に起床。旅行中モーニングコールで起されることはめったにない。たいてい1時間ほど前に目が覚める。だが今朝は熟睡していたのかモーニングコールがなければ寝過ごしたところだった。上陸予定がなければ寝過ごしても支障ないが今日はコスタリカ・プエルト・カルデラに寄港上陸の予定となっている。
 
 天気晴朗。海は凪いでいる。昨日の荒れた海面がウソのように和やかだ。海面の見える上甲板に上がってびっくりした。突堤の反対側にコーラル・プリンセス号が接岸しているのである。6年前、初めてのクルーズ旅行でアラスカ沿岸を巡った船である。プリンセス・クルーズ社の保有でアイランド・プリンセス号とは姉妹船である。同じ設計であろう。サイズもほぼ同じ。アイランド・プリンセス号は船首を海側へ、コーラル・プリンセス号は船首を陸側に向かって舫われている。6年半ぶりの邂逅である。
クルーズ旅行の魅力を教えてくれたのがコーラル・プリンセス号であった。懐かしさがこみ上げてくる。
 
 朝、下船前にシアターと呼ばれる大劇場に集合、上陸について説明を受けているとき大型テレビ画面でハイチの大地震を知った。現地時間12日午後4時53分の出来事であった。阪神大震災を体験した女性が「震度7ならたいしたことはない」といっていたが、たいしたことがあった。当初死傷者10万人と伝えられ過大に過ぎると思ったが後日、20万人に膨らんでいた。船内でテレビを見ることもなく、陸の新聞も届かない。詳報を知るすべがなかった。帰国後知ったことだが、家内はずいぶん心配したそうだ。太平洋岸を航行中の船が被害を蒙るわけがないのに、地図で見るハイチと至近距離にいるように感じたようだ。
 
 ハイチについて知識はなかったが、カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の東に位置する国である。西側はドミニコである。同じ島にある国なのにドミニコは豊かで、ハイチは極貧の国であることを知った。貧しさは北朝鮮と並ぶとも言われている。自然災害は弱者により厳しく襲いかかる。神に情けはないものなのか。
 
 ここの港には港らしい設備がない。長い突堤がビーチから海上に突き出ているだけである。ターミナルビルもない。下船した客は長い突堤を歩いて上陸する。突堤の根元に申し訳程度の関所があり、クルーズカードの提示を求められる。とはいえ係官はそれほど熱心に確認しているわけでもない。下船してからビーチまで200mくらいあろうか。歩くのが面倒であれば4両連結のトロッコ列車に乗ればよい。
 
今日のバスツアーは船会社主催なので外国人と一緒のバスに乗る。あらかじめ心配していた女性がいた。あの大きなお尻の持ち主のアメリカ人と2人掛けの座席に座れば私の座る場所がない、という心配である。幸い乗ってきたアメリカ人女性は8人だけであり、2人分の座席に1人ずつ座ることができた。確かに至近距離で見ればアメリカ人女性のヒップは巨大である。座席1.5人分は占領している。
 
 ガイドから「コスタリカは中米のスイスと呼ばれている」と教わった。風光明媚なのが共通しているのかと思ったが、それだけではなかった。コスタリカは常設軍隊を持たない国なのだ。1948年、憲法により軍隊廃止が決まった。とはいえ国家に危機が迫れば、急遽軍隊を編成できるとなっているから、まったくの非武装国家でもない。治安維持と国境警備は警察の仕事である。警備隊はかなりの装備を保有している。
 
 1983年、時の大統領は非武装中立国家を宣言した。しかし国会の承認を得ていない。コスタリカは中米では珍しく、政治、経済が安定している。軍隊を廃止した恩恵ともいえよう。九州と四国を合わせたくらいの国土に430万の人が住んでいる。国土の24%が国立公園か自然保護地域になっている。教育水準は高い。中米では一番恵まれた国である。
 
 バスは海岸沿いに山のほうに向かって走る。紺碧の空と海。湿度が高いと聞かされていたがそれほどでもない。汗は出ない。熱帯樹が茂り、花が咲く山道をドライブ。
緑の濃さ、厚みに感心する。コスタリカは野鳥の天国でもある。人口2万のオロティナの町へ向かう。途中スーパーみたいな食品店でトイレ休憩。バナナやマンゴーを試食させてもらう。
 
その後、エルパルザという町では、広場で子供たちが民族衣装をまとい民族舞踊を見せてくれた。踊りが終ると、子供たちは観光客の手を引き「一緒に踊ろう」という。このような場合、日本人は概して遠慮するものだが、アメリカ人なら喜んで飛び入りすると思ったがそうでもなかった。中年のオバチャンたちはしり込みしていた。その後、広場の前にある教会を見学。シンプルな構造であるがステンドグラスが美しい。
 
 昼ごろには船に帰りその後は自由解散となる。昼食後プールへ行く。また3人姉妹に会った。プールはがら空きである。いつもは混んでいるジャグジーも空いている。天気がよいからそれぞれのオプショナルツアーに出かけたのであろう。再度上陸して浜辺に沿った露天市を見て歩く。
 
ビーチにはテント張りの露天が延々と軒を連ねている。木彫りの装飾品、置物、刺繍を施した衣料品を並べている。世界各地の観光地では日本人を見ると「センエン、センエン」という物売りに付きまとわれるがここの商人はのんびりしているのか、うるさく声を掛けてこない。散策するにはありがたい。
 
 長いビーチが延びている。目の届く限り数キロはあろうか。浜は美しい。海は静か。しかし泳いでいる人は数人程度。小さな店で絵葉書を買った。子供をお守りしていた店番の女性が「ハポン?」と聞いてきた。日本人観光客は少ないのだろうか。アイランド・プリンセス号に乗っている日本人は私たち23人だけだ。
 
1月14日 7日目
 5:30目覚める。時計を1時間進める。6時起床。6:30 ほかにすることもないのでレストラン・ホライズンコートに向かう。オープンしたばかりだから誰も来ていない。一番であった。窓際の席に座る。ちょうど日の出の時間だった。朝日が水平線から昇る。黄金色の光芒を放ちながら水平線を染め上げてゆく。海面は静か。船は巡航速度15ノットで粛々と走っている。
 
 早くもジャグジーで読書に耽っている人がいる。 今日は終日航海。のんびりできる。船内アトラクションは盛り沢山である。
ダンス教室「メレンゲ」の講習ラインダンス教室水上バレー これは乗客とクルーの対戦である。男性の美脚コンテスト 男性の毛むくじゃらの脚を見てもグロテスクなだけだ。参加者が果たしてあるのか、と思っていたが結構あった。頭のはげたオッサンが面白おかしく身振り手振りを交えながらプールサイドを一周し、観客に”美脚“を披露する。こっけいなイベントであったが物怖じせず堂々と出演するアメリカ人の素朴さに感心した。
 
きょうの出し物はお寿司ランチバイキングであった。レストランの一角を寿司コーナーとして「sushi」と染め抜いた幟を立て、シェフが腕によりをかけて作った巻き寿司や握り寿司が展示される。バックの飾りつけが中国風なので幾分違和感を覚える。
 
 寿司コーナーはコーラル・プリンセス号でもダイヤモンド・プリンセス号でも催された。いずれも見た目には見事な出来栄えであった。至高の芸術品といってもよかった。しかし味の方は今ひとつ物足りなかった。日本人客の論評は「あれは寿司でなく寿司もどきであった」と共通していた。無理もない。食材が違う。酢加減が違う。日本の寿司屋で何年も修行しなければ日本人の満足は得られないであろう。ダイヤモンド・プリンセスでは巻き寿司を作るのに海苔を水で濡らしていた。コメに引っ付かないためだろうが、ビチャビチャして食欲を減退させた。
「外国人にこれが日本の寿司だ、と思われると残念だ」とみんな言っていた。
 
 さてアイランド・プリンセス号の寿司の味はどうか。あまり期待していなかったので当初試食しなかったが、「まずまずゆける」というのでつまんでみた。ありがたいことにキッコーマン醤油が準備されていた。確かに今までのものよりずっと寿司らしくなっていた。評点は70点はつけられよう。キッコーマンのおかげもあるかも。アメリカ人の間で寿司ブームが広がっているのは知っていたが、なるほど積み上げられた巻き寿司、握り寿司が見る見るうちになくなってゆく。握り寿司にキャビアを使ったものがあった。偽物か本物はわからないが、これは美味であった。
 
 プールサイドでは「氷の彫刻(アイス カービング)ショー」が行われる。大きな四角い氷柱を鉈や鑿を使って「何か」を作るのである。このショーも今までの船でも必ず行われていた。さて氷が何に生まれ変わるのか。なかなかわからない。鳥の羽のようなのがあったので孔雀かな、と思ったが違っていた。答えは「龍の落とし子、海馬ともいう。英語ではSea horse」であった。
 
出来栄えはダイヤモンド・プリンセスのほうが優れていた。あのときは「月に嘯くローンウルフ」だった。作業半ばで狼とわかった。それに今回は彫刻師が一人だけである。今までは2人はいた。
 
 16:00から「パナマ運河についてのレクチャー」がある。英語の講演なのでどれだけ理解できるか自信をもてなかったが、部分的だけでもわかればよいと考え出席した。シアターは超満員である。遅く来た人は座れない。アメリカ人もカナダ人もパナマ運河に興味がある証拠だ。
 
内容は運河建設の歴史や技術的な問題と思っていたが、意外に平易な一般向けのする解説だった。スクリーンに字幕が映し出されるのはありがたかった。読みきれず消えることもあったが、講演のスピードに合わせて平易な英語の解説であったので理解しやすかった。字幕つきの洋画を見るような感じであった。
 
スクリーンに閘門を通過中の戦艦ミズーリの航空写真が映し出された。上から見た写真では艦体と岸壁の隙間は見られない。ミズーリの横幅は32.98m。ぎりぎりいっぱいであった。ミズーリは昭和20年9月2日、東京湾で行われた日本との降伏調印式の舞台となって日本人には忘れがたい艦名である。 
 閘門を出入りする都度、膨大な清水が必要とは初めて知った。1隻の船の出入りに19万7千トンの清水が要るのだった。しかもその水はそのまま海へ流してしまう。
 
なぜかもったいない思いがある。今まで閘門に入れる水は海水とばかり思い込んでいた。なぜ無尽蔵の海水を使わないのか。後日調べたところ、海水をポンプアップするには設備と膨大な電力が必要となる。さらに閘門その他の機器に塩害が生ずる。ガトゥン湖の水を使うほうがはるかに省エネになるのだった。
 
もっとも現在進められている改修工事が終れば、排水を循環して利用できるそうだ。ガトゥン湖の水量も無限ではないと知る。私の心配も的外れではなかった。6時に夕食を摂り、ビール1本飲むと無性に眠くなる。出国から時差ぼけを引きずっているのかもしれない。食事の終るのは大体8時。8時半から歌と踊りのショーがあるのだが、睡魔には勝てない。8時半から9時にかけて就寝するのが普通になった。イタリア料理の夕食を済ました後、早寝する。
 
 明日はいよいよパナマ運河通過の日だ。それを見るためこの旅行に参加した。閘門を通過する瞬間をぜひとも見たい。見物に一番いい場所は11F、10Fのバウ(船首)部分にある狭いデッキだ。場所を覚えるため予行演習をする。ミラフローレス閘門到着予定が6:45となっている。寝過ごしてはならない。
 
1月15日 8日目
 3時に目覚める。起きるには早すぎる。6時に昨夜確認した場所に赴く。すでに満員かと思ったがまだゆとりはあった。ある女性は4時20分から椅子を持ち出して座っている。「これを見るために来たのだから」という。その熱心さに感心する。この時間、まだ真っ暗だ。灯りがポツポツ見えているのは、順番待ちの停泊船のものだろう。ミラフローレス閘門までどのくらいの距離かまだわからない。
 
 6時20分ころから明るくなる。前方にうっすらと橋らしきものが見える。やはり橋だった。1962年完成したアメリカ橋であった。長さ1,654mとかなり長い。この橋により南北アメリカ大陸は陸続きとなった。この橋から15km内陸に入ったところに2004年、センティニアル橋が架かった。2本の橋によりパナマは南北に分断されていた国土が一つになった。
 
 段々明るくなってきた。見物席にも人が増えてきた。1階下の10Fも満席のようだ。アメリカ人もカナダ人も日本人もパナマ運河を見たい気持ちは共通している。みんなカメラを抱えて世紀の一瞬を捉えようとしている。
 
アイランド・プリンセス号は微速で前進する。細い針金のようにしか見えなかったアメリカ橋の輪郭がはっきりしてくる。進行方向に向かって、右側に大きなヨットハーバーが見え、数十隻のヨットが係留されている。運河の入り口近くにヨットハーバーがあるのは意外だった。大型船が頻繁に往来する場所で危険はないのか。
 前方を貨物船が通航している。そのそばに小さな艇が随伴している。航路案内艇なのかタグボートなのかはわからない。
 
 やっと最初の閘門、ミラフローレス閘門に入る番が来た。閘門がどのようにして動くのかが一番の見どころだ。本で読み、写真で見ているからパナマ運河について最少の知識は持っているはずだが、百聞は一見に如かず。自分の目で見なければ納得できない。アイランド・プリンセス号は91,000トンの巨体を静々と閘門内のチェンバーに収める。チェンバーの幅は33.53m。
 
アイランド・プリンセス号の幅は32.2m。両舷と岸壁との隙間はわずか66.5cmしかない。手のひらが入る程度の隙間、と聞いたことがある。それは極端にしても実感ではそのように見える。もちろん甲板からは隙間は見えない。
 
「どうしてタイヤを岸壁にぶら下げてないの」と誰もが思う疑問を早朝から特等席に陣取っていた女性が口にした。たいていの港では岸壁にタイヤ、または防舷材をぶら下げている。しかしここではできない。タイヤをぶら下げるとさらに水路が狭くなるからだ。大型トラックを手のひらだけの隙間を空け、駐車する神業的な運転技能を見たことがあるが、ここではそれ以上だ。閘門内では船は自力航行できない。陸上にある電気機関車で曳航するのである。
 
船の大きさにより、4台〜8台の機関車が、船体が左右に振れないようロープをつけ引っ張るのである。この機関車が日本製であるのは、以前から知っていた。東洋電機製造が駆動装置、川崎重工が車体、三菱重工が変速装置を製作している。小さく見えるが機関車は重量50トンもある。船首、船尾にワイヤーロープをつける作業が見える。驚いたのはワイヤーロープの太さである。親指くらいの太さにしか見えない。そばで見ればもっと太いのだろうが、 9万トンの巨船を引っ張るのにあの程度の太さでいいのか。
 
水面は摩擦係数が小さいから大丈夫なのであろう。機関車は水位に合わせて上下することになるので、傾斜角27度を超える急勾配を上り下りしなければならない。そのため線路はラック式を採用している。日本で呼ばれているアブト式はラック式の一つだ。線路の間にもう1本歯車のついた線路を敷き、機関車についている歯車とかみ合わせて滑らないようにしている。アイランド・プリンセス号の場合、機関車の数は当然8台と思われるが、上甲板からは見えない。
 
 ミラフローレス閘門が複線化されているのは知らなかった。突堤を挟んで左側にフランスのタンカー、「シャルロッテ」が開門を待っている。シャルロッテちゃんは可愛い名前に似つかわない危険物を運ぶタンカーである。“NO SMOKING”と注意書きが掲げられている。「こんな所で爆発すれば、こちらもただではすまないな」と日本人の声。幸いシャルロッテは積荷の爆発物を陸揚げした空船のようだ。喫水が浅く赤い船腹を露出している。
 
 さて興味があるのは閘門内にどのようにして水を満たすのか、だった。今までは前方の閘門扉を開き一挙に注水するものと思っていた。しかしこの方法では船体が揺らぎ岸壁に接触する恐れがある。一向に前の扉は開かない。しかし徐々に船体は持ち上がっている。身体には感じない。水面を見れば水位が上がっているのがわかる。注水は海底にあるパイプから行われるのである。排水も同じ。
 妻の出身が徳島県南部にある日和佐町(現海陽町)なので、男子同級生には水産高校へ進んだ者が多い。彼らにはパナマ運河通過は珍しくなかろう。
 
彼らの話では「パナマ運河閘門では水はフワーッと上がってくる」という。「フワーッと上がる」というのは言い得て妙である。まったくその通り。水はフワーット上がってきた。前方の閘門内と水位が同じになれば、次の閘門に進む。シャルロッテはすでに前方を進んでいた。マルセイユへ急いでいるようだった。
 
 念願のパナマ運河閘門を見ることができた。早朝からがんばっていた女性も感動した。涙が出たといっている。 ミラフローレス閘門を過ぎれば次はペデロミゲル閘門である。この二つの閘門を過ぎれば海抜26mのガトゥン湖に至る。ここからガトゥン閘門まで378km。
 
 両岸の風景も結構楽しい。左側で露天掘りのような土木工事が見られた。ブルドーザーやパワーショベルがうなりを上げている。こんなところに鉱山があるはずがないので運河の拡幅工事をしているのだろう。右岸に小さな造船所が見える。これも不思議であった。造船所は通常海岸に面しているはずだ。航行中不具合が生じた船の修理をするのか。また石油タンクも見える。航行中ガス欠を起こした船に給油するためなのか。
 
ガトゥン湖の水面面積は423平方キロメートル。チャグレス川をせき止めて生まれた人造湖だ。アイランド・プリンセス号は水を得た魚のように走り出した。
 ガトゥン湖には小島が点在している。どの島にも緑の原生林が茂っている。もともと山の頂だったのが、水没して頭だけが残り島となったものだ。瀬戸内海の風景を彷彿させるものがある。
 
 本船と対向する白いクルーズ船があった。一瞬コーラル・プリンセス号と思ったが、違った。接近してみれば船名が見える。オセアニア号であった。ガトゥン湖に入れば対向は簡単である。速度を落とさずすれ違う。乗船客が手を振っているのが見える。ガトゥン湖の水はきれいとはいえない。中国の長江のようだ。
 
 クレブラ(またはゲイラード)カット
 クレブラ・カットはガトゥン湖からペドロ・ミゲル閘門に至る13.7kmの水路である。ここは岩盤や火山岩を掘削しなければならない困難な工事が続いた。
 
 当初は幅92mだったが2度にわたって拡幅工事が行われ、現在は192mとなっている。しかし船舶の全長294mに達していることから、十分でなくカーブ部分を直線化する工事を進めている。最後の閘門ガトゥン閘門にさしかかる。船が閘門に近づくとタグボートが近寄ってくる。閘門に入るとタグボートは離れ機関車に交代する。
 
これ以前にパイロット(水先案内人)が乗っているはずだ。パイロットは入港するさい、船長に代わって操舵の責任を取る。非常に高度の技能を要し責任の重い仕事だ。だいたいが経験豊富な船長を退いた人が当たる。もし船を傷つけたらパイロットの責任となり賠償責任を負う。このためパイロットは高額の賠償保険に加入している。とはいえ彼らも人間である。神様でない。ミスも犯す。ガトゥン閘門でガツンと岸壁に当てる例もある。賠償交渉は手間と時間がかかるのでたいてい船側が泣き寝入りするそうだ。
15:25ガトゥン湖を出る。1時間の遅れだ。最初の閘門での待ち時間が長かったせいだ。
 ガトゥン閘門を過ぎればいよいよカリブ海に出る。これでパナマ運河を横断したことになる。なおパナマ運河は東西に通っていると思われがちだが、実は南北に抜けているのである。
 
 ガトゥン閘門を抜けると次の寄港地はコロン(パナマ)になる。人口14万でパナマ運河のカリブ海側に位置している。香港に次ぐ世界第二の自由貿易港となっている。
 治安は極端に悪く、首都パナマ・シティの10倍危険とも言われている。ここでは接岸してみやげ物を買うだけの目的だから、危険な目に遭うことはなかろう。
 
 接岸したすぐ目の前に巨大な建物がある。格納庫か倉庫を思わせる建造物だ。内部にはみやげ物店、バー、ジュエリーなどのほか、出店が何十も並んでいる。出店は常設ではなく、観光船が入港したときだけ開くようだ。商品は木彫り細工、刺繍したバッグ、Tシャツなどが多い。刺繍の柄に鳥が多いのはパナマの国鳥だろうか。鳥の名前はわからずじまいであった。アイランド・プリンセスの乗客1,900人。全員が上陸したわけでもなかろうが半分と見ても千人が一斉に店に殺到したので、喧騒を極める。
 
 夕食後、戦中の話になる。大体が同年輩だ。戦中戦後空腹に苦しんだ世代である。
草を食っていたというのは四日市から来た男性。昭和11年生まれが3人、14年生まれが1人いた。それにしてもみなさん、海外旅行の経験が豊富だ。時間と経済力をお持ちということだろう。
 
6人がけのテーブルで「イグアスの滝」を見ていないのは私1人。オーロラも全員が見ている。ガラパゴス島、グリーンランド、アラスカ内陸部、パタゴニア地方,、アマゾン川上流など誰かが行っている。ある中年女性、この方はスキューバダイビングをやっている。ヤップ島、ロタ島まで足を延ばしている。モルジブ諸島ではマグロを追っかけ3尾釣った経験を話してくれた。今回の旅でもマイアミから直接帰国せず、団体から離れてオーランドへ向かうといっていた。そこで海へもぐるそうだ。決して若くはないのに、そのエネルギーには驚嘆のほかない。
 
 「歌と踊りのショー」を見る。ショーが終ったころから揺れが大きくなる。ベッドに就いてからも時折大きな衝撃音、ミシミシ、ギシギシという異音に襲われる。
カリブ海はハリケーンが発生する海域だ。荒れるのも無理はないか。
 
パナマ運河の通航料
 パナマ運河を通航するにはどれほどの料金が必要なのか。決して安くはない。
船舶の種類、規模、機関車の数、貨物船なら貨物の重量、客船なら乗客数などによって細かく決められている。
 
 最低通航料は1928年8月14日、リチャード・ハリバートンが泳いで渡って支払った36セントである。彼は10日かけて泳ぎ渡った。悠長な時代だった。現在泳ぎは禁止されている。最高支払額は2003年9月25日コーラル・プリンセス号の支払った226,194ドル25セントであったが、その後毎年のように記録は破られ、2008年5月16日、ディズニー・マジック号の331,200ドルの記録がある。
 
 アイランド・プリンセス号はいくら払ったのか。日本円にしてほぼ2千万円くらいだろう。乗客1人当たり1万円強になる 平均支払額は54,000ドルとなっている。
一つ聞き忘れたことがある。軍艦の通航料はどうなっているのだろう。民間船舶と同じ扱いなのか。それとも外交官特権ということで優遇されているのだろうか。
 
 
 
1月16日 9日目
 終日航海の日である。3:40に目覚めた。6:10レストランへ。早くも数人の先客がいた。14Fからは波は大きく見えない。階が下がると白波とうねりが見える。船酔いした女性がいた。
 
 10:30から特別に厨房見学をできることになった。厨房見学はコーラル・プリンセス号でも経験した。一般に覗くことのできない場所なので興味をそそられる。乗客2千人に加えて乗組員900人の食事を作る設備だ。料理長はフィリピン人である。
 
ここで働く人は165人。うち女性は2人に過ぎない。女性に無理な作業と思えないが、体力的にきついらしい。厨房員の国籍はさまざまである。フィリピン人が多いがメキシコ人、ルーマニア人などもいる。スープ専門、ソース専門など担当が分かれている。総じて若者が多い。みんな笑顔で私たちを迎えてくれた。
 
衛生にはものすごく気を使っている。部屋から出て帰る度に手洗いを励行させている。うっかり忘れると厳しく注意を受ける。何年か前、地中海でクルーズ船が集団中毒を起こしたことがあった。300名を超す患者が出て大変だったのを憶えている。限られた空間の船中では病気は怖い。船会社の信用にもかかわることだ。ステンレス製の機器はどれもピカピカに光っている。
 
 食材は寄港地で補給しない。すべて米本土で積み込む。「残飯はどう処理するのか」と質問を出してみた。同じ質問をコーラル・プリンセスでも尋ねた。コーラル・プリンセスでは残飯を団子状にして沖合いで投棄すると聞いた。「残飯を魚の餌にしてその魚を人間が食べる。リサイクルの見本です」との答えだった。しかしアイランド・プリンセスでは海洋投棄はいっさいせず、専用のコンテナに詰めて持ち帰り陸揚げするといわれた。
 次に1日に消費される平均的な食材の量を掲げてみる。
 
魚 680kg 
鶏類 820kg  
牛 950kg 
仔牛 180kg
羊 210kg 
豚・豚製品 450kg 
サラダ 730kg
小エビ 140kg 
マヨネーズ 130リットル
サンドイッチ 1,500
パスタ 230kg 
ジャガイモ 900kg 
野菜 1,130kg
スープ 2,500リットル 
小麦粉 770kg 
ケーキの数 6,000
アイスクリーム 
410リットル 
バター 230kg 
フルーツ 3,180kg
コーヒー 2,140リットル 
クリーム 280リットル 
砂糖180kg
 
 今日は2度目のフォーマルパーティの日である。その前にリピーターへのカクテルパーティ招待があった。正装した男女が招待状を持ち、会場の6Fユニバーサルラウンジに集まる。かなりの人数である。リピーターということは、2度以上プリンセス・クルーズ社のクルージングを体験した客である。
 
リピーターのクルーズカードはゴールド、初めての乗船者のそれはブルーである。別にリピーターに特典があるわけでもないが、色分けすることで優越感をくすぐる営業政策の一環であろう。靴が壊れたのでいつものスニーカーを履いて行った。不恰好だが足元に注意を払う人もあるまい。
 
 パーティは船長のお礼の挨拶で始まった。続いて多数日数乗船者の3位までにワインが贈られた。なんと1位の人の延べ日数は700日を超している。いったい何度クルーズを経験したのだろうか。1回が20日として35回にもなる。1回が100日に及ぶ世界一周旅行をも参加したのだろうか。
 
 コーラル・プリンセス号でもこの催しがあった。あの時は記憶違いかもしれないが、回数で決められたように憶えている。確か30回以上の人が1位になった。私のクルーズ経験は4回目だが、そのうち南極行きは他社の船「マルコポーロ号」であったのでカウントされない。コーラル・プリンセス、ダイヤモンド・プリンセス、そして今回のアイランド・プリンセスの3回になる。招待を受けるには申請は要らない。プリンセス・クルーズ社のコンピュータに氏名が保存されているのである。
 
 日本人グループの招待者は5人。夫婦2組と私であった。最高回数は9回という。パーティは簡単に終わり、その後船長と並んで写真を撮り、握手を求めて終った。
 
 相変わらず白波とうねりが大きい。船内で先日起ったハイチ大地震への義捐金募集が始まった。船全体で1万ドルが目標である。これも現金払いでなくクルーズカードで処理される。
 
 今日もアトラクションが盛り沢山である。ダンス教室、カクテルつくり大会、水上バレーボール大会、歌と踊りのショー、新婚さんと熟年夫婦のゲームショーなど。最後は23:30からクルーを含めてのダンスパーティがあった。こんな時間まで起きていられない。コーラル・プリンセスで最後のダンスパーティを見たことがある。非番のクルーにとって楽しみの一つなのであろう。汗をかきながら「ゴーゴーダンス」を踊っていた。
 
                 
乗組員の国籍は世界各地に広がっているフィリッピン人が多いのはこの船に限らない。母国に働く場所が少ないのであろう。海と縁が少なそうな東欧諸国の人も多い。アメリカの船でありながら、アメリカ人が少ないのにも驚く。24人は高級船員なのであろう。
 
 
 
 
1月17日 10日目
 最後の寄港地はオーチョ・リオス(ジャマイカ)である。6時起床。海は凪いでいる。曇。雨がポツポツデッキへ降ってきた。出国以来始めての雨である。上陸観光には具合が悪いと思ったが下船の時には止んでいた。
 9:00オーチョ・リアスに入港。オーチョ・リアスとはスペイン語で「8つの川」の意である。
 
 ジャマイカについての知識はほとんど持ち合わせていない。オリンピックで活躍する陸上選手を多数輩出している国くらいの知識しかなかった。 長い桟橋を歩き、20人乗りのトヨタ製マイクロバスに乗る。現地ガイドはジュリエットさんである。シェークスピア原作「ロメオとジュリエット」からイメージされる女性ではなく真っ黒な肌を持っている女性である。車は連続するヘアピンカーブを走り山を登る。
 
到着したのはコヤバ庭園である。小高い丘の上にあり鬱蒼と熱帯樹が茂り涼しい。ガーデンというより植物園に近い。展望台からはアイランド・プリンセス号が見下ろせる。庭園の中には滝や小川があり、日本でもめったに見られなくなった透明感あふれる清冽な水が流れている。
 
 この後、ジャマイカ名物「ダンズ・リバー・フォール」へ。これはいったいどんな観光スポットなのだろう。なんでも階段状に落ちてくる滝の下から登る遊びと説明を受けた。水着を着なくても短パン程度で参加できるというのだが。「鯉の滝登り」は聞いたことがあるが「人間の滝登り」なんて想像できない。新しがり屋のアメリカ人が好む遊びだろうと思っていた。公園の奥に滝があり、登り口はずっと下になる。 
 
 高低差30m、200mの距離を水に逆らって登る遊びである。参加者はよほど物好きの人間だろうと思っていたのが認識不足だった。すでに大勢の男女がワイワイ言いながら滝登りを始めている。大きく段差になっている場所が3箇所ある。水量もかなり多い。滑らないようにみんな恐る恐る足を運んでいる。
 
岩が露出している箇所もあり、ミズゴケでぬるぬるして滑るのではないか、と心配していたが後に聞くと案外滑らないようだった。川の片側に遊歩道があり、見物人は同僚の参加者に声援を送っている。危険防止のため現地の若者が先頭に立ち、誘導したり手を引いたりしている。
 
 十数人が手をつなぎ、一団となって滑落、転倒防止に努めている。まるで「人間の鎖」のようだ。しかし今まで事故はなかったのだろうか。転倒して頭を打てば悲惨な事故につながる。さすが中高年者は少なく、若い男女がほとんどだ。日本人グループから2人が参加した。完走(完登)のあと、面白かった、といっていたが。
 
日本の役所なら「危険」ということで許可しそうもない。 川沿いの道を下れば、ビーチに出るが、入浜料が2.5ドル必要である。
 
 海岸近くのみやげ物店で、小さなコーヒーパックを買った。黒人の女店員が、味のほうは”Very Good”と保証するので、つい買ってしまった。 ちなみにジャマイカでは英語が公用語である。意外な感じがした。中南米ではブラジルを除いてスペイン語が公用語と思い込んでいた。ジャマイカはスペインの侵略のあと、フランスに統治者が変わり、さらにそのあとを英国が支配したので英語が定着したのだろう。
 
 この港町は人口2万。そのほとんどが観光事業に携わっている。道路、観光施設は整っている。立派なカトリック教会があり、マンション、コンドミニアムも林立している。避寒地にはもってこいの土地といえる。
 
 13:00帰船。このあとはフリーだった。いろんなアトラクションが催されているが、気が向かないときは、トランプの一人占いで時間つぶしをした。隣のテーブルでも1人の白人が遊んでいる。私のやっているのと同じ一人占いであった。この部屋は「カードルーム」と呼ばれ、トランプ遊びをする場所である。囲碁や将棋がないのは仕方がないが、チェスの道具も備わっていない。1度だけチェスを楽しんでいるグループがあったが、自分が持ち込んだ道具であろう。
 
1月18日 11日目
 6:00起床。曇 視界悪し。最後の終日航海日である。長いと思ったクルージングも終わりを迎えた。明日はアイランド・プリンセス号ともお別れだ。朝食後荷物の整理に励む。といっても土産もたいして買っていないので手間取ることはない。クルーズ旅行ではスーツケース内の衣服をすべてクローゼットに吊るしておけばよい。移動のため毎晩、荷物作りするわずらわしさから解放されているのはありがたい。しかし最終日にはいやでも荷物整理が必要になる。
 
 下船に備えてライブラリーで借りていた本を返す。“Desperate hour (絶望の時間)”
というタイトルの本だったが最後まで読み通すことはできなかった。1956年2月、北大西洋でイタリアのクルーズ船・Andrea Doraがスウエーデンの貨物船「ストックホルム号」と衝突して沈没するまでを当事者から聞き取り、ノンフィクションにまとめたものであった。死者はAndrea Dora号の乗客67人、乗組員数人、ストックホルム号のクルーが5人となっていた。最初と最後の数ページを読んだだけで終った。
 
この時代、すでにレーダーは完備されていた。濃霧の中での事故だった。最新設備を持っていたにもかかわらず事故は起った。幸い救助船が近くにいたこともあって1600人の乗客のほとんどは救助された。タイタニックほどの大惨事は免れたのであった。
 
 最終日ではあるが、船内ではいつもの通りアトラクション、催しが開かれている。
10:00からシェフのリーダーであるニロさんによるクッキングショーが開かれた。会場であるシアターは満員で座る場所がない。司会者の質問に観衆はどっと笑うが当方には意味不明。
 
 7Fにあるプロムナードデッキ(遊歩甲板)に出る。ここでは毎朝ジョギングやウォーキンに励んでいる人が多い。船内生活はどうしても運動不足に陥りがちになる。肥満を防ぐための運動だろうが、皮肉なことに肥満体の人は少なくスレンダーな人のほうが多い。
 今回の航海では強風、高波にわざわいされプロムナードデッキが閉鎖されることが度々あった。強風のときは身体が浮き上げるような恐怖を感じる。また高波はデッキにしぶきを散らし滑りやすくなるからだ。
 
 甲板でスタンション(支柱)やライフボートの底を磨いているクルーがあった。海水を被っているので塩害を防ぐためだ。ひげの濃い若いフィリッピン人であった。彼のほうから声をかけてきた。「日本人か」「そうだ」「日本のどこか。トウキョウ、ヨコハマ、ナリタ、トヨタへは行ったことがある」
 
彼の知っている日本の地名はこれがすべてであろう。四国の徳島とは説明できない。彼は言う。「I like Japan. 日本人のホスピタリティはすばらしい。道に迷ったとき手を引いて案内してくれた」彼は重ねてアイ ライク ジャパンと言った。
 
 戦後、フィリッピン人の対日感情はきわめて悪かった。50万の日本兵が死んだ土地だ。飢餓に堪えかねて現地人の食糧を奪ったり、ゲリラとみなして粛清したこともあったはずだ。この青年は、日本兵の悪業を知ることはなかった。日本人に好意を抱いてくれることはうれしかった。
 
 11:00から下船についての説明会がある。2千人の乗客が一斉にギャングウェイ(舷門)に殺到すれば混乱を招く。さらに乗客の荷物の揚陸作業がある。最低1人1個、アメリカ人は荷物が多い。大きな黒の布バッグを3個も4個も抱えている。いったい何を持ってきているのか。前回のクルーズでは自転車で甲板を走っているのを見た。荷物の総量は4千個くらいになるだろう。
 
 間違わないようスーツケースに色分けしたタグカードを取り付ける。荷物は今夜中に出さなければならない。 夕食はボルドーで摂る。船内「最後の晩餐」となる。いつものビールに加えてワインを注文する。  つづく
 
更新日時:
2010/02/17

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Last updated: 2010/2/17