美しい南国の珊瑚礁の島々はかつて玉砕の島と呼ばれた
平成20年1月20日から23日までサイパン、テニアン両島を訪ねた。マリアナ諸島に属するこれらの島はグァム島と並んで太平洋戦争中玉砕の島として有名である。
サイパンへは一度は行ってみたい気持ちがあった。だがグァム島は観光地としてつとに知られており、日本から訪れる人も多かったがなぜかサイパンは直行便もなく疎外されている感じがあった。かつて日航機が飛んでいたが不採算路線のため撤退した。昨年末関西空港からノースウェスト機のサイパン行き直行便が再び飛ぶようになり便利になった。
現在日本からの直行便はノースウエスト航空とコンチネンタル航空の2社のみになっている。昨年12月グァム島を旅した。本当はグァム島、ロタ島、サイパン島、テニアン島をまとめて見て周りたかった。かつて日本の委任統治領であった島々には郷愁を誘う何かがある。
椰子の葉の揺れる南洋の島々。熱帯地方に属するが海風がそよぎ悪疫はなく毒蛇、猛獣も生息していない。要するに住みよい島である。
戦前、国策会社大日本航空による定期航空路が開かれ、民間仕様の九七式飛行艇が飛んでいた。横浜―サイパンーパラオを結ぶ長距離コースであった。講談社の絵本に
「南洋物語(題名不確か)があり、その1ページに椰子の葉をかすめて飛ぶ飛行艇の姿があった。機首に「綾波」と描かれていたのを覚えている。
「鵬翼万里」の言葉がぴったり来る光景であった。また別のページには停泊している汽船の絵があり船首にパラオ丸と船名が記されていた。パラオ丸とサイパン丸が横浜ーサイパンーパラオを周航していたのであった。同書には南洋の珍しい動植物や熱帯果実の絵も載っており、子供心に南洋への魅力を植えつけられた。
当時、国策として満州に大量の開拓民を送り込んでいた。「満蒙は日本の生命線」がスローガンだった。北進論が盛んになっていた。だが話に聞く満州の寒さ、酷寒零下40度には辟易した。少々暑くても椰子の葉そよぐ南洋のほうに魅力があった。「南進論」「南進日本」が謳われ始めたのは昭和15,6年ごろでなかったか。
マリアナ諸島の歴史
1521年マゼランがグァム島を発見しスペインが領有することになる。しかし米西戦争に敗れたスペインはグァム島を米国に、他はカロリン諸島とともに売却することになった。1899年、ドイツはサイパンをも支配下にいれ、ドイツのマリアナ諸島の統治が始まった。
1914年、第一次大戦が勃発。日本は日英同盟の誼を理由に連合国の一員となりドイツに宣戦布告。宣戦の大義が何であれ、当時の日本が中国と太平洋に領土的野心を抱いていたのは否めないであろう。英国は日本の協力に感謝しながらも、一方日本の野心をも警戒していた。日本は海軍を出動させ、赤道以北のドイツ領マーシャル、マリアナ、カロリンの各諸島を占領した。ドイツの抵抗は微弱であった。欧州戦線が忙しく太平洋に援軍を送る余裕はなかったのだ。言葉は悪いが日本はドサクサに付け込んだ感じがある。ドイツ降伏。
1918年1月、ベルサイユ宮殿で講和会議が開かれた。その結果、日本は新しく生まれた国際聯盟により赤道以北の太平洋諸島の統治を委任されたのである。日本の本音は委任統治でなく領有したかったようだ。しかし領有には米国が猛反対した。太平洋を挟んで対決する米国にとってみれば南洋諸島が日本海軍の根拠地になるのは耐えられなかったのであろう。委任統治にも反対する声もあったようだが、国際聯盟の意志は加盟全国家の意志というより列強の考えで決まった。英国には地中海にまで艦隊を派遣してくれた日本に恩義がある。日本の要求を黙認したのではなかろうか。
国際法上、委任統治領と植民地とどう違うのか知らないが、委任統治領には軍事基地を設けられないはずであった。しかし太平洋戦争中、トラック島は聯合艦隊の前進基地となり、マーシャル群島やサイパン、テニアンにも航空基地が建設されている。日本は国際法を破ったのか。昭和8年日本は国際聯盟を脱退した。脱退したからには聯盟の拘束を受けることはないと考えたようだ。
ともあれ日本は赤道以北の内南洋の島々を統治することになった。戦前の世界地図ではこれらの領域が赤い線で大きく囲まれている。グァム島だけは米領であるのでこの部分だけは外してあった。サイパンは現在、自治領として北マリアナ諸島の一員となっている。
南洋庁の設置
内南洋諸島の統治のため、所管官庁として南洋庁が設けられた。本庁はパラオ諸島コロール島に置かれ、サイパン、ヤップ、パラオ、トラック、ポナペ、ヤルートの各島に支庁が置かれた。支配する島の数は実に623にまで上った。
南洋庁は主だった島に小学校を設置、日本語教育に力を注いだ。優秀な生徒を日本に派遣し日本のありがたさを認識させる政策も採った。ただ神社を設け信仰を強制したため反発を受けることもあった。
南洋庁の政策は以下の4点であった。
1、 経済政策
2、 労働力の輸出
3、 新植民地の住民の日本人化
4、 戦略的軍事力の優位
現地住民に対する植民政策がどういうものであったか、知る由もないが苛斂誅求を極めたものではなかったようだ。
南洋興発株式会社の設立
南洋興発株式会社は国策会社として大正10年に設立された。満州を舞台とした南満州鉄道が「北の満鉄」と呼ばれるに対して南洋興発株式会社は「南の満鉄」または「海の満鉄」と呼ばれた。第一次大戦後の不況により、それまで南洋に進出していた会社が次々に行き詰まり、入れ替わる形として設立されたのが南洋興発であった。この会社を設立したのが「砂糖の父」と呼ばれる松江春次であった。松江は会津藩の出身。松江は苦学して現在の東京工業大学を卒業後、米国へ留学。郷土愛が強く3万円を故郷会津に寄付、現在の県立会津工業高校が作られた。
会津藩出身の松江の名を聞いて思い当たる人物があろう。その通り。松江春次は松江豊寿の実弟である。豊寿は映画「バルトの楽園」に登場する板東俘虜収容所長としてドイツ俘虜を人道的に扱い、その人徳を知られることになった。
松江春次はサイパン、テニアンにサトウキビを栽培するのに力を注いだ。サトウキビを輸送する軽便鉄道が敷かれた。主たる事業は製糖事業であったが砂糖精製の過程でできる糖蜜を利用してウィスキーの生産にも成功し事業は順調に進んだ。事業は水産業・農園業、鉱業・油脂工業・交通運輸業・貿易業にまで広がり最盛期の南洋興発は従業員5万人を擁する大企業に成長していた。日本からの移住労働者の大半は沖縄県出身であった。太平洋戦争まで島に残っていたかれらは沖縄本島住民と同じく悲惨な運命をたどることになる。
太平洋戦争勃発
昭和16年12月に始まった太平洋戦争は緒戦は順調であったが、17年6月海軍はミッドウェーで惨敗を喫した。これを契機に米軍は反攻に転じた。18年11月、ギルバート諸島のタラワ、マキン玉砕。翌19年2月にはマーシャル群島クエゼリン、ルオット両島を奪われた。次に米軍の矛先はパラオ諸島かマリアナ諸島に向けられるのは必定であった。マリアナが失陥すれば日本はB29の行動半径に入る。そうなれば日本の敗戦は決定的になる。
それなのに大本営は先にパラオへ来寇するものと判断していた。大きな判断ミスであった。絶対国防圏と称するパラオ、マリアナの防備について時の首相東條英機は「サイパンは難攻不落である」と豪語していた。裏づけは何もなかった。サイパンの防備は信じがたいほど遅れていた。南洋に点在する島々の防備は海軍の責任であった。海軍はここに航空基地を造り、来寇する米艦隊を迎撃すればよいと考えていた。つまり米軍が上陸し地上戦闘が行われるとは想定していなかった。陸軍の主敵はソ連でありソ満国境に堅固な要塞を構築していた。
だがサイパンの防備施設はなきに等しかった。ようやく19年2月以降、陸軍部隊の派遣に努めたが時すでに遅し。マリアナ近海は米潜水艦の遊弋するところとなり、兵員、武器弾薬を満載した日本の輸送船は次々に撃沈され海底へ直行した。
サイパン守備の主力部隊であるはずの43師団がサイパンへ上陸したのは19年5月。米軍上陸の寸前であった。これでは敵上陸に備えるべき陣地構築は不可能であり海岸線に簡単な野戦築城を施したに過ぎなかった。
米軍の撮影した写真に木枠で梱包のままの重砲が揚陸地点に転がっているのがあった。セメントも鉄条網もそのままであった。敵潜水艦に追われかろうじてサイパンに到着した輸送船の積荷は戦力になる暇さえなかった。糧秣も分散配置のひまがなく地上戦闘が始まってからは米軍の押収するところとなった。中学生のとき読んだ本に「タイム」誌記者ロバート・シャーロッド著「サイパン」があった。米軍は日本軍の迫撃砲とその弾丸1万発を鹵獲し、日本軍に向かって砲撃している写真が載っていた。ただでさえ弾薬不足に悩む貧乏陸軍が味方の弾丸を頭から浴びるのだ。情けなかった。
米軍の反攻は前年からわかっていたはずだ。なぜ1年前から、いやせめて半年前から防備に取り掛からなかったのか。ソ満国境に構築したような永久要塞があればむざむざとサイパンを奪われることはなかったろうに。
陸軍には南洋諸島を守る気持ちがなかった。「海軍の責任だ。知ったことか」という気風を否めなかったといえよう。さらによしんば敵上陸を許しても水際で撃滅できるとの甘い観測を抱いていた。
空を覆う敵機の群れ、間断なき艦砲射撃の威力を支那軍相手に戦ってきた陸軍の幹部には理解できなかったといえる。
マリアナ沖海戦で日本の機動部隊は壊滅し、サイパン救援は不可能となった。結局サイパンは見殺しにするほかなかった。
19年7月7日、サイパン玉砕。民間人多数が軍と運命を共にした。アッツ、タラワ、マキン、マーシャル群島と玉砕は続いてきたが、戦闘員だけの犠牲であった。サイパン戦に至り、初めて非戦闘員の大量犠牲を出すことになった。この悲劇は沖縄戦に続く。
出発
1月20日、3時半起床。一番の高速バスで関西空港へ向かう。雪、雨の予報であったがスムーズに到着した。10:50 NW機は関空を発つ。3時間半のフライトでサイパンに着く。時差は1時間しかないのでありがたい。
先の大戦中、サイパンを飛び立ったB29は往路8時間、帰路7時間かけて日本中に焼夷弾の雨を降らせた。ジェット旅客機はその半分の時間で到達できるようになった。今昔の感に堪えない。
着陸態勢に入った機窓から眺めるとサイパンの海岸線には荒らしい白波が砕けている。島の輪郭がこれではっきりわかる。海岸近くにゴルフ場のグリーンが広がっている。サイパンへはマリンスポーツを楽しむ客と並んでゴルフ客も多い。
サイパン国際空港では現地旅行会社の係りが、出迎えておりバスが待機していた。各ホテルへ乗客を順次降ろしてゆくのである。添乗員のつかない旅なので乗客が降りるホテルはさまざまだ。私のホテルはニッコー・ホテル。一番後だった。
初めて見るサイパンの風景。熱帯樹が街のあちこちに茂っている。ガラパンを通過。この街はかつてサイパンの島都であったはずだ。太平洋戦争中、米軍の猛攻撃により完全に廃墟と化した。後日米軍はブルドーザーで均し土砂を港の埋め立てに使った。したがって戦後も復興することなく往年の賑わいは戻っていない。
進行方向の右前方にタポウチョ山が見えてきた。標高473m。サイパンで一番高い山だ。この山を巡って日米軍は死闘を繰り返した。思っていた以上にホテルの数が多い。もちろんすべてリゾートホテルだ。次々に客が降りてゆく。グァム島に比べてサイパンは田舎と聞いている。それでも観光客は多そうだ。関西空港から直行便が復活したので観光客が増えたのだろう。
ホテル・ニッコー・サイパンは海岸沿いの広い敷地にある。全室から海の眺望が可能である。窓からビーチが見下ろせる。砂浜から1kmくらいの沖で白波が一線となって砕けている。グァム島でも見たおなじみの光景である。珊瑚礁が防波堤の役割を果たし沖からの荒波を防いでいる。したがって珊瑚礁の内側の海面は鏡のように静かである。ホテル内のレストラン「セリーナ」で夕食を摂り、午後9時にベッドに就いた。
1月21日
7時起床。今は乾期なので雨は降らないと聞いていた。しかし夜の間に降ったのか海面に虹が出ていた。この時期雨が降るのは珍しい。サイパンには天気予報はない。島民は天気にあまり関心を抱かない。気温は30度内外。陽射しは厳しい。30数度になることもある。暑いが不快な暑さではない。バイキング料理の朝食を摂った後、半日観光のオプショナルツアに出かける。
最初は日本人なら誰もが訪れるバンザイクリフ(Banzai Cliff)である。ここは島の最北端にある。切り立った絶壁の下に白波が砕けている。米軍に追い詰められた日本軍民にとって行き止まりの場所である。日本軍は捕虜になるのを許さない。民間人が投降するのは認められてもよさそうだが当時の雰囲気ではそれもかなわなかった。何よりも鬼畜米兵に捕らえられると嬲り殺しに遭う。女性はすべて強姦されると徹底的に教え込まれていた。進退窮まった日本人は「天皇陛下万歳」と叫びながらこの崖から次々に身を投じた。
米兵にとっては理解しがたい光景であった。日本兵が捕虜にならない、最後は自決するのはこれまでの戦闘でわかっていた。しかし女や子どもまでが自決する必要があろうか。米軍は舟艇に大型拡声器を取り付け死を急ぐ日本人に呼びかけた。
「デテコーイ。シヌナ」「米軍の保護を受けてください。こちらには食料も水もあります」
だが日本人には通じなかった。デマ宣伝と信じ込まされていた。それと洞窟で軍と同居する民間人は兵に脅されていた。「のこのこと敵に降伏する奴は日本人でない。ぶった切ってやる」
軍人にしてみれば、自分たちは絶対に降伏できない。それなのに民間人が生き延びるのに嫉妬感があったのではなかろうか。翌年に起こった沖縄戦でもよく似たケースがあった。
日本人が崖から飛び降りるシーンを米軍は撮影していた。何度かTV放映されたことがある。もんぺ姿の若い女性が崖っぷちで左右を見回し、ためらいもなく身を躍らせた哀れな光景である。
崖下の海面は日本人の死体で埋まり、舟艇の航行に支障をきたしたと米記者は伝えている。投身自決をしなかった人々は手榴弾自決を図った。1人1発ずつ手榴弾が当たらないので数人が輪になり真ん中で爆発させた。また出刃包丁でお互いを刺す刺し違える方法もあった。赤ん坊は穴を掘り生き埋めにした。
この情景を母から聞いたのを覚えている。
「兵隊さんは覚悟できているからいいが、何も知らない赤ん坊が可哀想だ。穴に投げ込まれ土をかけられるとき、もみじのような手でバタバタしたという」母は涙を流しながら何度もその情景を語った。
幼かった自分は同胞の死に格別ショックを受けなかった。戦争だから死ぬのは当然のように教え込まれていたのだ。悔しかったのはアスリート飛行場を米軍に奪われたことであった。宣伝映画だったと思うが、飛行場建設作業を見たことがあった。米軍のようにブルドーザーもパワーショベルもない日本は鶴嘴ともっこで作業していた。あの汗の結晶である飛行場を失った。サイパンを失った以上に口惜しかった。
サイパン同胞の凄絶、悲壮きわまる最期は米軍従軍記者によって伝えられ、中立国経由で日本にも転電された。
大本営がこれを国民に伝えたのは、玉砕を美化するためと敵愾心をあおるためだったのであろう。戦意高揚のため「サイパン殉国の歌」が生まれた。
サイパン殉国の歌
大木 惇夫作詞
山田 耕作作曲
哭け怒れ 奮えよ撃てよ奮えよ
撃てよ夕映えの 茜の雲や
血に咽ぶ サイパンの島 サイパンの島
皇国を 死して守ると
将兵ら 玉とくだけぬ
哭け怒れ 讃えよ誉めよ 讃えよ誉めよ
武器とりて 起ち得る者は
武器とりて 皆戦えり
皆戦えり 後には 大和撫子
くれないに 咲きて匂いぬ
哭け怒れ 奮えよ撃てよ 奮えよ
撃てよ千万の 敵というとも
皇国民 何か恐れん 何か恐れん
天つ日の 照る日の本ぞ
日をおいて 国を護らん
この歌から玉砕の実相は見えてこない。玉と砕け、花と咲き薫ると白々しい言葉の羅列でしかない。流れる血潮、飛び散る肉片、子どもを抱いて海に身を投ずる母親の絶望の声も伝わってこない。戦中の軍の宣伝は常に実態から目を背けていた。
バンザイクリフには慰霊塔が立ち並んでいる。全部で24もある。これからも増え続けるだろう。戦友会や遺族会のほかに大企業の労働組合、宗教団体、またまったくの個人が建立したものもある。「忠魂碑」と戦中と同じ用語を使っているのがあった。建立したのは右翼団体の蒼風社であった。
一つずつ見て回り碑文を読んだ。主だったものを挙げてみる。
サイパン同胞鎮魂碑
八丈島民戦没者慰霊碑
霊よ安らかに平和祈願之碑
血と涙 たたえてかすむ春の海
どんな気持ちで波間に消えた
時代は遠くはなれても
なんでむなしく忘らりょか
風も泣きますバンザイクリフ
「サイパン小唄」より 三橋美智也歌
ここから眺める太平洋は限りなく美しい。濃紺色の海面。荒々しく砕けてしぶきを上げる白波。64年前も同じ光景であっただろう。身を投げる寸前、同胞の頭に去来したのはどんな思いだったか。続々と観光客が押し寄せる。どの顔も感慨に耽っている。合掌してこの場を去る。
背後に黒々した絶壁がそびえている。これがスイサイドクリフである。直訳すれば自殺崖になるが、あえて自決崖と呼んでいる。自殺崖ではあまりにも生々しい。これも言葉による美化になろうか。この崖から飛び降りても海面には達しない。80m下の地面に叩きつけられたはずだ。自決の失敗はなかろう。
黒っぽい崖に点々と白い穴が開いている。艦砲射撃の痕跡だ。
この島で果てた軍人は4万、民間人は1万2千と伝えられている。民間人の残留者は2万5千であったから約半数が犠牲となった。恐ろしいほど高い死亡率である。もちろん空襲、艦砲の犠牲者も含まれている。しかしあの凄惨を極めた集団自決を思いとどまっていたら万を超す命が救えたのでなかろうか。
最高指揮官の南雲中将は民間人の保護について何の手立ても採らなかった。軍人はともかく非戦闘員の保護を米軍に請願する方法は採りえなったのか。悔いは残るがあの時代、高級軍人が一般市民に「降伏してもよい」とは言えなかった。
南雲中将の最後も哀れであった。「真珠湾攻撃」の栄光も束の間、ミッドウェーで大敗を喫する。艦隊を率いての戦死なら満足できようが、丘に上がった提督は洞窟の中で自決の運命をたどった。いまわに当たってミッドウェー敗戦の悔恨が身を苛んだと察する。
次にラスト・コマンド・ポストを見る。ラスト・コマンドは「最後の司令部」の意味になるから南雲中将以下幕僚自決の場かと思ったが違っていた。海軍の監視哨であった。
分厚いコンクリートで囲われた建物だが、艦砲の直撃弾が壁を貫いていた。その前方は日本軍の廃兵器の陳列場である。大小の大砲、実用頭部のない魚雷。これらは改めて塗装がなされているので赤錆は見えない。
目を惹いたのは95式軽戦車の残骸である。これがまあ戦車といえるだろうか。あまりにも小さく貧弱である。これは対戦車砲で破壊されたのか、錆による腐食がはなはだしいのかぼろぼろになっている。破孔から手を突っ込んで装甲の厚さを測ってみた。せいぜい9〜10mm程度しかない。これでは至近距離から撃たれた重機関銃の弾丸にも貫通されよう。
95式というから皇紀2595年、つまり昭和10年に採用されたものである。9年後の近代戦にはまったく役に立たない。せいぜい匪賊の討伐、暴徒の鎮圧に使える程度の代物だ。
サイパンには95式よりましな97式中戦車が約30両持ち込まれていた。満州の広野で多年猛訓練に励んできた戦車部隊であったが、米軍上陸の夜、夜襲をかけなすところなく壊滅した。歩兵と協同訓練をする余裕がなかった。ジャングル戦の訓練を受けていなかったなどの理由はあるが、主たる敗因は装甲の薄さと備砲の威力のなさであろう。97式は次々に米軍バズーカ砲の犠牲になり、むなしく鋼鉄の棺桶をサイパンの浜辺にさらした。
ラスト・コマンドのすぐ隣に中部太平洋戦没者慰霊碑が建っている。横長で石造の立派な碑である。ガイドの女性からいやな話を聞いた。碑の下側にお供え物を置く石の台がある。この上に中国人の子どもが土足で上がり、ふざけていたので注意した。ところがそれを見た子どもの父親が烈火のごとく怒り出し、自分も供物台を土足で踏みにじった。この事件は領事館に報告され外交問題にまで発展した。中国人の反日感情は始末に負えない。またそれに迎合する日本人もあるから厄介だ。中国人には死者を冒涜すべきでないという倫理観が欠如しているのだろうか。
次に白浜の海岸に出る。ビーチの名前が思い出せない。サイパンにはたくさんのビーチがある。似たようにも見えるし、またそれぞれ特長がある。ここの浜で珊瑚のかけらを拾った。星型のかけらが無数にある。
オプショナルツアーの最後はバードアイランドの見学である。戦争の傷跡を癒すような平和な風景である。名前のとおり鳥の営巣地になっている小さな島である。サイパン島の北東部にあり観光スポットにもなっている。石灰岩でできた島であり、そのため全体が白っぽく見える。球を半分に断ち切ったような形であり、真ん丸い感じである。昨年8月の訪ねた中国の西海湖にある鳥島に形が似ている。
もっとも鳥島のほうがずっと大きい。緩やかな傾斜地を下ってゆくと島のすぐそばまでゆける。しかし橋はないので島へ渡ることはできない。島まで至近距離なので泳いで渡れそうだが潮流が激しく注意が肝要だ。なるほど島の周囲は荒波が砕けている。双眼鏡があればシロアジサシ、シラオネッタイチョウ、ナンヨウショウビンなどの鳥を見ることができる。
これで半日観光は終わり。免税店「ギャラリア」へ案内され、2Fのレストランで昼食を摂る。その後無料バスに乗りホテルへ帰る。ちなみにサイパンには公共交通機関はなく旅行者はレンタカーか無料バスを利用するしかない。バスはこの店が管理している。店から各ホテルを巡るのである。サイパンは縦に長い島なので南北に通ずる幹線道路1本でおおむね用は足りる。
夕食までの時間は自由である。ホテルの裏側を散策した。ホテル・ニッコーはビーチに沿って広い敷地を取っている。結婚式用のチャペルが別棟に建っている。海岸にはサラサラした黄色い砂の浜が広がっている。天然の防波堤ともいえる珊瑚礁の内側は湖面のように静かである。しかし遊泳客は少ない。貸しボート屋も暇をかこっていた。
夕食はディナーショウを予約した。ヨットが会場となる。大型ヨットの艇名は「スターズ アンド ストライプス」となっている。「星条旗」の意味である。戦後日本に駐留した米軍将兵への機関紙として「スターズ アンド ストライプス」があった。ひよっとそれを思い出した。
大きなヨットである。キャビンで20人くらいのパーティができるスペースがある。
電信柱のように太いマスト、ロープを止めるクリート(止め具)はステンレス製でピカピカである。双胴艇なのは速度を犠牲にして安定を図ったのであろう。これだけの艇なら建造費は数千万から1億はかかるだろう。
後ろに係留されていたモータークルーザーからグループが下りている。
「間寛平だわ」と女性ガイドの声。後姿しか見えなかったが寛平に間違いなかった。フィッシングから帰ったばかりのようだった。艇尾板には「NOMBEI 」と記されている。「呑ん兵衛」のつもりだろう。艇を日本から回航してきたのか、それともサイパンに係留しておき、時折遊びに来るのか。売れっ子タレントともなれば豪勢な遊びができるものだ。
夕暮れと共に艇は港を出た。帆走でなく機走(エンジンで走ること)であった。
帆走では揺れと傾斜が大きく乗客が不快感を催すからであろう。食事はバイキング式。
各自が好きな料理を好きなだけとる。沖合いでセールを揚げた。大きな星条旗が翻る。米国国旗にはトラウマがあり、あまり好きになれない。
雲行きが怪しい。ポツリ、ポツリと雨が降ってきた。キャビンの窓に水滴が流れる。
大きな虹がかかっていた。一つではない。2本の虹が海面から陸上にかけて半円形のかけはしを描いていた。デッキにいた客はみんなキャビンに引き上げる。ギターリストがギターを奏で歌う。プレスリーのラブミー テンダーに合わせて乗客が踊る。
「日没が見えます」という案内があり、カメラを構えたが間に合わなかった。水平線に真っ赤な太陽が沈み残照が余情となって海面を照らしていた。
テニアン島を日帰り観光する
マリアナ三島をいつか訪れたい願望を抱いていた。だがテニアン島へは日本から直行便はなくサイパン経由で行かなければならない。折角サイパンまで行くのだからすぐ近くにあるテニアンを見逃すのは惜しい。運良くサイパンからオプショナルツアーが見つかった。日本を出発直前に決め1日をこれに当てることにした。テニアンはサイパンの至近距離にある。最短部では5kmしか離れていない。この島も悲惨な玉砕の島であった。
米海兵隊はサイパン戦と並行してテニアンに砲撃を浴びせた。サイパンから重砲の射程内にある。米軍撮影の写真にサイパンの海岸に155ミリ砲の放列を敷き無抵抗のテニアン守備隊へ砲弾を注いでいる光景があった。
テニアンの軍民は空からは猛爆撃を受け、艦砲射撃にさらされ、さらに陸上からの砲撃に耐えなければならなかった。
サイパンからの交通手段には高速船と飛行機がある。当初船で行くつもりであった。
だが船と飛行機は隔日にしか運航されていない。この日は飛行機に頼らざるを得なかった。結果的にそのほうがよかったかもしれない。テニアンはサイパンの目と鼻の先にあるにもかかわらず、高速船は相当揺れるのを覚悟しなければならない。今日も白波が浜辺に打ち寄せている。
飛行機の搭乗時間はわずか10分。離陸すればすぐ着陸態勢に入る。飛行機とはいえ4発のジェット旅客機ではない。7人乗りのセスナ機だ。単発レシプロの小型機のほうがフライトを楽しめる。昨年1月、ペルーでナスカの地上絵を見るのにセスナ機に乗った。快適な飛行であった。パイロットの操縦の模様や計器板を至近距離で眺められる。
離陸後間もなくテニアン島が目に入ってきた。テニアンは高い山もなくほとんどが平坦地であり、全島が飛行場の適地であると聞いていた。なるほどその通りであった。目に入る島は緑に覆われている。人家も目につかない。濃緑の絨毯を敷き詰めたような地表に定規で線を引いたような道路が見える。サイパンも緑が多かったがそれ以上だ。岸辺には白い高波が砕けている。まるで白い縁取りをしているかに見える。
テニアン空港はいかにもローカル空港の趣を呈している。木造の質素なターミナルビルの前に大砲と機銃座がでんと居座っている。大砲は砲身が長く口径は15cmくらいある。海軍の15センチ要塞砲だったようだ。砲身には多数の凸凹がある。機銃掃射による弾痕だろう。さすがに貫通には至っていない。機銃は25ミリ口径の連装対空機銃である。日本軍の廃兵器であるが何のために展示してあるのか。
旅行会社の手配によりホテルから迎えが来ている。ホテルはテニアンには一つしかないと聞かされていた。選択の余地はなくダイナスティホテルで休憩を取る。実際は格安ホテルもあるようだが宿泊予定はないので問題はない。テニアンという田舎の島にあるホテルというので“旅籠”程度のものと思い込んでいたがなかなかどうしてダイナスティホテルは威風堂々とした立派なホテルであった。
プール。テニスコート、カジノまで備わっている。従業員が700人ということからその規模を想像いただけよう。香港資本の系列なので中国人客が多い。内部にある商店街も中国風の作りである。このホテルが建設されてから10年弱。現在のテニアンの人口は3,200人。
10年前には2,500に過ぎなかった。
どこへ行く宛てもないのでタクシーをチャーターし、主だった観光ポイントを巡ることにした。ガイドはミホさん。39歳の日本人女性だ。昨年結婚したばかりだ。人口3,200の小さな島なので住民の誰とも顔なじみである。陽気で明るいミホさんはガイドにうってつけである。彼女は自らハンドルを握り島を巡ってくれた。
緑に埋もれた島内に1本の道路が走っている。簡易舗装か未舗装でかなり荒れている。対向できない箇所もあるが車は極めて少なく走行に支障はきたさない。人の姿はめったに見られない。サイパンの8割くらいの面積に3千少々の人しか住んでいないので人口密度はきわめて希薄である。たまに道路工事の現場に会うがあまり一生懸命働いているようには見えない。ミホさんの話ではテニアンの住民は働かないそうだ。働かなくても食うに困らないのだ。ミホさんは自家用にバナナを植えている。完熟期に入ったが食べ切れるものではないという。
この道路に米兵はブロードウェイと命名した。ニューヨークにあるブロードウェイからの引用だ。直訳すれば“広い道”の意だがとてもじゃないが広くはない。ほかにも○番アベニューのような名前もある。
ブロードウェイは南北に一直線に通じている。米軍の港は南にあり、空軍基地は北のほうにあった。港で揚陸した燃料、弾薬は膨大な量に上った。B29 1機が1回の出撃に要する燃料は2万リットル、ドラム缶100本にも上る。爆弾・焼夷弾は1機当たり7トン。これらを運ぶため道路が不可欠であった。幸い(米軍にとって)道路建設はいとも簡単であった。サトウキビ畑をブルドーザーで均せば終わりだった。島に大きな起伏はない。死んだ日本兵は作業を妨害しない。
昭和16年の統計では民間日本人が15,306人も住んでいた。そのほとんどが南洋興発の従業員であり砂糖の栽培・精製に従事していた。日本人以外には朝鮮人、チャモロ族、カナカ族が住んでいた。現在はサイパンと同じく砂糖生産はまったく止まっている。来島するまで少々は砂糖生産が続けられていると思っていた。採算が合わなくなったのか。
現在の人口3,200のうち、チャモロ族が70%を占め、次いでフィリピン人、韓国人、ロシア人となっている。日本人は僅かに11人に過ぎない。テニアンが一番繁栄を極めたのは戦前の日本統治時代である。
テニアンに公共交通機関はない。島民は移動手段としてマイカー、バイク、自転車を使う。「徒歩は?」と尋ねると「テニアンの人は歩かない。歩くのが嫌いなのです」という返事だった。マイカーやバイクを持たない人はもっぱらヒッチハイクを利用する。
人口3千程度の島だからみんな顔なじみなのだろう。古きよき時代の日本でも見られた隣人愛がこの島には残っているようだ。
初めに第一航空艦隊司令部を見る。鉄筋コンクリート造りの堂々たるビルだが、壁面は穴だらけだ。米軍機による機銃掃射の痕だ。崩落の危険があるため入場は禁止となっている。ここに角田中将が率いる強力な航空隊が配置されていたが、米機動部隊の度重なる空襲によりなすところなく壊滅した。猛将角田中将も玉砕時に自決した。艦上でなく陸で死ぬのはさぞ不本意であっただろう。
次に米軍の上陸した海岸、チュルビーチを見る。砂浜というより岩浜というのが適切だろう。珊瑚礁が固まった海岸はまるで溶岩が冷え固まったような岩が延々と続き歩きにくいことはなはだしい。油断をすると滑るのだ。浜に赤錆になった車輪が転がっている。上陸時に撃破された水陸両用舟艇の転輪だ。直径数十センチなのにびくともしないほど重い。
そばにキャタピラーの千切れたのも転がっている。非力な日本軍が命と引き換えに挙げた戦果の名残ともいえる。少し離れた陸上にもアリゲーター(鰐)と呼ばれる水陸上陸用舟艇の廃物が放棄されている。米軍も戦闘終了後、戦場掃除をしなかったようだ。
ブロードウェイに面して海軍通信所跡があった。鉄筋コンクリート2階建ての大きな建物である。ここも壁面は蜂の巣のように孔が開いている。それでも貫通痕は少なく建物全体はびくともしていない。重要施設なので鉄筋とコンクリートをふんだんに使って建てられたようだ。戦後は牛の解体作業場になったが、今は使う人もなく廃屋となっている。
ブロードウェイの両側は圧倒するような緑の壁である。米軍占領直後は爆撃と艦砲射撃で全島の緑は失われ、荒涼たる光景であった。米軍は緑を復活させるため飛行機からタガンタガンの種をまいた。この植物は繁殖力が強く瞬く間に島を緑が覆った。ただこの木は薪にするくらいの利用価値しかなかった。
ブロードウェイを走っている途中、バイク軍団に出会った。すは、暴走族かと思ったがそうではなかった。後ほどレストランで彼らと対面する。
次に見たのは潮吹き海岸である。打ち寄せた波が珊瑚礁の空洞に入り、しばらくすると別の穴から間欠泉のように海水が吹き上がるのでこの名がついた。ここの海岸も珊瑚礁が固まりごつごつした岩となり歩きにくい。珊瑚というから真っ白いものかピンク色の美しいものと思っていたが、石炭の燃え殻のような黒っぽい汚いものだった。
ただ海の水はきれいだ。透明度がすばらしい。人口が少ないため生活廃水の排出が少ないためだ。グァム島の海が一番汚く、続いてサイパンとなる、とミホさんの話。
ちなみにグァム島は面積549平方キロ、人口17万、サイパンは面積122平方キロ、人口7万に対しテニアンは面積100平方キロ、人口は3,200に過ぎない。
テニアンはかつて全島サトウキビ畑であった。島全体が飛行場の適地であった。米軍はこの島の戦略的価値を認識し占領と同時に巨大な飛行場を建設した。米軍特有の大型土木機械を駆使すれば滑走路の建設は朝飯前であった。島の北部に4本の滑走路が平行して建設された。2,600mの長大な滑走路はB29の離陸に十分と思えたが、燃料満タン、爆弾・焼夷弾を満載すれば離陸は容易でなく、海面に転落する事故も相次いだ。そのため滑走路は3,000mにまで延伸された。
マリアナ三島の中で面積は一番小さいがB29の集結機数は一番多かったのではなかったか。郷土の県都徳島市に焼夷弾の雨を降らせたのはこの島から発進した130機のB29であった。
テニアンの名が人類史上に残るのは、史上初の核兵器を搭載したB29の発進基地がこの島にあったからだ。
1945年8月6日、悪魔の兵器を積んだB29「エノラ・ゲイ号」、8月9日「ボックス・カー号」はテニアン基地を飛び立った。結果がどうであったか。世界人類をおののかせる歴史の転回点となった。
原爆搭載機発進記念碑はハゴイ空軍基地の片隅にある。当時の滑走路は緑に侵食されて大分狭くなっている。モニュメントはなぜかひっそり佇んでいるかに見える。
ガラス屋根に覆われたピットは、ガラス製の温室のような感じである。内部は掘り下げられ半地下室になっている。重量4トンを超える原爆を搭載するのに通常爆弾を積むときのようにクレーン車がB29 の下側に入れない。そこで地面を掘り下げB29 がその上に跨って爆弾を持ち上げ爆弾倉の収めたのであった。
爆弾のレプリカと作業に従事する整備兵の写真が展示されている。この爆弾にはリトルボーイ(ちびっ子)というニックネームがつけられていた。凶悪な意志を秘めた爆弾になんとも可愛い命名である。原爆は最高の軍事機密であったため、作業員は何も知らされていない。
「新型爆弾だ。慎重に扱え」くらいの命令が将校から出された程度だろう。その将校も詳しくは知らなかったはずだ。兵は自分が回すナット一つが何万の婦女子を殺傷することに通じるとは夢にも思わなかったであろう。さらに放射能の危険も知らされておらず、作業員の大勢が後年、放射線症に苦しむことになった。
国家権力とはつくづく非情なものだと思う。民主国家を標榜する米国にしても戦後、度重なる核実験の結果、マーシャル群島の島民や自国の将兵が放射能に冒されても無視する。湾岸戦争で使った劣化ウラン弾による後遺症を兵士は訴えたが、軍は取上げない。日本も悪名高い「731部隊」の細菌実験の結果、隊員が感染死亡しても闇から闇へ葬った。敵国民、自国民を問わず国民の生命は弊履のように扱われる。
リトルボーイから少し離れた場所に長崎に投下された「ファットマン(太っちょ)」の展示場がある。こちらは名前のとおり、ずんぐりとしたかぼちゃのような形を呈している。重量はリトルボーイより重く4.5トンにもなる。威力は当然広島原爆より大きいはずだったが、爆心地が中心部をそれたことと、山に遮られたため死傷者は広島市よりかなり少ない。わずかな救いであったといえようか。
原爆搭載機発進の地を記念して米軍の建てた記念碑がある。
碑文には「戦争を一刻も早く終わらせるため・・・」と刻まれている。勝者は一般市民の大量虐殺を反省することなく正当化している。この論法が通るのであればアウシュビッツも731部隊も正義になり得る。
昼食はアイランドガーデンレストランで摂る。マスターは岩下さん(通称ガンチャン、またはガンさん)という日本人である。岩下さんはサイパンで20年、テニアンへ移住して5年になる。レストランといっても近代的な欧米風のものではない。
日本人がきわめて落ち着ける雰囲気がある。先ほど会ったバイク軍団はすでに食事中であった。聞けば静岡県のすし屋さんのグループであった。バイクをレンタルし島を駆け巡っているのだった。ただ全員にバイクが当たらないので2人乗りをしていた。総勢10人以上はいた。
昨年もこの島を訪れたというから、みんな揃ってバイク好き、テニアン好きなのであろう。
この店にメニューには日本食が並んでいる。ラーメン、ざるそば、冷やしウドン、鰻丼、刺身、海老フライなど。次々に一人旅の日本人客が訪れる。
「こんにちは」「やあ、元気かい」
ガンチャンと客は顔なじみなのだ。テニアンを訪れる日本人の4割がリピーターという。格別目を惹くような雄大な景色があるわけでもない。それでも何か人を魅するものがこの島にはある。
濃緑に覆われた島、紺碧の海、透明度すばらしい海水。これらは日本では味わえなくなった。かつての日本にあった牧歌的な景観がノスタルジアをそそるのであろう。
そうしてテニアンへやってきた日本人の多くがガンチャンの店に顔を出す。勤め帰りのサラリーマンがなじみの居酒屋へ立ち寄るのと同じような気安さがある。
屋外レストランがまた楽しい。チャモロ風に椰子の葉っぱで屋根を葺き、数本の柱だけで建てた小屋掛けだ。風通しがよく直射日光は屋根が防いでくれる。照明設備も備わっている。夜ここで宴会をやればさぞ楽しかろう。
サンホセ村周辺でタガ遺跡を見る。ここはタガ・ハウスとも呼ばれる。古代チャモロ族が建設した石造建築物の跡である。ハウスというのはチャモロ族の酋長の家があったという伝説に基づいている。ところが現在では建物の痕跡は見られない。巨大な長方形をした石柱の上にお椀形の石が載っているだけである。タガ・ストーンと呼ばれるこの石の意味、用途、目的は不明である。建造物の土台石、宗教施設、墓石など諸説あるが古代チヤモロ族が絶滅したため知るすべはない。
この種の石造物はグァム島にもありラッテストーンと呼ばれている。マリアナ諸島に共通する文化遺産といえよう。トップヘビーのため危なっかしい感じがある。やはり台風のため石臼のような石は転がり落ち、まともに残っているのは1基だけである。
古代文明遺跡を見るたびに思うのだが、巨大な石をどこからどのようにして運んだのか不思議に思う。エジプトのピラミッドの石はナイル川の水運を利用して運んだものと想像はつく。マチュピチュはどうしたか。近くに石切り場があるのでそこから搬出したのはわかるが、山の上まで運んだ手段がわからない。
タガ・ストーンはテニアンから10km離れたロタ島から運んだようだ。しかし舟への積み下ろし、陸送手段がわからない。先述した酋長が怪力の持ち主だったので彼が運んだという説があるが、伝説の域を脱しない。
テニアンにしばしば猛台風が襲うと聞いて意外に思った。私たちは台風はマリアナ近海で発生した熱帯性低気圧が発達して日本を襲うものと知らされている。それならマリアナ諸島を襲う台風は、発生して間なしの赤ん坊の台風のように思う。事実はカロリン諸島付近の海域に発生した台風がテニアンに襲来するのであった。すさまじい威力があり家屋も樹木も根こそぎなぎ倒されてしまうそうだ。
ミホさんの話では猛台風のためサイパンからの航路が途絶え、食料が尽き保存食料だけで一週間を過ごした経験があったという。現地住民は家を失ってもそれほど悲観はしない。大家族制度でありみんなが助け合うので住むところには困らない。椰子で葺いた簡単な家は容易に復旧できるのだ。高さ数メートルもあるタガ・ストーンをなぎ倒す台風の猛威を初めて知ったことであった。
タガ遺跡から道路を挟んだ側に戦争遺物が転がっていた。戦闘機のエンジンと3翅のプロペラである。零戦のものかと思ったが米軍の飛行機だという。何でこんなものが主道路に面して廃棄されているのか。人里はなれたジャングルの中ではない。まるで不法投棄された粗大ごみのような印象であった。
ブロードウェイを走っているとき、ミホさんが急に車を止めた。
「ノニの木がありますよ」という。道路際に茂っている樹木の中から「ノニ」を見つけたのであった。このときまで「ノニ」とは何か知らなかった。「ノニ」とはアカネ科の8〜10cmほどの常緑小高木である。ノニは昔から内服・外用による健康への有用価値が認められている。
ノニは皮膚ガン予防、ダイエット効果、鎮痛・解熱作用・血圧安定、動脈硬化防止、シミ、しわの予防、糖尿病の予防効果、消化管の機能促進、虫刺され、切り傷、アトピーなどの皮膚疾患などにも効くそうだ。そのため現地では「神様の木」として珍重されている。医学的な臨床調査や科学的分析の結果、その効能が認められている。
その葉、茎、根など余すところなく薬用として利用されている。焙煎したものはノニ茶となる。レストランで試飲したが抵抗なく飲めた。糖尿病に効くというのでワンパック求めた。日本でも入手できるがかなり高くなる。
テニアンにもサイパンと同じようにスーサイドクリフがある。島南方のカロリナス岬から米軍に追い詰められた民間人が次々に身を投じた。ここの絶壁はサイパンのバンザイクリフよりさらに高く見下ろすと恐怖を催す。途中でひっかかるものはなく致死率100%だったという。
サイパンで死んだ民間人は約12,000人、テニアンははっきりしないが1,000人くらいだろう。両島の住民が相談したわけではないのに同じような自決の方法を採っている。鬼畜米兵と頭に叩き込まれていた。米兵に捕らえられると死に勝る屈辱を嘗めることになると婦女子は信じていた。米軍が何度も降伏するよう呼びかけたが通じなかった。ようやく南洋興発の所長夫妻の説得で大勢の民間人が投降したのはわずかな慰めである。
こちらにも慰霊碑がたくさん建立されているがサイパンのものと混同して記憶の中で区別がつかなくなった。申し訳ない話だ。
ホテルへ帰る。帰路の飛行機便までには時間があるのでプール遊びをする。大きく広いプールである。子供用は別にある。立派な設備なのに入っている人はわずか数人。日本人の若い男女が水中バスケットボールを楽しんでいた。
またセスナ機の乗客になる。離陸するとすぐテニアン、サイパン両島の姿を同時に目にすることができる。サイパンには人工の建造物が見えるが、テニアンは緑に覆われている。緑の中に引かれた直線は道路であるが、昨年1月に見たナスカの地上絵を思わせる。
両島は一衣帯水の間にあるが、海峡の潮流が激しくフェリーはかなりがぶられるのを覚悟しなければならない。飛行機10分、船45分と時間的には大差がないが飛行機を選んだのは正解だったようだ。
さようならテニアン。
テニアンには見るべきものがないと聞いていた。あまり期待を抱かず訪ねた島であったが心が癒される空間であった。機会があれば再訪したい気持ちがある。
テニアン玉砕
テニアンに米軍が上陸したのは昭和19年7月24日。隣の島サイパンは7月7日に玉砕している。米軍は息つく間もなくテニアンに襲い掛かった。上陸軍は精鋭第2海兵師団と第4海兵師団であった。両師団ともサイパン戦を終えたばかりであった。特に第4海兵師団はサイパンで27%に近い損害を出している。だが休息は与えられない。上陸作戦専用部隊である海兵隊は太平洋の各地で酷使された。それだけかれらの戦闘能力は高かった。
迎え撃つ日本軍にとってテニアンの地形ははなはだ不利だった。最高が標高130mの山しかない。平地に陣地は築きにくい。圧倒的な敵の火力に抵抗できる防備陣地もなかった。さらに米軍はテニアンで初めてなパーム弾を使用した。粗製ガソリンとパーム油を組み合わせた強力な焼夷爆弾である。地表で炸裂すると20秒間燃え続ける。高熱を発してあらゆる物を焼き尽くし、燃焼時に急激に酸素を消費するため焔を浴びなくても兵は酸欠で死亡する。
またナパームの炎は水をかけても消えない。後の朝鮮戦争、ベトナム戦争でも米軍は多用し猛威を発揮した。その残酷さから小型原爆とも呼ばれたこともあった。
サトウキビに潜む日本兵を焼き殺す兵器としてきわめて効果的であった。
日本はこの島を海軍航空隊の中継基地として使用していた。地上戦を想定していなかったため航空隊と少数の守備隊が駐屯していただけだった。
テニアンは防御側にとってきわめて不利な地形である。平坦な地形には堅固な陣地を築けない。米軍には楽な戦いであった。
日本軍の死者8,100、生存者313名。民間人の死者は判然としないが1,000を超えよう。これに対して米軍の損害は戦死389、戦傷1,816に過ぎない。日本側は米軍の30倍の死者を出している。ちなみに玉砕島には戦傷者は存在しない。負傷者は最終的に自決するからすべて戦死者に数えられる。
米兵は仲間の犠牲が少なかったせいか、降伏した日本人に親切であった。戦友が倒されると復讐心がたぎりたつのは戦場心理としていたし方あるまい。
再びサイパンへ
サイパン島「最後の晩餐」はバーベキューである。木炭を使うのがうれしい。民族舞踊を見ながらの食事だが、ダンサーのスタイルは失礼ながらたいしたことなかった。ずんぐりむっくりの姿であった。
1月23日
帰国の日である。NW便の出発は16:30なので午前中はフリーである。再度免税ショップ「ギャラリア」に案内される。ここで買い物をするつもりはない。
店内見物をほどほどに済ませて見落としているアメリカ歴史博物館を見学することにした。地図ではすぐ近くのように見えたが、歩くと意外に遠い。一生懸命歩いて
20分以上かかった。一本道のはずなのになかなか見つからない。
やっと「アメリカン ヒストリカル ミュージアム」の文字が見えた。広い敷地である。ここは米軍戦死者の慰霊設備でもある。星条旗が翻っている。
入場無料。内部はサイパンの歴史、日米戦闘の模様、保護された民間人の安堵の表情などを写した写真が主である。日本軍の兵器、三八式小銃、鉄帽なども展示されている。すべて米軍の視点で展示されているので日本人にとって愉快とはいえない。
日本人を労わる海兵隊員の姿は、支那事変当初、支那の子どもと交歓する日本兵の姿と重なり合った。米兵が鬼畜であったかどうかわからない。サイパン陥落後、赤ん坊が殺されるのを見たという生存者がある。女性への暴行事件もあったという。いずこの国の軍隊と同じく、米軍にも鬼畜と紳士が混在していたというのが真実だろう。
時間があればもっとゆっくり見学したかった。日本で発表されていない写真だけに一見の価値がある。それにしても入館者が少ない。結局私たち夫婦だけであった。
売店には出版物が多く並んでいた。日本で刊行されているものもあったが、ほとんどは初めて見る題名であった。そのうちの一つ「SAIPAN」を購入した。
マゼランが上陸した当時の古い歴史から始まって日本統治下のサイパンを写した珍しい写真も載っている。廃墟となったガラパン、赤ん坊を背負い、幼児の手を引き米軍に保護される日本人女性なども収められている。日英両文で書かれた本書はガイドブックを兼ねている。ただ日本語が変である。おそらく米人が翻訳したのであろう。
これでサイパンともお別れ。帰路のフライトは順調であり午後11時40分に帰宅できた。あの暗い時代、毎夜おびえたB29発進基地の島を午後4時半に出て当日自宅に帰れるとは時代の進歩を改めて感じた。
旅の所感
サイパン、テニアンは悲しい島である。陽光あふれる南のリゾート地として日本からも大勢の観光客が押し寄せている。空路わずか3時間半。時差1時間。2日3泊あるいは3泊4日で十分楽しめる。豊かな緑、透明度の高い海。ダイビングスポットは島の至る所にある。マリンレジャーを楽しむ若者にとって南海の楽園ともいえる。
欧米への旅と異なり、旅行客には若い男女が多かった。現役世代が長期の休みを取らず楽しめる格好の場所である。
だが忘れてはならない。グァム島を含めてマリアナ三島は日本人にとって血涙の歴史で彩られている。おびただしい民間人を道連れにしたこれらの島の玉砕後、日本は「銀色の魔鳥」と呼ばれたB29の蹂躙を耐え忍ぶしかなかった。最終的には悪魔の兵器の実験台の運命が待っていた。
なぜサイパン失陥後、講和の道を模索しなかったのか。近衛文麿、吉田茂などで水面下の動きはあったらしい。しかし陸海軍上層部は降伏を肯んじなかった。サイパンが落ちれば日本が勝つ可能性は完全にゼロとなった。いくら愚昧な軍人でもそれはわかっていたはずだ。だが責任を取るのを逃げた。陸軍は海軍を、海軍は陸軍の責任になすり合った。絶望的な戦いはこれからまだ一年も続いた。無意味無益な戦いであった。実史より1年早く終戦に持ち込んでいれば200万の人命を救えたであろう。
島の至る所に戦争遺跡がある。ジャングル奥深くには遺骨が今も風雨にさらされている。点在するトーチカが朽ち果てるのは何百年も先のことだろう。人類の愚行の痕跡を未来に人はどう解釈するであろうか。
旅行記は戦跡探訪が中心となった。島の歴史を考えれば当然となる。美しいビーチで騒ぐには数万の英霊に申し訳ない思いがある。
バンザイクリフに沈んでいる同胞は訪れる日本人に何を語りたいであろうか。
「楽しむのはいいけど俺たちのことも忘れないでくれよ」といいたいのではなかろうか。
紺碧の海に臨むあの崖に立てば、白波の砕ける音に混じって同胞の慟哭が聞こえるような気がする。
死者たちよ 安らかに眠らないでください
石棺を破って たちあがり 飽食の惰眠に忘却する生きている亡者を
はげしくゆすって よびさましてください
(栗原貞子 「ヒロシマ消去法」)より
平成20年1月6日 記
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